<三位一体後第12主日>

2020年8月30日()   礼拝説教
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その時、主イエスは語りかける  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
出エジプト記33:18−23

◆主の栄光

18 モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、
19 主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
20 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
21 更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。
22 わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。
23 わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」

2) 新約聖書
マルコによる福音書6:45−52


◆湖の上を歩く

45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年8月30


その時、主イエスは語りかける


小山教会牧師として、三十九年目。

これまでのことを振り返ってみました。

嬉しかったことと悲しかったこと、

本意なことと不本意なこと、

どちらが多かったかと思わされます。

もちろん嬉しかったことは多くあり、

とても幸いな牧者としての日々でした。

しかし、どうしてと問わざるを得ないことが、

いろいろあったのは紛れもない事実です。

わたしたちが生きるということは、

実にそのようなことなのでしょう。

望まないことが起きる、

不本意なことを強いられる。

そういう体験を、

わたしたちは重ねてまいります。

嫌でも必ず体験せざるを得ません。

きょうのマルコ福音書の箇所は、

まさに弟子たちが不本意な体験を、

イエス様ご自身から強いられております。

マルコはその状況をこう語ります。

「それからすぐ、

イエスは強いて弟子たちを舟に乗せ、

向こう岸のベトサイダへ先に行かせ」と。

使われている動詞の直訳は、

「・・を強制する」です。

弟子たちにしてみれば不本意で、

わけのわからない命令です。

イエス様によって無理強いされて、

イエス様抜きで自分たちだけが、

夕暮れになってから舟を出して、

対岸のベトサイダに向かうのです。

疑問はたくさんあったことでしょう。

どうしてイエス様は一緒に来ないのか、

山から吹き下ろす風が強くなる夕暮れに、

なぜ舟を漕ぎ出さねばならないのか。

嫌がる弟子たちを無理に出発させた、

その事実が伝わってくる描写です。

いったいなぜなのか。

弟子たちの疑問に対する説明はなく、

弟子たちには理由が告げられません。

望んでいない不本意な体験を、

わけがわからないまま、

弟子たちは強いられるのです。

夕暮れに出発すれば、

途中で暗くなるのは明らかです。

現代ではなく古代です。

対岸の町や村の照明などほとんど見えず、

舟にはライトなど備わっていません。

暗い湖は恐ろしい想像力をかき立てます。

そして、予想していた通りの事態が起きます。

湖の真ん中で彼らは立ち往生するのです。

逆風が強くて彼らの舟を押し戻し、

目的地に舟を進めることができません。

この機会にガリラヤ湖のことを調べました。

中禅寺湖に毛の生えた程度の、

小さな湖だろうと勝手に思っていました。

ところがそうではありません。

南北に21キロ、東西13キロ、

最大水深は43メートル。

琵琶湖の四分の一くらいの大きさです。

海抜マイナス200メートルの湖で、

谷底にあるようなものです。

強風が吹き荒れることで知られていました。

弟子たちの幾人かはこの湖の漁師ですから、

当然、夜に強風が吹くことは知っています。

それにもかかわらず、

強いられて舟を出さざるを得ず、

激しい逆風にさらされて、

為す術もなく翻弄される弟子たちは、

暗闇の中で転覆の危険にさらされ、

生きた心地がしなかったことでしょう。

夜の湖は昼とは打って変わり、

悪霊や亡霊が徘徊する世界に変わります。

陸地にいて一人祈っていたイエス様は、

そんな弟子たちの様子を、

何も知らなかったわけではありません。

彼らが漕ぎ悩んでいるのを見ていたと、

マルコは証言しています。

そこでイエス様は、

夜明け前になってから湖の上を歩いて、

弟子たちのところにやってまいります。

弟子たちが出発したのは夕暮れ時。

彼らが湖の真ん中に出てからずっと、

逆風に苦しんでいるのを知っていたなら、

どうしてすぐに来なかったのでしょうか。

なぜ急いで駆けつけて助けなかったのか、

わたしたちは疑問に思います。

そして少し心配にもなります。

弟子たちの体験は、

わたしたちの体験に通じるからです。

苦難の時、神に助けを求め、

イエス様に呼びかけ、祈り、

しかし祈りがすぐには聞かれず、

神の助けも来ないように感じる。

そんな体験をわたしたちはします。

神がすぐに応えてくださらないという思いは、

わたしたちを苦しめ、

ついには神への怒りさえ抱くようになり、

神への信頼を揺り動かすことになります。

どうして神はすぐに助けてくれないのか。

その疑問に対する答えはありません。

弟子たちもそうでした。

何時間も逆風にさらされて、

転覆の恐怖に苛まれているのに、

そこにイエス様はいないのです。

およそ十時間が経過したころ、

イエス様が湖面を歩いてやって来ます。

ぼんやりと月明かりに照らされて、

湖の上を近づいてくるその姿を、

いったい弟子たちの誰が、

すぐにイエス様だと気付くでしょうか。

悪霊か幽霊が迫ってくる。

それが彼らの実感したことでした。

だから恐怖に駆られて叫び声をあげます。

その時の不思議な光景を、

マルコはこのように証言しています。

「イエスは弟子たちのところに行き、

そばを通り過ぎようとされた」。

せっかく来たのに、

そばを通り過ぎようとした?

いったいどういうことでしょうか。

この出来事の意味を知るためには、

わたしたちは旧約聖書を知る必要があります。

旧約聖書には幾度か、

神が人の前に出現する出来事が伝えられています。

きょう、神の顕現を伝える出来事の一つを、

出エジプト記33章から読みました。

場面はイスラエルの民がエジプトから解放され、

約束の地と信じるカナンに向かおうとする、

そんな時代の荒れ野でのことです。

指導者であるモーセが神に呼び出され、

シナイ山に昇って不在の間、

人々は不安になってしまいます。

そこで、自分たちのために神を造ってほしいと、

モーセの兄弟アロンに頼みました。

そこでアロンは人々から集めた金で子牛を造り、

それを神として崇めさせたのです。

シナイ山から下って来たモーセが怒ります。

しかし、神はそれ以上に怒り、

イスラエルの民と共に行くことを拒みます。

神が共にいてくださらなくては、

約束の地に入ることはできません。

そこでモーセは神に懇願します。

どうか共に行ってくださいと。

すると神はモーセの願いを聞き、

モーセに対して神とその栄光が現れます。

神がモーセの傍らを通り過ぎる時、

神はモーセを岩陰に潜ませるのです。

神を直接見ることはできず、

神を見た者は生きてはいられないからです。

モーセに許されたのは、

通り過ぎる神の後ろ姿を見ることだけでした。

また、旧約聖書の別の箇所で、

神殿の祭祀であったイザヤは、

預言者へと召されるとき、

神の臨在を体験します。

そのときイザヤは恐怖に駆られ、

思わず叫んだのでした。

「災いだ、わたしは滅ぼされる。

わたしの目は

王なる万軍の主を仰ぎ見た」のだからと。

神が傍らを通り過ぎるというモーセの体験と、

弟子たちのそばを通り過ぎようとしたイエス様、

この二つの出来事には、

共通する点と異なる点があります。

共通するのは、

どちらも神ご自身が出現したことです。

この時、イエス様はご自分が神であることを、

湖の上を歩いて傍らを通り過ぎようとすることで、

弟子たちに表されたのでした。

異なる点はなんでしょうか。

モーセの場合、

神が傍らを通り過ぎるとき、

神ご自身がモーセを岩陰に潜ませ、

神の手で覆いました。

神の顔を見た者は生きてはいられないからです。

しかし、イエス様の場合、

直接イエス様の顔を見て、

親しく交わり、

わたしたちの友、兄弟、

旅の同伴者として共にいてくださいます。

モーセは通り過ぎる神の後ろだけを、

垣間見ることだけが許されました。

しかし、イエス様を信じ従う弟子たちは、

イエス様の顔を見て共に歩むことができます。

だからイエス様は通り過ぎて去るのではなく、

弟子たちのいる舟に乗り込まれたのでした。

教会は古代からずっと、

教会のことを舟として描いてきました。

わたしたちがこの世を旅する舟、

しかしそこにはイエス様が乗り込んでおられる。

そのことを表明するためです。

さて、イエス様と気付かなかった弟子たちは、

幽霊が迫ってくると思い込んで、

恐怖の叫びを上げます。

イエス様はすぐに彼らに言葉を掛けました。

三つの短い言葉、

「安心しなさい」(直訳は「勇気を出せ」)

「わたしだ」

「恐れるな」と。

誰かが苦難に遭って意気消沈し、

恐怖や不安に苛まれているとき、

「勇気を出せ」「恐れるな」と声を掛け、

励まそうとすることは誰にでもできます。

だが、なぜ勇気を出せるのか、

なぜ恐れる必要がないのか、

その根拠をはっきりと告げることは、

人間にできることではありません。

それは神さまだけができることですから。

イエス様はもう一つの言葉を、

三つの真ん中に置いて語りました。

「わたしだ」。

これこそ、

勇気を出すこと、恐れないでいられることの、

根拠であり保証であり、

神の約束です。

「わたしだ」と訳された言葉、

ギリシア語で「エゴー・エイミ」は、

英語にすると I AM です。

これは神がご自分を表す言葉であり、

神の本質を示す言葉でした。

旧約聖書の出エジプト記で、

神に呼び出されたモーセは、

神に名を尋ねます。

すると神は答えました。

聖書協会共同訳はこう訳します。

「わたしはいる」

「わたしはいるという者である」。

(出エジプト3:14)

このヘブライ語聖書のギリシア語訳に、

「エゴー・エイミ」が出て来ます。

イエス様が言われた言葉は、

ご自分がイエスだというだけのことではなく、

ご自分が神であること、

彼らと共にいる神であることの宣言です。

神が共におられる。

それがわたしである。

この事実の宣言こそが、

「安心すること」と、

「恐れる必要がない」ことの、

たしかな根拠です。

「わたしがいる」。

だから安心しなさい、

だから恐れないでいなさい。

この力強い恵みの言葉を、

今もわたしたちが苦難や試練の中にある時、

その時、主イエスは語りかけてくださいます。

わたしは今月、母を天に送りました。

その最後の日々、

母の元を訪ねていろいろ声を掛けました。

もう昏睡状態に近いように見えましたが、

こちらの言うことは聞こえているようで、

言葉にかすかな反応を示してくれました。

「いろいろありがとう」

「愛しているよ」

と語りかけ、

昔のいろいろな思い出を話しました。

わたしの勝手な印象かもしれませんが、

「イエス様が共にいて、

天の御国まで導いてくださるからね」

そう告げた時に、

もっとも安心したように感じられました。

わたしたちが苦難の中にあるとき、

試練にさらされているとき、

その時、主イエスはこの恵みの言葉を、

わたしたちに告げてくださることでしょう。

「安心しなさい、わたしがいる、恐れるな」。



(以上)

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