<三位一体後第8主日>

2020年8月2日()   礼拝説教
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イエス様に驚かれないためには   (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書55:6−7

◆御言葉の力


6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
7 神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば
豊かに赦してくださる。

2) 新約聖書
マルコによる福音書6:1−6


◆ナザレで受け入れられない

1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年8月2


イエス様に驚かれないためには


イエス様が故郷の町ナザレを離れてから、

どのくらいの月日が過ぎたでしょうか。

ヨルダン川に行ってバプテスマを受け、

そこから郷里に戻ることはありませんでした。

ガリラヤ湖畔で漁師をしていた四人を始め、

弟子たちを集めて、

ガリラヤ湖畔の町カファルナウムを中心に、

各地で教えを宣べ伝え、

病を癒し、悪霊を追放してきました。

しかし、きょうの福音書によると、

イエス様はいったんそこを離れて、

郷里の町に行くことにしたのでした。

なぜ、なんのためなのか、

福音書は郷里に行った理由を伝えません。

どのくらい久しぶりの故郷でしょうか。

イエス様がガリラヤ湖や周辺の町や村で、

教えを宣べ伝えていた期間を考えれば、

そんなに長い時間が過ぎたとは思えません。

せいぜい数ヶ月でしょうか。

しかし、短い期間なのに、

郷里を出た時と里帰りをした時とでは、

決定的に違うことがありました。

郷里を出た時には一人でひそかに離れました。

見送りも盛大なエールもなく、

家族さえ知らない間であったと思います。

出て行った時は大工職人でした。

ところが、戻って来ると、どうでしょう。

まったくの様変わり。

弟子たちを幾人も従えて、

安息日には会堂に入って人々を教えます。

わずか数ヶ月でこの違いです。

いったい何がそうさせたのでしょうか。

おそらくはこの時までに、

イエス様の噂はナザレの人々にも届き、

人々は噂に噂を重ねていたことでしょう。

そこに当人が戻って来ます。

弟子を引き連れて。

会堂で教えを聞いた人たちが、

どれほど驚いたことか、

わたしたちにも想像がつきます。

「これらの言葉は、

いったいどこからこいつに来たのだ?」

「この知恵や力あるおこないは、

いったいどうしたことだ?」

人々が知っているイエスとは、

全く別人としか思えません。

しばらく離れている間に、

いったいこのイエスに何が起きたというのか。

彼らがこんなにもひどく驚いたのは、

自分たちの良く知っているはずの人だから。

みんなでひそひそがやがや、

やがて大声で言い出すのです。

「この人は大工職人ではないか、

マリアの息子ではないか。

ヤコブとヨセ、ユダとシモンの兄で、

妹たちも村で一緒に住んでいるではないか。

こいつに何が起きたというのだ?」。

彼らは誰一人として、

イエス様の教えのすばらしさや、

力あるおこないを否定してはいません。

むしろ、腰を抜かすほどに驚かされたのです。

だから感嘆の叫びを上げ、

なんと不思議なと首をひねります。

「あのイエスちゃんが、

こんなすごいことを教えたり、

おこなったりするようになるなんて」。

イエス様の言葉はもっともです。

「預言者が敬われないのは、

自分の故郷、家族の間だけだ」。

なるほど、わたしにも覚えがあります。

わたしが牧師になった後、

故郷に戻って教会に行くと、

牧師や教会の人たちが言うのです。

「学ちゃん」。

それでもイエス様よりはましだったかも。

わたしは教会で説教しませんでしたから。

だが、イエス様に起きた出来事の背後には、

実はとても重要な真理が隠されています。

それは、

知識として知ることと、

信じて受け入れることとには、

大きな違いがあるという真理です。

わたしたちはよくこんな思い込みをします。

そのことについてわたしは良く知っている。

本当にそうでしょうか。

往々にして、

そうした知識は表面的であり、

深い人格的な理解ではありません。

それは熱心なファンが、

自分の好きなアイドルについて知っている、

と思い込むのに似ているかもしれません。

ナザレの村の人々は、

イエス様について良く知っていると考えました。

本当はどうだったのでしょうか。

たしかに家族のこと、生い立ちのこと、

見た目や振る舞いや様子は知っています。

でも、もっとも肝心なことについては、

知っていたでしょうか。

この時、イエス様は福音を宣べ伝え、

神の救いの訪れを告げ知らせ、

救い主としての働きを始めていました。

ナザレの人々はそのことを知りませんでした。

それは無理もないことです。

なぜなら、

人は何事であれ、

最初から全部を知っているわけではなく、

後から知るようになることは多いですから。

むしろ、もっとも肝心なこと、

本当に大切なことは、

後から知るようになるものです。

でもそのとき、もしわたしたちが、

そのことについては良く知っている、

そう思い込んでいるなら、

知らないことがある事実を認めず、

もう充分に知っていると思い込んで、

新たな理解、新たな認識を受け入れず、

理解しようとしなくなるでしょう。

イエス様の郷里の人々がそうであったように。

そう、彼らはイエスについて知っていました。

でも、知らなかったことで、

その日その時にはじめて明らかにされた、

もっとも肝心なことがありました。

自分たちの間で育ち、働き、生活してきた、

マリアの子、ヤコブとヨセ、ユダとシモンの兄弟、

ナザレの村のイエスという方は、

いまや人々に福音を告げ知らせ、

神の救いの道を世に表す、

神の御子、世の救い主だということが。

ナザレの人々がすべきことは、

この人をよく知っていると思い込むことではなく、

わたしの主、救い主として信じ、

受け入れることでした。

信じて受け入れることなしには、

どんなに知識として詳しく知っていても、

無意味であり役には立ちません。

知識は信仰の助けにはなるでしょうが、

信仰の代わりにはならないからです。

だから、郷里のほとんどの人は、

信じることをしませんでした。

だから、

イエス様は彼らの不信仰を驚いたのでした。

結局、こういうことです。

わたしたちが信じて受け入れるのでなければ、

イエス様はわたしたちの不信仰を驚くでしょう。

わたしたちはイエス・キリストについて、

知るのではなく、信じて受け入れます。

信じて受け入れる時、

わたしたちは三つのことにおいて、

変えられることになります。

この三つの変化こそ、

わたしたちがキリスト者であることの証です。

第一に変えられることは、

わたしたちが何を希望として生きるかです。

キリストを信じるわたしたちは、

この世の富を、この世の繁栄を、

この世の快楽を、この世の成功を、

生涯をとおしての希望とはしません。

わたしたちの望みは天にあります。

神の国がわたしたちの故郷であり、

生涯の最後に天の御国に行くことを、

わたしたちの望みとして生き、

その途上で神の義と平和を望みます。

第二に変えられることは、

わたしたちがどのような生き方をするかです。

キリストを信じるわたしたちは、

この世の定住者であることをやめて、

約束の地、神の国を目指して世を旅する、

旅人としての生き方をする者へと、

招かれ、そのように生かされています。

第三に変えられることは、

わたしたちが何を願いとして生きるかです。

わたしたちは誰かを犠牲にして、

自分が得をすることを願いません。

誰かを苦しめて喜ぶことを願いません。

わたしたちは他の人に冷淡になり、

悲しむ人に無関心であることを願いません。

神がわたしたちを愛し憐れんでくださった、

そのように、

わたしたちは神の愛と憐れみを生きることを、

わたしたちの願いとして生きる者へと、

わたしたちは変えられます。

キリストを信じて受け入れる人は、

この三つの変化を、

自分の体験として、

自分の信念として、

自分の喜びとして、

この世の旅を続けて行きます。

もしそうでないなら、

わたしたちはイエス様に驚かれるでしょう。

「きみはわたしを知っているかもしれないが、

わたしを信じて受け入れてはいないのか」と。

いいえ、

わたしたちはイエス様を信じて受け入れ、

あなたと共にいま世を旅しています。

そう答えたいものです。



(以上)

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