<三位一体後第14主日>

2020年9月13日()   礼拝説教
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賢く生きることが重要、でも誰に対して?  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書6:1−7

◆イザヤの召命

1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は
王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

2) 新約聖書

マルコによる福音書7:1−13


◆昔の人の言い伝え

1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
7 人間の戒めを教えとしておしえ、
むなしくわたしをあがめている。』
8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年9月13


賢く生きることが重要、でも誰に対して?


きょうのマルコ福音書の箇所を見ると、

ほんとうにご苦労さまなことだと思います。

エルサレムから来たファリサイ派と、

たぶんその地方の律法学者たちのことです。

特に、エルサレムから来たファリサイ派は、

イエス様を捜すのが大変だったことでしょう。

イエス様がどこにいるか知らないのですから。

そもそも、イエス様と弟子たちだって、

ほんとうならベトサイダに行くはずが、

思いがけずゲネサレトで舟から下り、

その地方を巡ることになったのですから。

都エルサレムから来たファリサイ派や、

その地方の律法学者たちが、

どうしてそこまでして、

イエス様のもとに集まってきたのでしょう。

教えを聴いて弟子になりたかったわけではなく、

病を癒されたかったのでもありません。

彼らの目的はただ一つ。

イエス様を批判攻撃して陥れることで、

人々をイエス様から遠ざけるためでした。

だから、イエス様の言葉に対して、

とても熱心に耳を傾けています。

信じるためではなく批判するために。

すると、イエス様を攻撃するための、

絶好の機会がやってきました。

彼らが様子をうかがっていると、

イエス様の弟子たちの幾人かが、

手を洗わずにパンを食べていたのです。

わたしたちがうっかりして、

あるいは面倒で、

手を洗わずにパンを食べるのとは、

意味がまったく違います。

物を食べる前に手を洗うことは、

敬虔なユダヤ人にとって、

それこそ敬虔であることの証でした。

手を洗うことは信仰的な清めの儀式、

聖なる神の民であることにとって、

不可欠な行為と考えられていました。

イスラエルの民は昔、

エジプトで奴隷民族でした。

その境遇から神によって解放された時、

彼らは聖なる神の民とされました。

聖なる神に属する、

聖なる神の民。

ですから、神にふさわしくあるため、

敬虔なユダヤ人は自らを清く保ち、

汚れをできるかぎり避けて、

日々の生活で身についた汚れは、

洗い清めることが必要でした。

手はいろいろなことに使います。

だから意識するとしないとに関わらず、

手はいちばん汚れを受けやすい部分です。

食事の時、手を洗わないと、

手についた汚れを食物と一緒に食べ、

体の中に汚れを取り込んでしまいます。

ですから、食事の前に手を洗うことは、

敬虔なユダヤ人にとって必須でした。

いい加減な洗い方ではだめです。

ひじの所までしっかりと洗い清め、

汚れを落としてからでなければ、

パンを手にすることはありませんでした。

汚れを避けるという意味では、

食事の前の手洗いだけではなく、

さまざまな道具や器、寝台まで、

清めの儀式をおこないました。

聖なる神の民は、聖でなければならない。

そのためには汚れを避け、

汚れたら、

あるいは汚れたかもしれなければ、

しっかりと清めることが必要でした。

ところが、ファリサイ派の見ている前で、

イエス様の弟子たちは手を洗わずに、

汚れた手でパンを食べていたのです。

不敬虔きわまりない振る舞いです。

ファリサイ派や律法学者が、

意気込んでイエス様を問い詰めます。

「いったいなぜ、あなたの弟子たちは

昔の人の言い伝えに従って歩まず、

汚れた手で食事をするのか」。

この言葉でファリサイ派は、

聖なる神の民であるはずなのに、

どうして自らを清めず、

聖なる者であることを汚すのか、

と糾弾したのです。

血相を変えて怒るファリサイ派、

しかし心の底では、

イエス様と弟子たちを攻撃する、

絶好の機会だと、ほくそ笑んでいます。

さて、わたしたちは少し考えてみましょう。

神の民としての聖さ、

それは何でしょうか。

ファリサイ派が考えるように、

汚れに触れたり汚れが身に付いたりすると、

損なわれてしまうのでしょうか。

たとえば、人や動物の死体に触れたり、

血が付着したり、

汚れの極みとみなされた病気になったり、

そういう病人に触れたり、

汚れていると信じる異邦人、

つまり非ユダヤ人に接触したり、

ということで汚れるのでしょうか。

そのためには清めの儀式をおこない、

清めのための期間を過ごすことで、

聖なる神の民らしい聖性を回復し、

清い者とされるのでしょうか。

それとも、

聖なる神の民としての聖性は、

その人の心の有り様、

その人の精神のかたち、

その人の霊的な姿の問題でしょうか。

イエス様はファリサイ派に直接答えず、

逆に、鋭い切り返しをしました。

彼らを「偽善者」と断言し、

預言者イザヤの言葉を用いて、

偽善者であることの理由を示したのです。

あなたがたは敬虔な言葉を口にするが、

心は神から遠く離れていると。

ファリサイ派や律法学者は、

尊敬される立派な人たちでした。

食事の前には必ず手を洗い、

しかもひじまでしっかりと洗い、

触れる可能性のあるものは全て清め、

昔の人から受け継がれて来た、

先祖伝来の宗教的な言い伝えを守り、

世間で高く評価され、

世の中でうまく立ち回り、

経済的な安定も手に入れる。

そのように賢く生きることが重要だと信じ、

実際、自らそのように生き、

そういう生き方を人々に教えていました。

賢く生きる。

それはどのようなことでしょうか。

ファリサイ派や律法学者にとって、

賢く生きることは重要でした。

どう生きることが、

賢く生きることだったのでしょうか。

イエス様は昔の人の言い伝え、

ファリサイ派の人たちが受け継いできた、

先祖伝来の教え全体を、

「コルバン」という言い伝えで代表させ、

彼らに問うのです。

「コルバーン」というのは、

「捧げ物」の意味です。

「これはコルバーンです」と言えば、

これは神への捧げ物ですということです。

もともとは、神への捧げ物を取り分けて、

自分や他の人が使い込まないよう、

捧げ物として確保するための方策でした。

ところが、これは便利な言葉でした。

「これはコルバーンです」と言えば、

それは聖なる捧げ物なので、

他の何に対しても優先されることになります。

だから、両親に渡すべき親の生活費を、

「これはコルバーン」と称すれば、

扶養の義務に優先されるから、

結局なにもしないで済ませることができる、

そのような方便として使われたのです。

コルバンは一つの具体例にすぎません。

このようなことをたくさんおこなっていると、

イエス様は追及していますから。

ここで問題とされているのは、

遠い昔の、ユダヤ社会の風習です。

でも、ユダヤ社会特有の風習の背後にある、

人々の物の考え方、

賢く生きるということの原則は、

昔も今も共通しています。

時代を越えて、

人々は賢く生きることを願いとし、

賢く生きるとはどういうことかを、

その時代や文化や親や世間から学び、

そのように実践しています。

要するに、

世間体を重んじて、

世の中でどう思われるかに気を配りながら、

経済的な利益を確保することと、

自分の評価を高めることを、

賢い生き方と教え、教えられ、

そのような生き方を心がけてきたのです。

そうだとしたら、現代日本もまた、

ファリサイ派の教えに忠実だと言えるでしょう。

そういう、いわゆる賢い生き方、

ファリサイ派や律法学者が受け継ぎ、

人々に教えている賢い生き方の問題点を、

イエス様は鋭く批判したのでした。

わたしたちは注意深く、

イエス様の真意を考える必要があります。

イエス様は世間体を無視しろとは言いません。

逆に、しばしば、

世間から排除されてきた人たちに、

祭司の所に行って証明を受け、

家に帰りなさいと命じて、

世間への復帰を促しました。

経済や自分の利益について、

イエス様は忠実であることを教えます。

この世で生きていくうえで、

この世で賢く生きることは必要かつ大切。

ただし、イエス様はそこに、

なくてはならない条件を付けた。

そのように思います。

いったい誰に対して賢く生きるのか、

ということを考えるという条件。

賢く生きることにおいて、

誰に対して賢く生きるのか。

イエス様の答えははっきりしています。

神に対して賢く生きることです。

そうでないなら、

神をないがしろにしていることになります。

わたしたちも心しておきましょう。

わたしたちも賢く生きることを願い、

そのように努力しています。

いったい誰に対して賢く生きるのでしょうか。

自分自身に対して?

自分の利益や自分の損得に対して?

世間体に対して?

この世での安定した生活に対して?

たぶん、そうしたことは大切かつ必要。

でも、いちばん重要なことではありません。

神に対して賢く生きること、

それこそがすべてに優って、

第一に願われ、求められ、心すべきことです。

きょう、詩編19編を交読しました。

詩人は15節でこう歌い、宣言しています。

 

 どうか、

 わたしの口の言葉が御心にかない

 心の思いが御前に置かれますように。

 

神の前に自らの心を置いて、

まっすぐに神に向き合って生きること。

それこそが賢く生きることの大前提です。

神にまっすぐ向き合うことなしに、

何を手に入れようが、

何を成し遂げようが、

世間や世の人々にどう評価されようが、

イエス様からこう言われることでしょう。

「あなたたちは神の掟を捨てて、

人間の言い伝えを固く守っている」。

神に対して賢く生きるということは、

三つのことを常に心に抱いていることです。

神に喜ばれることを願いとし、

神に感謝することを忘れず、

神の民であることを誇りとすること。

この三つをいつも心に抱いていることです。

 



(以上)

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