<三位一体後第3主日>

2020年6月28日()   礼拝説教
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「神の国は一粒のからし種のよう」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
アモス書9:13−15

◆後の日の回復

13 見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き
ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ
すべての丘は溶けて流れる。
14 わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み
ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み
園を造って、実りを食べる。
15 わたしは彼らをその土地に植え付ける。わたしが与えた地から
再び彼らが引き抜かれることは決してないと
あなたの神なる主は言われる。


2) 新約聖書
マルコによる福音書4:30-34



◆「成長する種」のたとえ

30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
◆たとえを用いて語る
33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年6月28日

「神の国は一粒のからし種のよう」

イエス様は神の国を教えました。
しかも、「たとえ」で。
なんで「たとえ」で教えたのか。
それがわたしの疑問でした。
「たとえ」だとわかりにくいです。
もっと直接的にストレートに、
「神の国はこういうものだ」と、
はっきり教えてくれたらよかったのに。
「たとえ」で言われても、
謎が謎を呼ぶだけです。
きょうの「たとえ」を聞いて、
神の国がわかったと言う人は、
おそらくほとんどいないと思います。
だってイエス様は「たとえ」で語るだけで、
何の説明も定義もしていないのですから。
イエス様は神の国を語るにあたって、
とても謎めいた不思議な問いかけを、
聞く人々に投げかけました。
イエス様の言葉そのものを直訳してみます。
「神の国は何に似ているか」。
「神の国はどんなたとえで置きかえられるか」。
「似ている」とか「置きかえる」とか、
とても回りくどいように思います。
なにしろ、そのものを説明しないのですから。
イエス様は神の国とは何かを説明せず、
神の国についての解説もいたしません。
イエス様は神の国のことを、
わかりやすく教えることをしません。
どうしてでしょうか?
不親切だったからでしょうか。
すこしいじわるな所があったのでしょうか。
それとも、
「たとえ」で語るのでなければならない、
絶対的な理由があったのでしょうか。
たぶん、わかりやすく説明すること自体が、
神の国を的外れにしてしまうのでしょう。
わたしたちはたいていの場合、
勉強そのものは好きではないとしても、
学んだり教わったりするのは大好きです。
何か興味のある知識を教わりたいし、
その知識を「へー」と驚いたり感心したりして、
それを楽しみにするものです。
クイズ番組やおもしろ知識を提供する番組が、
テレビに溢れているのが良い証拠です。
さらには誰かにその知識を話したくなります。
人はいろいろな知識を蓄えたいと願い、
何かにつけて説明や定義を期待します。
そんなふうに説明や定義をしたがること、
それがしばしばキリスト教について、
わたしたちの抱える大きな問題です。
牧師は信仰について教えたがり、
教会に集い始めた人たちは、
信仰について学ばなければいけないと考え、
キリスト教は学ぶものだと思い込みます。
牧師もそう考えているから、
いっそう始末が悪いです。
その結果、多くの人々が、
わたしの信仰は定義に当てはまるかと、
思い悩んだりわからないと感じたりします。
そのはてに、わたしには信仰があるのかどうか、
疑問を抱いてしまうことにもなりかねません。
クリスチャンとはどういう人か定義付けして、
自分や他の人たちをその定義で量るから、
クリスチャンにふさわしいとか、
ふさわしくないとか自分や他人を裁き、
自分がクリスチャンの定義に当てはまると思えば、
それで満足してしまいます。
たとえ、この世と一体化してしまっていても、
そのことを気にもとめず、
天の国を目指す旅人であることから、
世の定住者になってしまっても、
クリスチャンであるという定義に合えば、
わたしは大丈夫だと思い込んでしまいます。
だが、信仰は条文ではありません。
クリスチャンだということは、
定義に基づいて決まることでもありません。
イエス様が信仰についてはもちろん、
神の国について説明も定義もしないのは、
たとえ説明の言葉を繰り返し、
定義を教えてそれを量りとしても、
そこには命が通うことはなく、
喜びも希望も生み出しはしないからです。
神の国は、説明でも定義でもありません。
神の国は物語であり、ドラマであり、
命の営みであり、生きることそのものです。
イエス様は神の国をたとえて言われました。

 神の国はからし種のようだ。

「からし種のようだ」と言われるとき、
そのからし種は静物画として描かれておらず、
一旦停止を押されて止められたまま動かない、
静止画像でもなく、
まして標本箱の中にじっと置かれたまま、
陳列棚に飾られる死んだ種でもありません。
そのからし種は生きています。
種を地に蒔くと、成長し、枝を張り、
鳥がその陰に巣を作ることができる、
その出来事、そのプロセス、
その物語そのものが、
神の国の「たとえ」だと言われるのです。
動き、息づき、成長し、鳥が宿る、
その生きているからし種の出来事、
それが神の国の「たとえ」です。
種が神の国なのではありません。
まして神の国は種が蒔かれる地、
すなわちこの世界のことでもありません。
神の国は「なにか」ではなく、
神によって引き起こされる出来事です。
神の国とは、この世界のことではありません。
世界がやがて神の国になるのではありません。
世界は人の手で神の国へと改良されません。
この世界がやがて神の国になると考える時、
人は重大な誤りを犯します。
自分たち人間の力や努力、
人間の知識や思想によって、
神の国を作ろうと考える誤りです。
呼び方が何であれ、
人類はこれまで繰り返して、
自分たちの手で、
自分たちのため、
自分の国のため、
自分の民族のため、
神の国を作り出そうとして、
侵略、征服、支配、差別、暴力を正当化し、
神の国とは対極の、
悪霊の国を作ってきました。
イエス様が物語る神の国の「たとえ」で、
なによりも明らかなことは、
この世界が神の国になってゆくのではない、
という事実です。
世界は神の国になってゆきはしません。
まして、人が世界を神の国にすることは、
断じてあり得ません。
だが、それだからといって、
人は何もできないわけではありません。
神の国は、種を蒔くことから始まるのですから。
蒔かれる種は、
この世界を神の国に変えはしません。
この世界は、種が芽生え、成長し、
枝を広げてゆく場所です。
そのことによって、
この地、すなわち世界は、
はたして大きく変わるのでしょうか。
わたしたちはそうならない現実を知っています。
古代のイエス様の時代と、
現代のわたしたちの世界、
はたして良い方に大きく変わったでしょうか。
問題は単純ではなく、
一面的な答えを出すことはできません。
古代と現代、
どちらの方が良いか、
どちらがいっそう神の国に近いと言えるのか、
わたしには答えはありません。
現代の方が良いと考える多くのことがあります。
人間の尊厳と人権の確立、
医学の発展、文化や技術の向上など、
古代にはなかった多くのことによって、
わたしたちは恩恵を被っています。
しかし、古代にはなかった、
破滅的な現実、悲劇、巨大な悪が、
現代世界に危機と恐怖をもたらしています。
大量破壊兵器、地球規模の汚染、
世界の温暖化、原子力の恐怖などが、
この世界全体を滅ぼしかねません。
キリストが来られた世界と、
現代のわたしたちの世界、
その現実はほとんど変わっていません。
西欧世界がキリスト教世界になっても、
その地は無慈悲と不正義に満ち、
持つ者と持たない者、
支配する人と支配される人は、
理不尽な仕方で存在し続けていました。
世界そのものは神の国にはならない。
それがキリスト教二千年の歴史が、
わたしたちに告げる真実です。
だから、神の国は神からしか来ません。
わたしたちが日毎に、
「御国が来ますように」と祈るのは、
神の国を来たらせるのは神だからです。
そんなことは、しかし、
イエス様は最初からご存じでした。
だから、イエス様は神の国を、
からし種の「たとえ」で物語られたのでした。
世界は神の国とは程遠く、
神の国に発展してゆくことも、
人がこの地に神の国を作り出すこともない。
そのような地に、
からし種は蒔かれて成長し、
枝を張り、鳥が宿り続けてきました。
この世界の中で、それが起きてきたのであり、
今もこのドラマは起き続けています。
この出来事、このドラマは、
わたしや皆さんと、
どんな関係があるのでしょうか。
神を信じて神に依り頼むこと、
信仰がわたしたちの内に芽生えることから、
この地で、このドラマは始まります。
そうだとしたら、
この地で信仰を抱いて生きるわたしの生涯が、
からし種のドラマなのでしょうか?
わたしが信仰者として生きていることが、
このドラマを生きているということでしょうか。
きっと、そうに違いありません。
もし、わたしたちがそう信じて、
信仰の喜びを育み、
神への賛美と感謝を心に拡げ、
わたしたち自身がなにがしかの仕方で、
鳥が宿ることのできるような、
小さな者への慈しみを、
心に留めて日々を生きてゆくならば。
あるいは、わたしたちが集っている教会が、
小さい群れではあっても、
この地に蒔かれ、生き続け、
ここで教会が息づいていることが、
からし種の物語なのでしょうか?
きっとそうに違いありません。
わたしたちがそう信じて、
ここで、この教会で、
信仰を証し、神を賛美し、
感謝を捧げ、喜びを分かち、
鳥が宿ることのできるような、
なにがしかの小さな者への守りと配慮を、
教会として生きようと願うかぎり。
そう、
神の国は一粒のからし種のよう。



(以上)

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