<三位一体後第2主日>

2020年6月21日()   礼拝説教
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「神から来る未来を信じるわたしたち」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書2:1−5

◆終末の平和

1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
2 終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。


2) 新約聖書
マルコによる福音書4:26-32



◆「成長する種」のたとえ

26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
◆「からし種」のたとえ
30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年6月21日

「神から来る未来を信じるわたしたち」

神の国のたとえ。
不思議なたとえです。
神の奇跡がもたらす神の国のたとえ。
イエス様はこの「たとえ」を、
このような言葉で始められました。

 神の国は次のようなものである。

続く「たとえ」でイエス様は、
神の国とはどういうものかを、
わたしたちに説明してくださったのでしょうか。
皆さんはこの「たとえ」を聞いて、
神の国がよくわかったと感じましたか。
たぶん、不思議さが増しただけでしょう。
イエス様の言葉自体は難しくありません。
理解できない難解な思想もありません。
小学生以上ならわかる言葉です。
だが、いったい、
この「たとえ」のどこが、
神の国の説明になっているというのでしょう。
「神の国とは・・だ」とさえ言われていません。
「神の国は」に続くのは、
定義でも説明でもなく、情景描写です。
わたしたちは畑で起きることを、
時間の早回しで見せられるだけ。
種が蒔かれるところから始まり、
芽が出て茎が育ち、
穂が生えてきて実ると、
農夫が刈り入れをおこなう。
その早回しの映像そのものを、
イエス様は神の国だと言われるのです。
「神の国とは、これこれのことだ」
そのように言ってくれたなら、
どれほどわかりやすいことでしょうか。
イエス様はそう言いません。
ごくありふれた畑の風景を、
早回しの時間で見せるだけなのです。
どうやらイエス様は、
神の国について説明してはいないようです。
それ以前に、
そもそも神の国とは何でしょうか。
マルコによる福音書によれば、
イエス様の最初の教えは、
「神の国は近づいた」(1:15)でした。
でも、そのときイエス様は、
神の国について何も説明せず、
なんの解説も加えませんでした。
ただ「神の国は近づいた」と言っただけ。
その時代にこの言葉を聞いた人たちには、
自明のことで意味がすぐわかったでしょうか。
いいえ、そうではなかったから、
イエス様のことを人々は理解せず、
反感を抱き、敵意を向けたのでした。
なぜ説明しなかったのか。
たぶん、数語で、数行で、
あるいは一冊の本や数時間の講義では、
とうてい説明など不可能な、
はるかに壮大で躍動感に満ち、
生き生きとした充実と豊かさに溢れる、
とうてい説明などできようのない、
神の世界そのものだからだと思います。
「たとえ」で語るしかない世界、
それが神の国です。
そんな世界を少しでも感じ取るために、
わたしたちには何ができるでしょうか。
困ったわたしは、
マルコ福音書の他の箇所で、
神の国について教えられている箇所を探し、
そして見つけました。
最初の「神の国は近づいた」という言葉と、
役に立ちそうな言葉があと二箇所ありました。
あるときイエス様は言われました。
「子供のように神の国を受け入れなければ、
決してそこに入ることはできない」(10:15)。
もう一箇所、
「財産のある人が神の国に入ることは、
なんと難しいことか」(10:23)。
なるほど、神の国は近づいて来るもの、
つまり今はまだ来ていなくて、
向こうから来るものだということです。
そして神の国は「受け入れる」べきもの、
つまり今はまだ受け入れていないものです。
さらに、神の国は「入る」べきもの、
つまり今はまだ入っていないものです。
三つのすべてに共通しているのは、
神の国は今ではなく、
やがて来るものであり、
これから現実になるものであり、
未来の望みだということです。
そして、もう一つ重大な事実があります。
神の国は人間の作り出すものではない、
という事実。
いったい、人類はこれまで何度、
人間の手で神の国を作ろうとして、
この世の地獄を作り出したことでしょうか。
わたしたちは人類の歴史を見れば、
その実例を幾つも見つけることができます。
神の国は人の手で作られるものではなく、
神が来たらせる国であり、
神から来る未来です。
そのことを心にしっかりと留めたうえで、
きょうのイエス様の「たとえ」を読み直すと、
この謎めいた「たとえ」が、
いったい何をわたしたちに告げるのかが、
少しずつ見えてくるはずです。
イエス様は言われました。

 神の国は、人が土に種を蒔き、
夜昼寝起きしていると、
種は芽を出して成長する。
だが、どうしてそうなるのか、
その人は知らない。
土はひとりでに実を結ばせ、
茎、穂、そして穂に豊かな実がなる。
実が熟すると、鎌を入れて収穫する。

人が成長させるわけではないのです。
人は種を蒔き、最後に収穫するだけ。
だから、この「たとえ」はしばしば、
神の国は人の関わりなしに、
かってに育つことものであること、
つまり、神の国は人と関係なしに、
勝手に来るものである事実を、
聞く人に悟らせるものと解釈されています。
しかし、ほんとうにそれだけでしょうか。
本当に、種を蒔く人は無関係だということが、
この「たとえ」の教えたいことでしょうか。
たしかに、農夫が種を発芽させるわけではなく、
農夫が成長させるわけでもなく、
まして農夫が穂に実を入れるのではありません。
だから「土はひとりでに実を結ばせる」という、
イエス様の言葉は真実です。
だが、もしそれだけだとしたら、
わたしたちはここで、
一つ見落としていることがあるように思います。
たしかに、農夫が成長させるわけではなく、
成長させるのは神の働き、
人の目にはそれは不思議であり奇跡です。
しかし、だからといって農夫は、
何もせず、何も関わらず、
ただ勝手気ままに生きているだけでしょうか。
もし、わたしたちが、
農夫をそのように考えているとしたら、
たぶん、農夫から怒られることでしょう。
なぜなら、農夫はたしかに成長はさせないが、
自分のすべきこと、できることを、
常におこない、働いているからです。
農夫は畑を手入れし、水をやり、
雑草を取り除き、成長を見て喜び、
働き続けています。
その労働の結果として、
収穫の喜びを迎えるのです。
種を芽生えさせ、成長させ、
穂に実を入れるのは神の働き、
それは神の奇跡。
しかし、農夫は自分の仕事を担い、
働き続けて生きています。
もし、イエス様がこの事実を、
神の国の「たとえ」の前提としているなら、
そして、それは間違いないと思うのですが、
なぜなら、イエス様は当時の農夫の仕事を、
よくご存じのはずだからです。
種を蒔いたら、その先、農夫は何もせず、
ただ寝たり起きたりしているだけ、
などとは考えてはいないはずです。
それがこの「たとえ」を語るイエス様の、
「たとえ」の前提であるとしたなら、
二つのことが明らかになります。
一つは、
神の国を来たらせるのは神のなさること。
もう一つは、
わたしたちには為すべき働きがあること、
つまり主イエスの教えを生きる、
ということが必要だと言うことです。
神の国は、神から来る未来です。
人間の手で作ることはできません。
神が神の国という未来を来たらせます。
わたしたちにできることは、
神から来る未来を信じて待ち望むこと。
そして、その国に入ることを願うことです。
でも、それだけではありません。
そのように未来を望み見て生きている間、
わたしたちは主イエスの教えられた、
愛と憐れみ深さを生きようと心がけ、
平和を作る働きをして生きてゆくことが、
わたしたち主イエスを信じる者の生き方です。
神の国という未来は、神から来ます。
そのことを信じながら、
わたしたちは種を蒔いたあの農夫のように、
自分の為すべき働きを担い、
自分の歩むべき生き方を続けてゆきましょう。



(以上)

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