<三位一体後第4主日>

2020年7月5日()   礼拝説教
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「想定外のことをなさる主イエス」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
ヨブ記38:1−11

◆主なる神の言葉

1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
2 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
3 男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
4 わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。
5 誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。
6 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
7 そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた。
8 海は二つの扉を押し開いてほとばしり
母の胎から溢れ出た。
9 わたしは密雲をその着物とし
濃霧をその産着としてまとわせた。
10 しかし、わたしはそれに限界を定め
二つの扉にかんぬきを付け
11 「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。

2) 新約聖書
マルコによる福音書4:35−41



◆突風を静める

35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年7月5日

「想定外のことをなさる主イエス」

キリスト教の心臓部と言うべき、

もっとも大切なことは何か。

そう尋ねられたとしたら、

わたしはきっとこう答えるでしょう。

「主イエスが共にいてくださる」ことだと。

わたしたちの生涯はこの世を旅することである。

旧約聖書、新約聖書全体をとおして、

聖書は人が旅人であることを証言しています。

人類の始まりを象徴するアダムとエヴァは、

エデンの園を離れなければならなくなり、

故郷を喪失しました。

自分たちの力では二度とエデンに戻れない。

それが神の定めたことでした。

だから彼らはこの世の旅人となり、

その事実は全人類に及んでいます。

人はすべて旅人。

たとえどこかに定住して、

そこに何十年、幾世代と暮らしていても、

そこはこの世の故郷とは言えても、

魂の、あるいは永遠の故郷とはなりません。

永遠の故郷はこの世界の中にはありません。

だから人は、その生涯全体をとおして旅人。

たとえ誰か旅の仲間を得て、

いっしょに世を旅するとしても、

共に歩む旅はいつか終わる時が来ます。

だから人は究極において、

この世では孤独です。

主イエス・キリストが旅の同伴者となって、

主イエスと共に旅するのでないかぎりは。

そして、そうなるのです。

キリストがこの世に来られたのは、

人の罪をあがない、赦し、

ご自分とわたしたちを一つに結び、

キリストとのきずなのゆえに、

わたしたちを天に国籍を持つ者、

神の民として受け入れてくださり、

わたしたちのこの世の旅において、

主キリストが共にいてくださるためです。

キリストが共にいてくださるから、

わたしたちは孤独ではなく、

主イエス・キリストと共に生き、

キリストと共にこの世の旅を歩み、

キリストが共にいてくださる仕方で、

わたしたちはこの地上の生涯を終え、

キリストと共に天の御国、

わたしたちの永遠の故郷に行きます。

それまでのこの地上の生涯を、

キリストを信じるわたしたちは、

キリストと共に歩みます。

主キリストがわたしたちを見捨てたり、

離れていったりすることはありません。

しかし、

旅の同伴者、共におられる主イエスは、

実に想定外のことをなさる方です。

実際、イエス様の弟子たちにとっても、

主イエスは想定外のことをなさる方でした。

だって、イエス様は、

弟子たちと一緒に乗った舟の中で、

枕をして眠っておられたのですから。

イエス様はガリラヤ湖畔で、

弟子たちや群衆を教えていました。

夕方になって教えを終えると、

突然弟子たちにあることを呼びかけました。

「向こう岸に渡ろう」。

ガリラヤ湖に舟を漕ぎ出して、

向こう岸に行こうというのです。

夕方に湖に漕ぎ出すことは、

二つの意味で危険です。

一つは途中で真っ暗になるかもしれないこと。

もう一つは激しく吹き降ろす暴風が起きること。

ガリラヤ湖の地形が突風をもたらすのは、

良く知られていたことでした。

でも弟子たちはイエス様の指示に従い、

イエス様を舟に乗せて沖へと漕ぎ出します。

途中まで来た時のことです。

突然、激しい暴風に見舞われて、

波が沸き返り、舟を激しく揺り動かし、

乗っている小舟はひっくりかえりそう。

乗り込んでいるのはガリラヤ湖の漁師たち。

そうであれば舟を操るのはお手のもの。

湖に吹き荒れる嵐のことも知っているはずです。

しかし、今回の嵐はいつもと違います。

弟子たちの技術や力量をはるかに越える、

とても激しい突風でした。

小舟がひっくり返ってしまうと、

波に呑まれて溺れ死ぬかもしれません。

弟子たちは恐怖に襲われます。

必死で舟を操りますが、

とうてい手に負えるものではありません。

舟の縁や帆柱にしがみつきながら、

イエス様はどうしているかと見れば、

なんと想定外のことか!

イエス様は眠っているのです。

ついうとうとしてしまった、

というのとは違います。

枕をして寝ているのですから。

もう完全に眠るつもりだったのです。

この非常時になんということでしょう。

弟子たちが本当に助けを必要としているのに、

イエス様は熟睡モード。

弟子たちが助けを必要としているときに、

イエス様は眠っている?

弟子たちが驚き、怒るのも無理はありません。

自分たちのことを心配していないのか。

ほったらかしにするのか。

だから弟子たちの言葉には、

怒りが含まれていたに違いありません。

「先生、わたしたちがおぼれても

かまわないのですか」。

イエス様が共におられるのは、

わたしたちを助けるためではないのか。

そんな怒りの気持ちが伝わってきます。

ここで少し考えてみましょう。

「主イエスが共におられる」、

この事実を弟子たちはどう考えたでしょうか。

たぶん同じような状況に置かれたとしたら、

わたしたちが考えるであろうと同じことを、

弟子たちも考えたことでしょう。

イエス様が共にいてくださるのは、

自分たちを守ってくださるためだと。

イエス様が共におられるのは、

全ての禍を防いでくださるためだと。

イエス様が共におられるのは、

どんな時にも助けてくださるためだと。

そのはずなのに、

イエス様は舟の艫、つまり後ろの方で、

枕をして眠っているのです。

誰でも驚き、怒りを覚えることでしょう。

実際、思いがけない苦難や禍に遭うと、

わたしたちは神に助けを求めます。

そして速やかに、わたしたちの願い通りに、

神が助けを与えてくださることを期待します。

弟子たちもわたしたちも、

イエス様のことを、

いつも身辺警護をしてくれるボディーガードか、

あるいは守護神のように思い込んでいます。

あるいは旅の安全と快適さを保障するべき、

不眠不休の添乗員のような方だと、

勝手に決めつけています。

でもそうではないです。

共におられる主イエスは、

わたしたちが願ってもすぐに応答することはなく、

わたしたちが困った時に呼べば、

すぐに駆けつけてくれる警備員でもなく、

寝ずに見張りをしてくれる家来でもありません。

そのことを弟子たちは見せられたのです。

枕をして眠っておられる・・。

事実、わたしたちが困っても苦しんでも、

イエス様は速効で解決してはくれません。

だから、わたしたちは自分ですべきことには、

安直に神頼みにしたりせず、

自分で立ち向かわないで神のせいにしたりせず、

自分のなすべきことを、

最善を尽くして努力し、立ち向かいます。

それでも、イエス様は眠りっぱなしではありません。

起きてくださる時はあります。

わたしたちが自分の力を超える危機に直面して、

ほんとうに助けと支えが必要なその時、

主イエスがわたしたちのために起き上がり、

わたしたちのために最善を為してくださいます。

そのことをわたしたちは体験することでしょう。

きょうの聖書で、

わたしにはとても不思議な箇所がありました。

マルコ福音書は36節でこう書いています。

「ほかの舟も一緒であった」。

イエス様と弟子たちの乗った舟が沖にでます。

でも一艘だけではなかったというのです。

「ほかの舟」は複数形です。

ですから、少なくとも二隻以上です。

それらの舟に誰が乗っていたのかは、

マルコは何も押してくれません。

それが他の弟子たちであったのか、

群衆であったのかはわかりません。

複数の舟が一緒に向こう岸を目指しています。

ところが、激しい突風にあって、

「舟は波をかぶって、

水浸しになるほどであった」という時、

その舟は単数形、つまり一隻だけなのです。

いっしょに沖に出たはずの他の舟は、

嵐に見舞われなかったのでしょうか。

そんなことがあり得ますか?

あるいは、

嵐に遭った舟が単数形で表現されるのは、

イエス様と弟子たちが乗った舟を、

強調して読者に示すためでしょうか。

そうであれば、

「ほかの舟も一緒であった」などと、

そもそもどうして書く必要があったのか。

この記述は無意味なだけでなく邪魔です。

複数の舟が湖に漕ぎ出し、

しかし嵐に遭うのは単数形。

ここに意味があるはずです。

この嵐は、物理的な強風という以上に、

霊的な嵐の象徴ではないでしょうか。

わたしたちの教会は信仰共同体です。

同じ主イエスを信じ、

同じ天の故郷を目指し、

いっしょにこの世の旅をしています。

そこには主イエスが共におられます。

でも、みんなが同じ体験をするのではなく、

むしろ、ひとり一人の体験は異なります。

同じ教会の群れの中で、

喜んでいる人がいれば悲しんでいる人がいて、

元気な人がいれば病気の人がいます。

教会という旅の仲間の中でよく起きることは、

いっしょにこの世の旅をしているのに、

ほかの人たちは平穏で安全に旅をしていて、

自分だけ苦難と禍の嵐に襲われている。

そんな時があることです。

わたしたちは驚き、嘆き、

なぜわたしがと問い、

不公平に感じて神に苦情を申し立て、

イエス様に苦情を申し述べます。

「なぜわたしだけが」と。

そして怒りを込めて問い詰めることでしょう。

「わたしがこんなに苦しんでいるのを、

なにもせずに見ているだけですか」と。

いいえ。

わたしは信じているし、知っています。

その時、イエス様は起き上がり、

わたしたちにこう呼びかけることを。

「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」。

イエス様は問い詰めるのではありません。

途方に暮れて答えに詰まるわたしたちから、

なにかもっともらしい言い訳や、

釈明の言葉を要求しているのではありません。

わたしたちと共におられる主イエスは、

わたしたち自身以上に、

わたしたちのことをご存じだと思います。

主イエスはその肝心なときに起き上がり、

必要な、そしてもっとも益となることを、

わたしたちのためになさいます。

だから、わたしたちが苦難に遭う時は、

苦難に遭っていない他の人たちをねたんだり、

うらやんだりするべきではなく、

祈り支えてくれることを受け入れます。

また、誰かが苦難に遭う時は、

そうではない他の人々は、

苦難の中にある人に心を寄せて、

祈り支えます。

なぜなら、いつか必ず、

自分が苦難に遭う時が来るからです。

主イエスが起き上がって、

必要な助けと支えを与えてくださいます。

それが、わたしたちの期待通りなのか、

それともわたしたちの願いとは異なるのか、

それはわかりません。

イエス様が判断なさることですから。

弟子たちの場合は、

風を叱り、波を静まらせることでした。

しかし、イエス様は自動機械ではありません。

いつもその同じ反応をするわけではありません。

わたしたちが考えたり期待することと、

イエス様のなさることが一致することは、

きっとあると思います。

しかし、異なるかもしれません。

嵐を鎮め、病を癒すことを願っても、

主イエスがなさることは、

それとは違うかもしれません。

しかし、わたしたちは一つのことを確信します。

主イエスは共におられ、

ほんとうに必要な時に、

わたしたちの願望を叶える仕方でではなく、

わたしたちにとってもっとも益となる、

最善で最高の幸いを実現してくださることを。



(以上)

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