<三位一体後第6主日>

2020年7月19日()   礼拝説教
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「主イエスに触れるということ」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
エレミヤ書17:5−8

◆主に信頼する人


5 主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は。
6 彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく
人の住めない不毛の地
炎暑の荒れ野を住まいとする。
7 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。
8 彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り
暑さが襲うのを見ることなく
その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく
実を結ぶことをやめない。

2) 新約聖書
マルコによる福音書5:21−43


◆ヤイロの娘とイエスの服に触れる女

21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年7月19

「主イエスに触れるということ」

きょうの福音書が物語る場面は、
まるで人気のお祭でおこなわれる大行列のよう。
そんなふうに感じられた方も多いことでしょう。
イエス様と弟子たちが舟で向こう岸に渡り、
しばらくして戻ってまいりました。
すると、大勢の群衆が再び集まって来て、
イエス様を取り囲むのです。
大勢の群衆、それが何人くらいなのか、
残念ながらマルコは教えてくれません。
でも、六章を見てみると、
同じ湖のほとりで大勢の人が集まり、
イエス様がパンと魚を分け与えます。
そこには男が五千人いたと記されています。
女性は含まない人数です。
そうだとすれば、
おそらくこの時もそれくらいの群衆が来て、
イエス様の周りに群がったのでしょう。
ガリラヤ湖畔に一万人近く。
しかもみんなイエス様を見たい、
イエス様の言葉を聞きたい、
イエス様に病を癒してもらいたい、
そう願う人たちです。
当然のことながらひしめき合っています。
そこに、ヤイロという名前の、
会堂長の一人がやって来て、
イエス様に懇願するのです。
「娘が死にかけています。
来て両手を置いてやってください。
娘が助かり生きることができるように」。
こういう願いをイエス様が拒んだことは、
少なくとも聖書には書かれていません。
だからこの時もイエス様は行きます。
ヤイロといっしょに、彼の家に。
でも、その時どのような状態だったでしょうか。
数千人あるいはそれ以上の群衆が、
イエス様を取り囲んでひしめきあっています。
イエス様が動けばみんなが動きます。
ヤイロの家に向かおうとすれば、
大勢の群衆もまたいっしょに歩き出します。
歩くというよりもひしめきあって、
大きなかたまりのようになって動き出します。
群衆の中でもみくちゃにされながら歩む、
イエス様の姿が目に浮かびます。
そんな大混乱の道中のさなか、
その出来事は起きました。
ひとりの女性が群衆に紛れ込んで、
イエス様の後ろから近づいてゆき、
イエス様の服に触れたというのです。
ちょっと待ってください。
この時イエス様と押し合いへし合いしている人は、
いったい何人くらいいたでしょうか。
一人の人を大勢がびっしりと取り囲んだとしたら、
何人くらいが直接にイエス様と触れあうことか。
たぶん十人から十二人くらい?
押し合いながら入れ替わりもするでしょうから、
直接イエス様に触れる可能性のある人は、
数十人程度、あるいは百人くらいでしょうか。
そこに誰がいて触れたか、
そんなことは知りようがないです。
周囲にいる人たちはみんな同じように触れます。
違いは、意図して、目指して触れたかどうか。
でもそれは触れる人の心の内の、意志の問題です。
外見ではけっして知りようのないことです。
何十人もがイエス様に触れたり押したりしていて、
しかし、その中のひとりだけが、
はっきりと意図して、触れることを目指して、
人々をかき分けてイエス様に近づき、
手を伸ばして後ろから触れたのでした。
どうしてそんなことをしたのでしょう。
マルコはイエス様に意図的に触れた女性の、
その心の内をこう説明します。
「せめてこの方の服にでも触れれば、
癒されるに違いない、
そう彼女は言っていた」と。
そう、この女性はそう言っていた。
マルコはそのように描写します。
聖書には「言っていた」とは書いていない?
日本語では「思ったからである」と訳します。
でも、それは意訳です。
直訳すれば「そう言っていた」です。
なぜ日本語聖書が「思った」と訳したのか。
その理由はたぶんこういうことです。
「彼女は言っていた」では変だから。
ひとりでぶつぶつ言い続けて近づくのは、
たしかに尋常ではないです。
でも、間違いようのない仕方で、
マルコははっきりと、
「彼女は言っていた」と書いています。
だからそう訳すべきだと思います。
その時のこの女性の思い詰めた気持ちが、
よく表されています。
もうこの方に触れるしかない、
そうすればきっと癒されるに違いない。
そう思い詰めたこの人は、
ひとりぶつぶつとぶやきながら、
イエス様に後ろから近づいたのです。
そして、ついに手がその方の服に届きます。
その瞬間、はっきりと体で感じます。
苦しんで来た病が癒されたと。
このときの出来事は、
マタイとルカの福音書にもあります。
でも、どちらもとても短い記述です。
マルコだけが突出して、
この女性についての詳しい説明をしています。
十二年もの間、出血が止まらず、
あらゆる人間的な手立てを尽くした果てに、
治療費に全財産を使い果たし、
さんざん苦しめられたあげく、
病状は悪くなるばかりだったと。
彼女は財産のある親や自分に信頼しました。
彼女はたくさんの医者に信頼しました。
病を治すというあらゆる人に信頼しました。
人を信じることは必要ですし、
誰かを信頼することは大切です。
だれも信じない、だれも信頼しないという人は、
孤独で偏屈な生涯を送ることになるでしょう。
しかし、人に信頼できることには限度がある、
ということもまた、事実です。
そして、信頼に価する人であるとしても、
人は誤りを犯すものです。
わたしは大学でキリスト教概論を教えています。
学生のレポートをたくさん読みます。
多くの学生がレポートに書いてきます。
神に信頼するということが分からない。
あるいは、神に信頼する必要は感じないと。
では、彼らは誰を信頼するのでしょうか。
多くの学生が、自分の信頼するのは親だ、
友人だ、あるいは自分自身を信じている、
そのように書いてきます。
たぶん、みんな良い親の元で育てられ、
良い友人に恵まれ、
自分に対しても自信があるのでしょう。
それは素敵なことです。
だが、同時に未熟でもあります。
人に対する信頼には限界があるからです。
人に信頼して、わたしたちは生きています。
だが、人への信頼は絶対ではありません。
マルコは一人の女性が多くの人を信頼して、
その果てに破綻したことを告げます。
誰からも助けは来なかったし、もう来ない。
その現実がこの人を奈落の底に投げ落とし、
そして、イエス様へと駆り立てたのです。
「この方の服にでも触れさえすれば、
癒されるに違いない、
この方の服にでも触れさえすれば、
きっと癒されるに違いない」。
そうつぶやきながら。
人からは助けが来ないという現実が、
この女性をイエス様へと駆り立てました。
人からは助けが来ないという現実を、
はっきりと悟ったとき、
神の力を持つ方に依り頼んだのでした。
人からは助けが来ない。
人は真の拠り所とはならない。
そんな極限の体験は、
じつは聖書の中に満ちています。
きょう、詩編3編を交読しました
この詩人はこう嘆きます。
「わたしを苦しめる者はどこまで増えるのか」。
そして、神への信頼を歌いました。
「救いは主のもとにあります」。
きょうの旧約聖書で、
預言者エレミヤは人間に信頼する誤りを、
こんな過激な言葉で拒絶しました。
「呪われよ、人に信頼する者」。
自分自身に、王や支配者に、
あるいは自国や他国の軍事力に信頼し、
その果てに滅亡が訪れたことを、
エレミヤは嘆いています。
なんと、聖書の中にはたくさんの、
神に信頼せずに人に信頼することの、
みじめな結末が語られていることでしょう。
そんな極限の体験をし、
人に信頼して破滅的な結果に至るまで、
人は神に信頼することをしないものでしょうか。
聖書が人に信頼して破滅に至り、
その果てに神に信頼する人々を物語るのは、
聖書を読む人々、そしてわたしたちに、
聖書の出来事を教訓としてほしいからです。
わたしたちは、いつかそのような時が来ると、
想像し、予期することができます。
「わたしに限ってはそんな危機は訪れないし、
信頼する人々に裏切られることはない」、
そう思うとしたら、
あのイエス様に触れた女性の体験と重なります。
彼女は実際、長い年月、
人に信頼して全財産さえつぎ込んだのです。
彼女の体験から、わたしたちは学ぶべきです。
そもそも、わたしたちには事実として、
いつか極限の時が、
人への信頼が無意味になる、
そのような時が、
たとえば、死の時が訪れます。
「この方の服にでも触れさえすれば」。
そうつぶやいてイエス様に触れた女は、
わたしたちにこの世の現実と、
誰に依り頼むべきかを教えてくれます。
さて、イエス様はその時どうされたでしょうか。
ご自分から力が出て行ったことを知り、
触れた人を執拗なまでに見つけ出そうとします。
どうして?
弟子たちがイエス様に対して正論を述べます。
「群衆があなたに押し迫っているのが
おわかりでしょう。
それなのに、
『だれがわたしに触れたのか』
とおっしゃるのですか」。
弟子たちはイエス様の言葉に呆れます。
触れた人なんて数知れずいます。
だれが触れたかなどと問うのが間違いですと。
そうではないのです。
イエス様が探し出そうとしているのは、
切なる思いを込めて、意志的に、
求めて手を差し伸べて触れた人です。
わたしたちはともすれば、
一人くらいどうでもよいと思います。
世の中はいとも簡単に、
人をただの数字に変換してしまいます。
犠牲者は何百人とか、何千人とか。
わたしたちは大勢の中の一人を、
大勢の中に埋もれさせて、
ただの「一」にします。
何百人という人が集う教会では、
毎年何十人も洗礼を受け、
数年の内にその六、七割がいなくなっても、
数字の上で人数が増えていると、
成長している教会だと考えます。
何百人、何千人の中のひとり。
そんなことにこだわるのが変です。
そう弟子たちは言います。
でも、イエス様はひとりを捜し続けます。
いや、きっと、イエス様のことですから、
触れたのが誰かはご存じなのでしょう。
でも、問い続けるのです。
「わたしです」
「わたしがあなたを信じて触れました」
そう自分の口で言い表すまで。
主イエスに触れるということは、
そういうことです。
ただ触ってみて、
それでおしまいにはなりません。
イエス様と向き合い、
受け入れ、受け入れられることが必要です。
ひとりを探し求めて、
見出すまで、
その人が信頼を言い表すまで、
尋ね続ける。
それがわたしたちの主、
イエス・キリストです。
神はひとりをその他大勢にしてしまわず、
ひとりを数字の一部にしたりはせず、
この「わたし」を、
「あなた」を、
探し出して見出す方です。
なんのために?
この一言を告げるために。
「安心して行きなさい」。
告げられたこの女性は、
告げられるこのわたしは、
安心してひとりで行くのでしょうか?
いいえ。
心の内に共にいてくださる主イエスと共に、
わたしたちは安心して行くのです。
霊において共にいてくださる主イエスと共に、
この世の旅を続けるために。



(以上)

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