OCTYpE html pUbLIC "-//W3C//Dtd html 4.01 transitional//EN"> 礼拝説教
<三位一体後第11主日>

2020年8月23日()   礼拝説教
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わたしたちはキリストに養われる群れ  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
列王記下4:42−44

◆エリシャの奇跡

42 一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、
43 召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」
44 召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

2) 新約聖書
マルコによる福音書6:30−44


◆五千人に食べ物を与える

30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
42 すべての人が食べて満腹した。
43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
44 パンを食べた人は男が五千人であった。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年8月23


わたしたちはキリストに養われる群れ


休む間もなくとは、

イエス様と弟子たちのことに違いありません。

12弟子がイエス様によって、

宣教の働きのために送り出されました。

彼らが町や村をめぐり、

教えを宣べ伝え、病を癒し、

悪霊を追放する働きをして、

いまイエス様のところに戻ってきました。

働きの成果を携えて。

弟子たちの詳しい報告を聞いたイエス様は、

心身共に疲労している弟子たちに、

休息を取るように伝えます。

「あなたがただけで人里離れた所に行き、

しばらく休みなさい」と。

そこで、弟子たちは舟に乗って出発します。

たぶん、そう遠くない湖の岸辺、

群衆のいない静かな場所を目指して。

イエス様もいっしょにでかけます。

ところが、思い通りには行きません。

舟が出たのを見た人々は、

イエス様と弟子たちが行く先に見当を付け、

先回りして待ち構えていたのです。

舟から下りたイエス様が群衆を見渡します。

そこにイエス様は何を見たのでしょうか。

マルコ福音書はその時のイエス様の様子を、

こう伝えています。

「大勢の群衆を見て、

飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、

いろいろと教え始められた」。

「飼い主のいない羊のような有様」とは、

いったいどのような状態のことでしょうか。

今日いっしょに読んだ詩編23編の詩人ダビデは、

このように誇らしく歌いました。

「主は(わたしの)羊飼い

わたしには何も欠けることがない」。

詩編100編の詩人も歌います。

「わたしたちは主のもの、その民、

主に養われる羊の群れ」。

羊を飼うことが日常であった、

多くのユダヤの人々は、

羊の習性をよく知っていました。

群れで生活する羊は、

しかし、羊飼いがいないと、

牧草の場所や水の場所がわからず、

いろいろな危険にも対処できません。

ほんとうに必要なものは何かを知らず、

その時の興味や願望でさ迷い出てしまい、

生きる道標がわからず、

行く先を知りません。

だから羊飼いがいて守り導かないと、

危険や災いに満ちた世界で、

どうしてよいかわからずに生き、

苦難の時途方に暮れることになります。

困難や危険の時の拠り所を持たず、

帰るべき目的地が分からない姿を、

「羊飼いのいない羊のような有様」と、

イエス様は受け止めたのでした。

目の前で自分に目を注ぐ人々を見て、

イエス様は彼らを深く憐れみます。

そこで、彼らがもっとも必要とするものを、

イエス様は彼らに与えたのでした。

その場で教えを語り始め、

語り続けるのです。

羊飼いのいない羊のような有様を見て、

人々を深く憐れんだのだとしたら、

イエス様がすべきことは一つ。

彼らが羊飼いに導かれる羊になることです。

イエス様に導かれる羊の群れとなる。

そのために教えを語ったに違いありません。

だが、弟子たちはもう少しばかり、

悪い意味で現実主義者でした。

夕暮れが近づいたからでしょうか。

弟子たちは心配し始めます。

このまま夕方から夜になったらどうするのか。

彼らの食べ物は?

眠る場所は?

夜までずっと取り囲まれていては、

とてもじゃないが身がもたない。

そこで、イエス様にこう告げます。

「ここは人里離れた場所で、

時間も遅いから、

人々を解散させてください」。

多少は人々のことを心配した結果でしょう。

でも、彼らの一番の気がかりは別にあった。

わたしにはそのように思われます。

このまま夜になっても解散しなかったら、

夜までイエス様は教えを語り続け、

自分たちは人々の相手をしなければならない。

とてもじゃないが身が保たない。

だから弟子たちはイエス様に提案しました。

人々を解散させてください、

そうすれば彼らは自分で近くの町や村に行き、

何か食べるものを買うなりするでしょう。

この弟子たちの言葉の背後に、

わたしは近頃流行の、ある言葉を思い浮かべます。

自己責任。

解散させて、あとは自己責任でお願いします。

食べ物を手に入れることができるかどうかは、

それぞれ各自の自己責任でやってもらいたい。

それが本音ではなかったでしょうか。

でも、考えてみてください。

マルコは後で、そこに集まった人数を伝えます。

男だけで五千人だったと。

今のわたしたちは、

男だけという表現を問題視しますが、

今から二千年近く前のマルコの時代は、

人数に女性と子どもは含めませんでした。

だから男五千人と報告されていても、

女性と子どもがいなかったことにはなりません。

同じ数ほどではないにしても、

あと千人や二千人はいたに違いありません。

そんな大人数の食料が、

ガリラヤ湖周辺の町や村で、

常に売っているものでしょうか。

たぶん、答えは「いいえ」です。

でもそうした現実は、

弟子たちの関心の対象外です。

弟子たちにとって、

群衆を早く解散させてしまえば、

そこから先は責任外。

解散させたらそれで終了です。

だが、イエス様は違う考えでした。

そんなビジネスライクな対応をしません。

ここから、イエス様と弟子たちの間に、

緊迫した対話が始まります。

「あなたたちが彼らに

食べるものを与えなさい」。

弟子たちは耳を疑ったことでしょう。

そして、少し怒りを含んで、

イエス様の言葉に応答します。

「わたしたちに、

二百デナリオン分のパンを

買いに行けと言われるのですか?」

一デナリオンは労働者の一日分賃金です。

単純計算で二百万円ほどとしましょうか。

スーパーマーケットも、

コンビニエンスストアもない時代に、

そんな大量の食料を買い集めることは、

ガリラヤ湖周辺ではほとんど不可能です。

第一、そんなお金は彼らにありません。

弟子たちの疑問に直接答える代わりに、

イエス様はある命令を出します。

「パンが幾つあるのか、見て来なさい」。

乗って来た舟の中に、

手持ちのパンがどれくらいあるか、

行って確かめてきなさいというのです。

戻って来た弟子たちが、

ぶっきらぼうに答えます。

「パン五つと魚が二匹」。

女性と子どもは数えないで、

男千人につきパンひとつと魚五分の二。

たぶん魚には頭と尻尾もついていますから、

食べられる部分で言えば千人に五分の一匹。

一人あたりにしたら、

ちっぽけなパン屑にもなるかどうか。

でも、イエス様は弟子たちに指示します。

みんなをグループに分けて、

草原に座らせなさいと。

そして、ある儀式をおこないました。

「五つのパンを手に取り、

天を仰いで、神をたたえ、

パンを裂いて、

人々に分け与えた」。

マルコはこう報告しています。

「すべての人が食べて満ち足りた」。

新共同訳聖書は、

「満腹した」と訳しています。

たしかにお腹一杯になるという動詞ですから、

訳が間違っているわけではありません。

でも、考えてみてください。

イエス様が集まった人々を見渡して、

彼らが本当は何に事欠いていたと考えたかを。

空腹だと考えた?

いいえ、

彼らは羊飼いのいない羊のようだと考え、

彼らに必要なもの、

イエス様の言葉を語り聞かせたのでした。

そうであれば、

ここに集っていた人々が真に必要としたのは、

霊的な糧であり、

魂を養う恵みの言葉ではなかったでしょうか。

イエス様がこの日、

ガリラヤ湖畔の草原で人々に配ったのは、

身体の糧であると同時に、

いや、それ以上に、

霊の糧であったはずです。

だから、「満腹した」ではなく、

「満ち足りた」の方が良いように思います

「パンをとり、天を仰いで神をたたえ、

パンを裂いて、人々に分け与えた」。

やがて、最後の晩餐の時、

イエス様は同じことをなさいました。

そして弟子たちに告げました。

「世の終わりまで、

わたしの記念としておこないなさい」。

あの時、イエス様が分けたのは、

体の食べ物であるパン以上に、

霊の糧、魂の養い、

彼らを羊飼いイエス・キリストの、

羊の群れとするパン、

すなわちイエス様ご自身でした。

そしてそれ以来今も、

わたしたちは教会でパンを裂いて、

分かち合い、

共に霊の糧にあずかっています。

教会毎に。

そう、イエス様が草原で、

グループ毎に人々を分けて座らせたように、

わたしたちは世界のあらゆる所で、

それぞれグループに分かれて、

わたしたちは小山ナザレン教会という、

一つのグループとして、

パンを分け、霊の糧にあずかり、

牧者であるイエス様に導かれて、

この世を旅する群れとして生きています。

きょう詩編23編をいっしょに読みました。

この詩編の詩人ダビデは歌いました。

「あなたはわたしたちに

食卓をもうけてくださる」。

わたしたちがあずかるのは、

神の食卓。

それがただのパンではないことは明らかです。

詩編100編の詩人は高らかに宣言しました。

「全地よ、主に向かって

喜びの叫びをあげよ。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ」。

わたしたちは月に一度、

主の晩餐を祝います。

わたしはパンを手に取り、

これを裂いて皆さんに分けます。

きょうは主の晩餐はありませんが、

摂子さんにお願いして、

主の晩餐のパンを同じものを、

特別に焼いてもらいました。

これを裂いて主の言葉を告げます。

「取って食べなさい、

これはあなたがたのために裂かれた、

わたしの体」。

パンを分けるために、

お盆を持って皆さんの前に行くと、

大きな一かけを取る方がおられます。

子どもと、子どもの心を失っていない人。

小さな一かけを取る方もおられます。

謙虚で奥ゆかしい人。

取ろうとしたら崩れてしまい、

手に残ったのは小っちゃな破片、

ということもあります。

ユーモアのある人。

だが、受けたパンの大きさは関係ありません。

パンの大きさに関係なく、

受ける恵みは等しく絶大だからです。

その時わたしたちが受けるのは、

偉大な羊飼いであるイエス様ご自身であり、

イエス様の教えであり、

この世を旅するための主の導きであり、

わたしたちの生涯をかけた希望であり、

わたしたちが天に国籍を持つ者、

つまり神の民であることの保証であり、

天の国と永遠の命の約束であり、

主イエス・キリストと共に、

この地上の生涯を歩む幸いです。

わたしたちは偉大な大牧者である、

イエス・キリストに導かれ、

養われて世を旅する群れ。

いまも世界中で教会毎に分かれて、

しかし同じ教えを受け、

同じ霊の糧を受けて、

満ち足りて生きる神の民です。

この幸いに心から感謝します。



(以上)

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