<三位一体後第15主日>

2020年9月20日()   礼拝説教
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なにが人を汚し、なにが人を清めるのか  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書55:6−7

◆御言葉の力

6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
7 神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば
豊かに赦してくださる。

2) 新約聖書

マルコによる福音書7:14−23


◆昔の人の言い伝え

14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年9月20


なにが人を汚し、なにが人を清めるのか


きょうの福音書はイエス様の教えの中でも、

特に核心部分というべき箇所です。

ここでイエス様は、この世界と、

わたしたち人間の問題について、

本質的なことを語っています。

この世界の悪とはなにか、

人は悪とどのような関係にあるのか。

この根源的な問いに対する答えを、

イエス様はここで示しているのです。

古来、人類は文化や民族を超えて、

この問題を問い続け、

いろいろな答えを見出してきました。

悪は、この世界を支配する二つの原理、

善の神と悪の神の一方から来る。

そう考える二元論者がいました。

この物質世界は、それ自体が悪だ。

そう考える禁欲主義者たちがいました。

悪は悪魔や悪霊がもたらす。

そう考える占い師や呪術家がいました。

どれも皆、悪は外から来る、

という考えで共通しています。

特にイエス様の時代のファリサイ派は、

悪を汚れと結び付けて考えました。

だから、悪を避けるためには、

汚れを受けないように注意して、

いつも清さを保たなければいけない。

それが彼らの生き方の原理でした。

汚れたものに触れてはならない。

汚れを体の中に入れてはならない。

汚れに触れたら洗い清めなければならない。

そう信じ人々に教えているファリサイ派に、

イエス様は真っ向から異を唱えるのです。

イエス様はこの世界の問題を指摘し、

この世界が変わる可能性について語ります。

きょうの箇所でマルコ福音書は、

普段とは異なるイエス様の行動を伝えます。

いつもは群衆の方がイエス様のもとに来ます。

ところがきょうの箇所では、

イエス様が群衆を呼び寄せたのでした。

何か特別なことを語るためとしか思えません。

わざわざ呼び寄せた群衆に向かって、

イエス様が語った言葉はとても挑戦的でした。

群衆に対してではなく、ファリサイ派に対して。

なにが人を汚すのかという、

人類共通の問題に対して、

そして特にファリサイ派の関心事に対して、

イエス様は答えを告げるのです。

ファリサイ派はこう教えていました。

人を汚すものは外から人の中に入る。

だから外からの汚れを取り込まないよう、

食事の時には入念に手を洗い、

食器や家具などをいつも清めていました。

イエス様はそれとは対極を語るのです。

「外から人の体に入るもので

人を汚すことができるものは何もなく、

人の中から出て来るものが人を汚すのである」。

なんと強烈なファリサイ派批判でしょう。

そして、なんと強烈な、

全人類の常識に挑戦する言葉でしょうか。

汚れを遠ざけて自らを清く保つことは、

ファリサイ派の最重要事項であり、

彼らの信仰の根源的な在り方でした。

でも、ファリサイ派だけではありません。

人類のほとんどがこうした汚れと清めを信じ、

清めの儀式や行為を実践してきましたから。

清くありたい、清さを保ちたい、

汚れを避けたい、汚れを遠ざけたい。

その願いは人類に共通しています。

汚れから身を守り、汚れを避けるために、

人々は手を洗い、口をすすぎ、

塩をまき、御札やお守りを買い、

お祓いをし、祈祷を依頼し、

方角を占い、

曜日を選んで結婚式や火葬の日を決め、

ある人たちやある物を汚れとみなし、

そういったものに触れないようにして、

清めの儀式をおこなってきました。

いまもまったくその通りです。

そうした考えや行動そのものについて、

どうこう言うべきではないのでしょう。

ただ、明らかなことが一つあります。

汚れは人の外にあるものであって、

外から人の中に入って汚れをもたらす、

と考えていることです。

だから汚れていると考える人を避け、

汚れていると言われている物を遠ざけ、

触れないように気を付けて、

清さを保たなければならない。

こうした考えと風習が、

人類に共通の問題を創り出してきたのは、

まぎれもない事実です。

汚れは外にあり、

外から人を汚すという考え方こそが、

差別を生み出す原因となり、

偏見を人々に植え付け、

ある人々や文化や習慣を嫌悪し、

敵意を生み出す原因となるからです。

人種差別、民族差別、性差別、

地域差別、職業差別、

いじめ、排斥、不寛容、

冷淡、無関心、敵意。

そうしたことはほとんど例外なく、

汚れと清めの意識に由来しています。

人と人を分断し、

民族と民族を対立させ、

国家と国家を敵対させる根源に、

相手は汚れているという意識があります。

その意味で、わたしたちも人類全体も、

ファリサイ派的存在ではないでしょうか。

汚れは外から来ると考える点において。

人を仕分けし、分断し、裁き、

仲間と仲間以外の人、

隣人と隣人ではない人を区別して、

清い者と汚れた者、

受け入れることのできる者と、

受け入れず排除すべき者を分ける。

こうした汚れと清さの区別が、

敵意と隔ての壁を創り出して来たのが、

人類の歴史だと言うことが出来ます。

汚れと清めの生み出す区別が、

この世界の原理となり、

人々の精神・物の考え方を形作っています。

汚れを避け、正しく生きていれば、

清さを保つことができる。

清さを保っていれば問題はおきない。

多くの人々はそう考えています。

それは同時に、

コインの反対側を信じることでもあります。

汚れには原因があるということです。

つまり、汚れは本人に原因があるはずだと。

そしてその原因を推測し、考え出し、

勝手に理由を作り出すのです。

黒人に対する人種差別は今もありますが、

黒人である原因の説明が、

聖書に基づいて作り出されたのでした。

こんな嫌な話は止めておきましょう。

結局、汚れは外から来るという考えは、

民族に対してであれ人種に対してであれ、

家柄や血筋のことについてであれ、

現在の困難な状況に関してであれ、

すべて努力不足であるとか、

先祖あるいは本人の罪深さのせいだとか、

要するに、現代の言い方をするなら、

自己責任ということで済まされてきました。

自己責任なのだとすれば、

憐れみを抱く必要はなく、

愛するべき対象にする理由はなく、

結局、神をないがしろにすることになります。

神がその人を愛しておられるということが、

考えの中に入らないからです。

汚れは外から来るという考えが行き着くのは、

愛と憐れみに乏しい精神です。

そうした精神、あるいはそうした心から、

いったい何が出て来るでしょうか。

イエス様はよくご存じでした。

イエス様はそういう心から出て来るものを、

リストにして並べ上げてみせるのです。

「人の心から、悪い思いが出て来る。

みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、

貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、

悪口、傲慢、無分別など」

この「など」が重要です。

イエス様がここで並べ上げた一覧表は、

心の中の悪が生み出す悪いものの、

具体的な現れの例にすぎないからです。

真の問題は、

心の中から出て来る何かを、

どのような心が生み出すのかです。

だから、心の清さこそが重要です。

イエス様が山上の説教で最初に教えたのは、

「心の清い人は幸いだ」ということでした。

心の清さ。

それは神と人に対する愛と、憐れみ深さ、

この二つによって決まります。

なぜなら、愛と憐れみは、

神そのものの根源的な在り方だからです。

愛と憐れみを心に抱く人は、

神の姿を映しています。

聖なる神の姿を映す。

だからその心は清い。

どうしたら人の心は、

愛と憐れみを抱くようになるでしょうか。

暴力で脅したり、

裁きや罰の恐ろしさで、

神と人を愛する心に造り変えることはできず、

強制したり命令することで、

人を憐れみ深くすることはできません。

憐れみを受けることだけが憐れみを実感させ、

それゆえに憐れみ深くあろうと願わせます。

愛されることだけが、

人に愛される喜びを体験させ、

それゆえに愛することを喜びます。

わたしたちは憐れまれたのでしょうか。

わたしたちは愛されているのでしょうか。

誰によって?

神によって。

神はわたしたちを憐れみ、

わたしたちへの愛のゆえに、

独り子イエス・キリストを世に遣わし、

わたしたちの罪のために十字架にかかり、

罪を赦してくださいました。

神はキリストをよみがえらせ、

キリストとのきずなのゆえに、

わたしたちに天の国籍と永遠の命を与え、

神の子としてくださいました。

たしかに、わたしたちは神の憐れみを受け、

神に愛されています。

イエス・キリストが、

わたしたちに対する神の憐れみと愛の証。

わたしたちはイエス様をとおして、

神の愛と憐れみを知りました。

いま、イエス・キリストをとおして

神の愛と憐れみを受けているわたしたちは、

こう信じます。

わたしたちを清くするのは、

わたしたちの心の内に形作られる、

愛と憐れみなのだと。

この世界は、あまりに罪深く、

冷淡さと無関心に支配され、

敵意と隔ての壁によって分断され、

対立と憎しみが人と人、民族と民族、

国と国の間に満ち、

今にも戦いへとエスカレートしそうです。

他の人や地域や国に対して冷淡で、

自分の利益を追求することに熱心です。

地球の環境そのものが危機の最中に、

もうすぐ涼しくなると、

ある政治家は平然と主張します。

そういう世界を変えるのは、

武力でしょうか、革命でしょうか、

有能な政治家でしょうか、

市民の力でしょうか。

たしかに良い政治家や市民の力は重要です。

でも、それだけでは、

根本にある問題は解決されません。

人の心が清くされること、

すなわち、愛と憐れみが人の心に広がること、

それが世界を真に変革する唯一の道だと、

イエス様は身をもって教えました。

徹底した非暴力と、限りない愛と憐れみ、

そして十字架の死に至るまでの従順さで。

その愛と憐れみを受けているわたしたちは、

愛と憐れみを抱いて世の旅を続けましょう。

 



(以上)

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