<三位一体後第9主日>

2020年8月9日()   礼拝説教
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キリストに従う人の生き方   (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
出エジプト記3:1−10

◆モーセの召命


1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。
2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。
3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、
5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

2) 新約聖書
マルコによる福音書6:6−13


◆十二人を派遣する

6そして、人々の不信仰に驚かれた。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 
7そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 
8旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、 
9ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
10また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。 
11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」 
12十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年8月9

キリストに従う人の生き方

イエス様が教えを人々に宣べ伝える方法は、

各地を巡り歩いて会堂や広場で教える仕方でした。

その様子をマルコは、このように伝えています。

「イエスは付近の村を巡り歩いて

お教えになった」。

福音を宣べ伝えるイエス様の旅について、

この記述は証言しています。

イエス様はこの旅を一人でしたのではありません。

弟子たちもイエス様に従ってゆきました。

弟子たちにご自分の生き方を体験させ、

何をどのように教え、

何をおこなうのかを学ばせるためです。

そうしたうえでイエス様は、

村を巡って教えを伝える旅から戻ると、

弟子たちの中心である「十二人」を呼び寄せて、

彼らを福音宣教の旅へと遣わしたのでした。

単独ではなく、二人一組で。

この時イエス様は彼らに、

ある具体的な命令を告げました。

パンも荷物袋も持たず、

お金を帯の間に入れることもせず、

下着は着ている一枚だけにしなさい、

重ね着してはいけない。

一本の杖だけを持って、

足にはサンダルを履いて、

さあ、出発しなさい!

そして旅先で受け入れてくれる人がいれば、

次の旅立ちまでその家に留まりなさい。

まったく必要最低限しか持ってはならず、

宿の予約も入れてはならない。

そもそも宿になど泊まることはできません。

お金は持っていかないのですから。

行った先の村で好意を示してくださる人の家、

そこがかれらの滞在場所になる。

それがイエス様の指示でした。

このイエス様の命令を、

皆さんはどう感じましたか。

「ああ、こんなことはわたしには無理」。

「これではわたしは弟子になれない」。

それが実感ではないでしょうか。

現代のわたしたちからすれば、

イエス様のこの命令は、

あまりに過激で常識離れしています。

古代の人々はたぶん少し違ったでしょう。

なぜなら古代の世界では、

各地を旅して回る巡回預言者や、

旅しながら教えを説く自称哲学者たちは、

案外大勢いて、

彼らはイエス様が語るような仕方で旅をし、

それなりに生活していたからです。

そもそもイエス様ご自身も、

各地の村を巡って教えを宣べ伝えたのは、

そのような方法であったと思います。

わたしには無理、できっこない。

そう決めつける前に、

イエス様のこの命令が何を意味するのか、

そのことを考えてみましょう。

イエス様の指示は

キリストの弟子であることの本質、

キリストに従うということの意味を、

明らかにしています。

そうであるとしたら、

イエス様のこの言葉を、

「わたしには無理だ」というだけで、

簡単にごみ箱に入れるわけにはいきません。

なぜなら、すべてのクリスチャンは、

キリストの弟子として招かれているからです。

わかりやすく簡潔に言いましょう。

キリストを信じるとは、

キリストの弟子になることです。

わたしも、皆さんも。

そしてキリストの弟子であるということは、

キリストによって遣わされるということです。

キリストによって旅へと派遣されている。

それがわたしたちクリスチャンです。

なぜ礼拝の最後に派遣の言葉があるのか、

その意味がこれでおわかりでしょう。

わたしたちは礼拝のたびに、

イエス様によって世に遣わされるのです。

残念なことに、

いや、むしろ嬉しいことに、

この旅はただの観光旅行ではなく、

無目的の放浪の旅でもありません。

目的をもって遣わされる旅です。

わたしたちの生涯全体がそういう旅です。

わたしたちはある時から、

キリストによって旅へと召され、

旅人として世に派遣されている、

そういう生涯を今生きています。

この旅は一部の人を除いて、

物理的な旅というわけではありません。

伝道者として召された者は、

主の御心に従って行けと言われれば行き、

留まれと言われれば留まります。

牧師は物理的な意味で旅人です。

数年で別の土地に旅立つ牧者がいます。

生涯のうち五度、六度、十度、

働く場所が変わる牧者がいます。

わたしたちのように一箇所に長く留まる、

そのような牧者はむしろ例外的です。

でも、物理的な旅はないとしても、

キリストを信じる者は皆、

例外なく旅人です。

この世の定住者であることから呼び出され、

天の御国を目指す旅人として、

この世を旅する神の民とされています。

実際に物理的に移動することはなくても、

霊的な意味でみんな旅人です。

皆さんもその例外ではありません。

キリストによって、

それぞれの生活の場へと旅立たせられ、

週毎に、礼拝のたびに、

この世の旅へと送り出されてゆくのです。

もし皆さんが旅する民であるなら、

旅に必要なものはなんでしょうか。

「もしかしたら必要になるかも」は外して。

「あったらいいかも」も除いて。

本当に必要なものは何でしょうか。

なくてはならない最低限のものは?

イエス様は弟子たちを宣教の旅に送り出す時、

必要不可欠な、

本質的な、

どうしてもなくてはならないものを告げました。

それは、

一本の杖とサンダル。

そして(二枚ではなく)一枚の下着、

(上着は前提です)

それだけです。

弁当は、バッグは、財布は?

それらはなくてはならないものには入りません。

なぜなら、行く先で人々が提供するからです。

これではもう絶対に、わたしには無理。

イエス様に従う人にはなれない。

それが現代のわたしたち大多数の気持ちです。

どうして現代のわたしたちは、

とうてい無理だと思うのでしょうか。

たぶん、わたしたちはたくさんのものを持ち、

すごい資産家だからです。

こんな話が福音書にあります。

ある人が旅に出ようとするイエス様に尋ねました。

「永遠の命を受け継ぐには、

何をすればよいでしょうか」。

イエス様の答えはこの人には厳しいものでした。

「行って持ち物を売り払い、

貧しい人々に施しなさい。

それからわたしに従いなさい」。(マルコ10章)

この人は悲しみながら去って行きました。

その理由をマルコはこう説明します。

「たくさんの財産を持っていたからである」。

わたしたちはこの人の気持ちが良くわかります。

なぜなら、たくさんの財産を持っているから。

そうであれば、

財産のあるわたしたちには、

イエス様の命令は不可能に近いのでしょうか。

イエス様の言葉を絶対的な命令と受け止めるなら、

わたしたちはこの資産家と同じように、

悲しみながら去るしかありません。

でも、イエス様と出会った人々も、

初代の教会の人々も、

世々の神の民も、

みんながみんな、財産の放棄を要求され、

すべてを捨ててきたわけではありません。

憐れみ深さと施しは大切にされましたが、

全てを投げ出すことは、

絶対的な義務ではありませんでした。

そうであるとしたら、

弟子たちに対するイエス様の命令は、

別の本質的な意味を持つと考えるべきです。

わたしたちに本当に必要なものは何か。

そのことを象徴的に考えさせる言葉を、

イエス様は告げたのではないでしょうか。

わたしたちは間違いなく物を持ち過ぎています。

しかも、持ち物に執着し過ぎています。

たくさん物を持ち、財産を所有し、

それらに執着すればするほど、

わたしたちは物や財産と一体化してしまい、

富や財産のあるところに、

つまりこの世に縛り付けられ、

この世から動くことがないし、できない。

それは、旅人ではなく定住者の姿です。

わたしたちはたくさんの物や事に繫がれ、

縛り付けられて自由を失っています。

物理的な財産や富、資産や職業、

霊的な名誉や自慢、民族、国家、血縁などが、

わたしたちにのしかかっています。

それらへの執着から自由にされることが、

旅する神の民にされたということの意味です。

旧約聖書にヨブ記という文書があります。

ヨブは莫大な資産を持つ金持ちでした。

ところがあるとき、

一瞬にしてすべての財産を、

子どもたちをさえも失います。

すると友人たちが来て口々に言うのです。

お前がこんな不幸に遭うのは、

お前に罪があるからに違いない。

友人たちの考えの根底にあるのは、

この世に資産を築いて、

この世で繁栄して、

この世の定住者になることこそが、

神の祝福だということです。

それに対してヨブは全力で反論します。

「わたしは裸で母の胎を出た。

裸でそこに帰ろう。

主は与え、主は奪う。

主の御名はほめたたえられよ」。(ヨブ記1章)

ヨブは知っています。

神の民はこの世では旅人なのだと。

富を得ることも、失うこともある。

変わらないのは神をほめたたえることです。

わたしたちがこの世で所有しているものは、

それが物理的な財産であれ、

霊的な誇りや高ぶりであれ、

わたしたちの旅にとって本質的ではなく、

なくてはならないものではありません。

むしろ、旅には役に立たず、

場合によってはそれらの所有が、

わたしたちをこの世に繋ぎ止めて縛り付け、

とうてい運んではゆけない重荷となって、

わたしたちをこの世の定住者にしてしまいます。

わたしたちはこの国の中で生きていて、

屋根があって食べ物があって、

寝る場所があって衣服を複数持っている、

その事実だけですでに、

必要以上のものを所有しています。

たくさんのものを持っているという現実を、

わたしたちは生きています。

それらをすべて放棄するということは、

ほとんどの人ができないし、しないでしょう。

だが、

いや、だからこそ、

わたしたちは心しておく必要があります。

わたしたちが持っている物質にせよ、

霊的・精神的な高ぶりや誇りという所有にせよ、

この世のどのようなものにせよ、

最低限必要なもの以上のものはすべて、

本来はなくてもよいものです。

それらを守るために、

またそれらを増やすために、

わたしたちは生きているのではありません。

それらを守ったり増やしたりすることを、

命の目的にするべきではありません。

わたしたちが旅人として招かれ、

この世を旅するのは、

イエス・キリストから与えられている、

まったく別の目的のためです。

わたしたちはみな、宣教のために、

つまり、信仰者として生き、

神を信じる者らしく語り、

キリストの弟子らしく行動すること、

それを宣教と呼びますが、

そのためにわたしたちは旅をしています。

また、わたしたちは悪を除き、

人々を癒す仕方で、

つまり、不正を正し、不正義を減らし、

悲しみや苦しみの中にある人を慰め、

支える仕方でこの世を旅しています。

そして、わたしたちはいつも、

その旅の執着点である、

天の御国を望み見て、

そこを目指して旅を続けるのです。



(以上)

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