<三位一体後第7主日>

2020年7月26日()   礼拝説教
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「タリタ・クム」と告げられた少女   (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
エレミヤ書17:14−17

◆主に信頼する人


14 主よ、あなたがいやしてくださるなら
わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら
わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。
15 御覧ください。彼らはわたしに言います。「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい」と。
16 わたしは、災いが速やかに来るよう
あなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません。あなたはよくご存じです。わたしの唇から出たことは
あなたの御前にあります。
17 わたしを滅ぼす者とならないでください。災いの日に、あなたこそわが避け所です。

2) 新約聖書
マルコによる福音書5:21−43


◆ヤイロの娘とイエスの服に触れる女

21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年7月26

「タリタ・クム」と告げられた少女

きょうは、ひとりの少女に注目したいと思います。

少女の名前はわかりません。

父親の名前だけが知られています。

この少女は、会堂長ヤイロの娘であったと、

福音書記者マルコは伝えていますから。

もう一つわかっていることがあります。

この子の年齢は十二歳でした。

ちょっと不思議です。

昔のユダヤでは、女性の十二歳は、

婚約者を決める年齢でした。

決して少女とは言えません。

それなのになぜ、

父親もイエス様もこの娘を、

「少女」と呼ぶのでしょうか。

父親に至っては、こう訴えています。

「わたしの小さな娘が死にそうです」。

最後の最後で、マルコは、

少女が十二歳になっていたことを明かします。

それまでは一貫して少女。

弱く、はかなく、まったく無力で、

死の床にある娘を哀れに思う心が、

少女という表現になったのでしょうか。

わたしたちが注目するこの少女自身は、

この時なにもしてはいません。

ただ、じっと床に横たわっているだけ。

なぜなら、死にかけているのですから。

父親のヤイロが、

病を癒し、悪霊を追放する力があるという、

イエス様の噂を聞いて駆けつけます。

そして、娘を助けたい一心で、

必死にイエス様に頼み込むのです。

ヤイロの願いを受け止めたイエス様は、

ヤイロといっしょに家へと向かいます。

だが、事はそう簡単ではありません。

信じられない人数の群衆が取り囲んでいて、

イエス様の動きに合わせて動くからです。

大群衆がイエス様を取り囲み、

押し合いへし合いしながらの移動です。

歩みは遅々として進みません。

ヤイロひとりが気をもんでいます。

「もっと早く急いで、みんなどいてくれ」と。

しかし、さらに悪いことに、

一人の娘がイエス様の背後から近づいて、

イエス様の服に触れたというのです。

大勢がイエス様に触れたり押したりしています。

誰が触れたかなど、わかるはずはなく、

どうでもよいことではないのでしょうか。

いいえ。

イエス様にとっては重要なことでした。

ひとりの人が心からの願いと求めを込めて、

自ら手を伸ばしてイエス様に触れた、

いや、イエス様とつながろうとしたのです。

そんな人をイエス様は無視するはずはなく、

まして放置して通り過ぎるはずがありません。

願いを込めてイエス様に触れた人は、

イエス様とはっきりつながるべきです。

そうしてはじめて、

イエス様とのきずなが生まれるからです。

だからイエス様は尋ね続けます。

「だれがわたしに触れたのか」と。

触れた人が「わたしです」と名乗り出て、

イエス様とのきずなを確かにするまで。

でも、ヤイロにとってはどうでしょうか。

誰が触れたかなどということは忘れて、

一刻も早く来てほしいだけです。

思い通りになってくれないイエス様。

願いをすぐにかなえてくれない神さま。

祈りがすぐに聞かれない現実。

わたしたちが体験することです。

仕方がありません。

天の父なる神はわたしたちのしもべではなく、

わたしたちはイエス様の主ではありませんから。

まったく逆で、

わたしたちが神のしもべであり、

イエス様がわたしたちの主なのです。

だから、主権は神とイエス様にあります。

ヤイロはいらいらしながらも、

イエス様がなさることを見届けようと努め、

忍耐して待ちます。

でも、そこに情け容赦のない知らせが来ます。

「お嬢さんは亡くなりました。

もう先生を煩わすには及びません」。

ようするに、

今から来てもらっても無駄ですと言うのです。

「お嬢さんは亡くなられた」。

もう取り返しのつかない、

手遅れの事態になりました。

ヤイロの努力も懇願も水の泡。

もう来てもらう意味はなくなりました。

死んだらおしまい。

時代も文化も人種も超えて、

全人類に共通の真理です。

その時、しかし、

イエス様が言葉を発します。

使いの者にでも群衆にでもなく、

ただ一人会堂長に向かって。

「恐れるな、ただ信じなさい」。

いったい何を信じろと言うのでしょう。

死が無敵の勝利者だと信じる?

それとも、娘は救われることを信じる?

確かなことが一つ。

イエス様は死んだ娘が、

そのまま死んで葬られて終わるのではない、

そう告げているのです。

ここから群衆も弟子たちも来させず、

ヤイロと三人の弟子だけを伴って家に行きます。

家に着くと、人々は大声で泣き喚いています。

その時イエス様は信じられない言葉を告げます。

「子どもは死んだのではない、眠っているのだ」。

それを聞いた人々は、「イエスをあざ笑った」。

マルコはそう伝えています。

とても奇妙です。

今の今まで悲しみに泣き喚いている人が、

その直後にあざ笑ったりできるでしょうか。

ここにわたしは違和感を覚えました。

悲嘆に暮れている人が、

おかしなことを聞いたからといって、

あざ笑ったりできるものでしょうか。

その理由は、マタイ福音書の記事を見ると、

なるほどと納得がいきます。

マタイは同じ物語を伝えるなかで、

「笛を吹く者たちや騒ぐ群衆がいた」

そう物語るのです。

ユダヤにはある風習がありました。

葬儀の時、悲しみを演出するために、

お金を払ってある人々を雇ったのです。

悲しみの笛を吹く演奏者や、

大げさに泣いて悲しみを人々に要求する、

泣き女と呼ばれる人々を。

彼らは心底から悲しむのではなく、

悲しんでいるふりをすることで、

嘆きの深さを演出するのが仕事でした。

だからイエス様の変な言葉を聞いた時、

すぐにあざ笑うことができたのです。

不謹慎だと怒るのではなく、

あざ笑った。

死に対する人間の絶対的無力さの現実を、

わたしたちは彼らの笑いの中に感じます。

死を否定することが、

荒唐無稽な、愚かな、滑稽な言動であり、

軽蔑を込めた笑いを引き起こすだけです。

少女の死を前にして、

心底悲しんでいる人も、

悲しんでいる演技をしている人も、

だれもが等しく知っている事実とは、

死が終わりであり、

死は万人に対する無敵の勝利者である、

という現実です。

やがて自ら死に、

神の力によって復活させられることで、

死を滅ぼすことになる、

イエス・キリストただ一人を除いて。

両親と三人の弟子だけを伴って、

イエス様は子どものいる所へ入り、

子どもに触れ、手を取って、

少女に呼びかけます。

そのイエス様の言葉そのもの、

当時イエス様や人々が使っていた、

アラム語の言葉そのものを、

マルコ福音書だけが伝えています。

「タリタ・クゥム」。

ギリシア語世界の読者も、

わたしたちもアラム語は知りません。

だからマルコは翻訳してくれました。

「少女よ、わたしはあなたに言う、

起きなさい」。

娘は起き上がって歩き出しました。

この出来事は、

食べ物を与えなさいという、

イエス様の言葉で終わります。

それから、どうなったのでしょうか。

これで福音書の物語は終わります。

だが、少女は終わりません。

ここから、彼女の命が始まります。

だから、その後があるはずです。

この娘はそれからどうなったでしょう。

否、もっと正しい言い方にしましょう。

この娘はそれからどうしたでしょう。

死んで生き返った人という評判が立ち、

人々から好奇の目で見られ、

それで終わったでしょうか。

それとも、イエス様の名前を、

彼女はずっと身に帯びて生きたでしょうか。

たしかなことは、

この女性が死ぬ以前の日々に戻ることは、

決してあり得なかったということです。

イエス・キリストに触れられ、

タリタ・クゥムと告げられた出来事は、

その時だけのことでは終わらず、

その時から後ずっと、

この女性の生涯を方向付け、

決定づけたはずです。

この一人の少女の体験は、

わたしたちの魂の体験、

わたしたちの霊的な体験と重なります。

主イエスを信じるということは、

主イエスに触れられて、

こう告げられることに他ならないからです。

「わたしはあなたに言う、起きなさい」。

イエス様が使われた言葉、

「起きなさい」という動詞は、

「目覚めよ」「立ち上がれ」「起き上がれ」

という意味と同時に、

「復活させられよ」という意味があります。

主イエスが少女に呼びかけた言葉は、

主イエスに引き起こされて歩むことであり、

死から復活させられることであり、

主イエスとのきずなを生きることでした。

わたしたちが信仰を持つということ、

主イエスを信じるということは、

主イエスに触れられて、

「起きなさい」と呼びかけられて、

主イエスと共に立ち上がって歩むことであり、

わたしたちもまた、死の後、

主イエスによって復活させられる、

その望みを与えられることです。

だから、今やわたしたちも、

主イエスによって引き起こされ、

復活の望みを抱いて、

今とこれからを生きてゆくのです。

霊において共におられる、

主イエスといっしょに。



(以上)

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