<三位一体後第10主日>

2020年8月16日()   礼拝説教
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神の沈黙  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
列王記上18:1−15

◆エリヤとバアルの預言者


1 多くの日を重ねて三年目のこと、主の言葉がエリヤに臨んだ。「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」
2 エリヤはアハブの前に姿を現すために出かけた。サマリアはひどい飢饉に襲われていた。
3 アハブは宮廷長オバドヤを呼び寄せた――オバドヤは心から主を畏れ敬う人で、
4 イゼベルが主の預言者を切り殺したとき、百人の預言者を救い出し、五十人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養った――。
5 アハブはオバドヤに言った。「この地のすべての泉、すべての川を見回ってくれ。馬やらばを生かしておく草が見つかり、家畜を殺さずに済むかもしれない。」
6 彼らは国を分けて巡ることにし、アハブは一人で一つの道を行き、オバドヤも一人でほかの道を行った。
7 オバドヤが道を歩いていると、エリヤが彼に会いに来た。オバドヤはそれがエリヤだと分かって、ひれ伏し、「あなたは、エリヤさまではありませんか」と言った。
8 エリヤは彼に言った。「そうです。あなたの主君のもとに行って、エリヤがここにいる、と言ってください。」
9 オバドヤは言った。「わたしにどんな罪があって、あなたは僕をアハブの手に渡し、殺そうとなさるのですか。
10 あなたの神、主は生きておられます。わたしの主君があなたを捜し出そうとして人を送らなかった民や国はないのです。彼らが、『エリヤはここにいない』と言えば、王はその国や民に、エリヤは見つからなかったと誓わせるほどです。
11 今あなたは、『エリヤがここにいる、とあなたの主君アハブに言いに行きなさい』と言われる。
12 しかし、わたしがあなたを離れれば、主の霊はあなたをわたしの知らないところに連れて行くでしょう。わたしがアハブに知らせに行っても、あなたが見つからなければ、わたしは殺されます。僕は幼いころから、主を畏れ敬っております。
13 イゼベルが主の預言者を殺したときにわたしがしたことを、あなたは知らされてはいないのですか。わたしは主の預言者百人を五十人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養いました。
14 今あなたは、『エリヤがここにいる、とあなたの主君に言いに行きなさい』と言われる。わたしは殺されてしまいます。」
15 エリヤはこう答えた。「わたしの仕えている万軍の主は生きておられます。今日わたしはアハブの前に姿を現します。」

2) 新約聖書
マルコによる福音書6:14−29


◆洗礼者ヨハネ殺される

14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年8月16


神の沈黙


なんとおどろおどろしく、

恐ろしい物語でしょう。

王宮の華やかな宴会を舞台にした恐怖の物語。

人々が飲み食いして談笑し、

余興を楽しんだその場所に、

銀の盆に乗せられた生首が持ち込まれ、

ひとりの少女に褒美として与えられる。

その出来事の中心にいるのが、

サロメという娘であり、

盆に乗せられた首の正体は、

ああ、なんということでしょう、

イエス様の言葉によるなら、

「預言者以上の者」

「現れるはずのエリヤ」とまで言われた、

バプテスマのヨハネなのです。

ヨハネが処刑されたいきさつは、

三つの福音書が伝えています。

しかし、それぞれの記述の仕方には、

だいぶ温度差があります。

ルカ福音書はもっとも簡単な記述で、

ヘロデ王がヨハネを処刑したという、

その事実だけを伝えています。

マタイによる福音書は、

マルコの記事を三分の二程度に要約して、

ヨハネを舞台から退場させます。

マルコが、

一番短い福音書であるマルコが、

ヨハネの死にまつわる出来事を、

もっとも詳しく伝えているのです。

いったいなぜなのでしょうか。

どうしてマルコは、

ヨハネの最後の場面を、

これほどまでに詳しく伝えたのでしょう。

しかも、謎めいたことに、

ヨハネが宴会での余興の褒美として、

斬首されたうえに、

首が盆に乗せられて宴会場に運ばれるという、

あまりに悲惨な出来事を詳細に述べ、

そこには神の関与がまったくないのです。

実際、実に詳細な記述の中に、

神についてはまったく触れられていません。

どうしてマルコは、

もっとも偉大な預言者であるはずの、

バプテスマのヨハネの死に際して、

まったく神に触れることなく、

この出来事を物語ったのでしょうか。

この記述の仕方にこそ、

マルコの意図が表されている。

わたしにはそうとしか考えられません。

あたかも神が沈黙しているかのようです。

あるいは、神がヨハネを見捨てたかのようです。

物語の舞台はヘロデ王の宮廷。

このヘロデは、ヘロデ大王の息子のひとりで、

ガリラヤの地方領主でした。

彼にはフィリポという名の兄がいましたが、

この兄の妻であったヘロディアと不倫の果てに、

ヘロディアは夫フィリポを捨てて、

ヘロデ王と結婚したのでした。

預言者であったバプテスマのヨハネは、

この不倫の果ての結婚が律法違反であり、

不道徳な振る舞いだと批判しました。

怒ったヘロデ王はヨハネを捕らえさせ、

投獄したまではよかったのですが、

それからどうすべきかを決めかねていました。

目障りな存在であっても、

ヨハネが預言者だとは信じていたからです。

しかし、ヘロディアは違いました。

ヨハネを恨んで殺したいと考えていました。

しかし、夫の手前公然とはできません。

ところが、とても良い機会が訪れます。

ヘロディアの連れ子であったサロメが、

ヘロデの誕生パーティーで踊りを披露し、

客が大喜びしてヘロデはご機嫌になり、

来客のいる前でサロメに褒美を約束しました。

「欲しいものがあれば何でも言いなさい。

お前にやろう。

望むならこの国の半分でもやろう」。

そしてマルコはこう付け加えています。

ヘロデはそのように「固く誓った」と。

少女であったサロメは、

母ヘロディアのもとに行って相談します。

「何を願いましょうか」。

母は一言、娘に告げます。

「洗礼者ヨハネの首を」。

面子を失うことを恐れたヘロデは、

衛兵を遣わして牢内でヨハネの首をはね、

盆に乗せて持ってこさせます。

おそらく宴会の座は凍り付きますが、

盆はサロメに手渡され、

サロメはそれを母ヘロディアに渡し、

かくして偉大な預言者であった、

バプテスマのヨハネの命は失われました。

マルコはヨハネの弟子たちが遺体を引き取り、

墓に収めたと告げて、この物語を閉じます。

この物語を読んだ皆さんは、

何を思われたでしょうか。

おそらく全員が例外なく、

異様さに息を飲んだことでしょう。

伝説に包まれた幻想的な物語は、

オスカー・ワイルドによって戯曲化され、

R・シュトラウスがオペラにしています。

しかし、わたしたちが一番不思議に思うのは、

なぜマルコ福音書がこの出来事を、

これほどまでに詳しく、

しかも神不在の物語として語るのか、

ということにあります。

ホラー物語のようなこの記事には、

神が登場しません。

マルコは淡々と起きたことを報告し、

しかもとても詳しく物語ります。

神の関与がまったくないかのような仕方で。

なぜなのか。

この謎にこそ、

マルコが伝えたい重要な意味がある、

そのようにわたしには思われます。

このサロメ伝説で、

わたしたちを一番困惑させるのは、

神の沈黙です。

ヨハネは主イエスの母マリアの親戚であり、

イエス様より六ヶ月年上の人物です。

ルカ福音書はヨハネの誕生のエピソードを、

とても詳しく伝えています。

西欧の絵画では、

聖母子といっしょにヨハネがいる作品が、

かなり多く描かれています。

神の人、

悔い改めのバプテスマを人々に施し、

救い主・神の小羊であるイエスの出現を、

人々に告げ知らせる先駆者。

預言者以上の預言者。

それなのにどうして、

ヨハネはこれほど残酷な死を遂げたのでしょう。

しかも、神が助けの手を伸べることはなく、

神の関与はなく、

神不在の有様で。

処刑人たちが獄屋に来た時、

ヨハネは神に祈らなかったでしょうか。

神の助けを望まなかったでしょうか。

だが、奇跡は起きず、

神の声は聞こえず、

神の手も差し伸べられず、

押さえつけられて斬首され、

首は盆の上でさらしものにされる。

神の沈黙がその時を支配するのです。

バプテスマのヨハネの死。

それは間違いなく、

この世界の現実を象徴しています。

神の助けが必要なその時、

神が手を差し伸べるべきその時、

しかし、神は沈黙している。

その事実にわたしたちは直面します。

旧約聖書の時代にもそれは事実でした。

偶像崇拝を押し進めた、

アハブ王と王妃イゼベルは、

神の預言者を大勢殺戮しました。

しかし、その時神は沈黙していました。

キリストが十字架の上で死ぬ時、

神は沈黙していました。

教会が迫害にさらされ、

多くのキリスト教徒が拷問にかけられ、

処刑される時、

神は沈黙していました。

正しい人が不当な苦しみを受け、

苛酷な体験を強いられ、

命を奪われるその時、

神は沈黙していました。

わたしたちが神の奇跡を願い、

神の助けを切に求めるとき、

神は沈黙しています。

正しい人が苦しみ、

義人が苦難に会い、

それなのに神は沈黙しているという現実を、

わたしたちは体験させられています。

サロメの物語は、

神を必要とするまさにその時、

神は沈黙しているという現実の、

象徴のように思われるのです。

それがマルコの伝えたいことでしょうか。

世界には救いがないという現実を、

マルコはわたしたちに教えるのでしょうか。

たしかに、神は沈黙しているかのようです。

だが、神の沈黙は、

神の無関心、神の不関与のしるしでしょうか。

考えてみましょう。

もし神がこの世界で、

神を信じる者を悪の手から救い出し、

悪をおこなう者を打ち倒すとしたら、

もし神が正義をその都度実行し、

不正義を滅ぼすとしたら、

この世界は果たして、

平和に満ちた世界となるのかと。

人々が罪を悔い改めず、

悪を望まずに善を生きることを願わず、

ただ神の怒りと神の罰を恐れ、

怯えて身を縮めて生きるだけの世界は、

はたして喜びと平安の溢れる、

シャロームの世界であり得るのかと。

神は強制的な仕方で、

天から裁きの鉄槌を下して悪人を打ち砕き、

神を信じる者を救うとしたら、

神は恐ろしい神となり、

人々は神を愛するのではなく、

神に逆らわないようにするだけの、

恐れが支配する世界になっていたことでしょう。

神はそうはなさいません。

神は人が罪のために神を離れ、

この世界を神の御心から程遠い世界にして、

神をないがしろにしている現実においても、

そのような人を裁き、滅ぼすのではなく、

悔い改めて神に立ち帰るようにと、

終日人々に手を差し伸べ、

心を神に向けるようになることを求め続け、

罪を離れて愛と憐れみを抱くよう、

訴え続けてきました。

神の沈黙は、神の無関心ではありません。

神が耐え忍びながら、

人々が悔い改めて神に立ち帰るのを待つ、

その神の姿の現れです。

終わりの日が来る、その時まで。

終わりの日に神はすべての人を裁き、

その時、神の沈黙は破られるでしょう。

義人の苦難、

正しい人の不当な苦しみを、

神は放置しているわけではありません。

その人と共にキリストが十字架で苦しみ、

キリストと共にその人を、

天の神の御許へと引き上げてくださいます。

そうわたしたちは信じています。

終わりの日に神は裁く。

神の沈黙は神の無関心ではなく、

神に見捨てられた証でもない。

そう信じて終わりの日を待ち望みつつ、

今のこの世界においては、

世界と人々を悔い改めへと導き、

神の愛と憐れみを生きることが、

わたしたち信仰者の役目だと信じます。

きょういっしょに読んだ詩編43編は、

まさにそのような信仰を表明しています。

 

 神よ、あなたの裁きを望みます。

 わたしに代わって争ってください。

 あなたはわたしの神、わたしの砦。

 なぜ、わたしを見放されたのか。

 なぜ、わたしは敵に虐げられ

 嘆きつつ行き来するのか。

 あなたの光とまことを遣わしてください。

 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。

 なぜ呻くのか。

 神を待ち望め。

 わたしはなお、告白しよう。

 「御顔こそ、わたしの救い」と。

 わたしの神よ。

 

この詩人はまさに苦難のただ中にあります。

そこに神が奇跡の介入をしてはいません。

苦難のただ中で、なお神に信頼する。

それがこの世界で信仰を抱いて生きることだと、

この詩人はわたしたちに告げ知らせてくれます。



(以上)

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