<三位一体後第19主日>

2020年10月18日()   礼拝説教
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しるしを求めるかぎり信じることはできない  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書


イザヤ書7:12−14

◆インマヌエル預言

12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に
もどかしい思いをさせるだけでは足りず
わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
14 それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。


2) 新約聖書

マルコによる福音書8:11−13


◆人々はしるしを欲しがる

11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年10月18


しるしを求めるかぎり信じることはできない


どうやら、イエス様が現れるところには、

癒しや悪霊の追放を求める人々や、

教えを聴こうとしてやってくる群衆だけでなく、

イエス様の邪魔をして陥れようとする、

ファリサイ派や律法学者たちが現れるようです。

イエス様と弟子たちが、

ダルマヌタの地方に到着すると、

さっそくそこにファリサイ派がやってきます。

10節に出て来るダルマヌタという地名は、

実は現在ではどこのことかわかりません。

その時代にある程度知られた地方であったなら、

現在はその地名が変わっているとしても、

だいたいどこあたりか検討がつきます。

ところが、ダルマヌタの地方というのは、

どの文献にも登場しないのです。

そのため、ガリラヤ湖の近くのどこか、

ということまでしか見当がつきません。

そんなへんぴな所までやってくるとは、

ファリサイ派はある意味で大変熱心に、

イエス様を追いかけ回していたようです。

もちろん、教えを聴くためではなく、

評判を落とし、陥れるために。

今回、ファリサイ派は何をしに来たのか。

マルコは彼らの目的をこう伝えています。

「イエスを試そうとして、

天からのしるしを求めた」と。

天からのしるしとは何でしょうか。

イエス様が神から遣わされたメシア、

つまり救い主であることの、

明らかな証拠のことです。

メシアだと完全に納得できる証拠を、

いま見せてみよと言うのです。

イエス様はこれまでにも、

ファリサイ派や律法学者の目の前で、

病気の癒しや悪霊追放を、

なんどもおこなっています。

それでも彼らが納得しなかったということは、

癒しや悪霊追放では、

メシアだと納得させる証拠とはならない、

ということなのでしょう。

もっとはっきりとメシアとわかるような、

そういうしるしを見せよと要求しているのです。

どんなしるしなら納得するのでしょうか。

白馬に乗って軍隊を率いて来る姿でしょうか。

天の窓が開いて神の軍勢が降って来ること、

あるいは山を動かし、海を二つに分け、

雲に乗って天から降る姿を見せることでしょうか。

尋ねたファリサイ派にとっても、

何が明らかなしるしなのか、

はっきりとした考えは無かったのだと思います。

とにかく尋常では無い特別な何かがなければ、

メシアと信じるに価しない。

そう考えた上でしるしを求めたのです。

でも、ほんとうにメシアであるかどうかを、

彼らが心から知りたいと思っていたのであれば、

ファリサイ派の人々の目的をマルコは、

「試そうとして」という言い方ではなく、

「救い主かどうかを確かめようとして」と

表現したはずです。

「試そうとして」とマルコが書いたのは、

彼らが別のことを意図していたからです。

ファリサイ派の人々は、

イエス様がメシアであるかもしれないから、

しるしを見せてくれと要求したのではなく、

イエス様がそんなしるしを見せることは、

けっしてできないと踏んだからです。

ファリサイ派としては、

できない要求を突きつけたつもりでした。

しるしを求めて、

もしイエス様がしるしを見せられないなら、

「偽メシア」だと糾弾できるからです。

こうしたファリサイ派の悪意に対して、

イエス様はほんとうに不思議な反応をなさいます。

「なぜ今の時代の者たちは、

しるしを求めるのだろう」と嘆いたのでした。

どこが不思議なのか気付かれたでしょうか。

ファリサイ派にしるしを求められたイエス様は、

「どうして、ファリサイ派の人たちは

しるしを欲しがるのだろう」

と嘆いたのではなく、

「どうして、今の時代の者たちは

しるしを欲しがるのだろう」と嘆いたのでした。

ファリサイ派がしるしを要求したのに、

イエス様はその時代のすべての人が、

同じ要求をしているかのように答えています。

この事実から、ある重要なことがわかります。

ファリサイ派が特殊な人たちだったのではなく、

彼らはその時代の人々の代表者なのです。

もっと言うなら、

人は誰でも、

しるしを求めるものだということです。

イエス様は「今の時代の者たち」と言いますが、

その時代の人たちだけが特別なのではなく、

どの時代の人たちも変わりはありません。

人は誰もみな、しるしを求めるものです。

イエス・キリストがわたしの、あなたの、

救い主であると信じるに足るしるしを。

「わたしが心から信じるようなしるしを、

わたしに見せてくれ、

そうしたら信じよう」。

それが時代を超えて人々の考えることです。

そしてその考えの前提には、

「そんなしるしは存在しないと思うがね。」

そういう本音が隠されているのです。

いま、日本のキリスト教会全体は、

危機的な状況になっています。

わたしはこの教会やナザレン教団だけでなく、

いろいろなキリスト教団体や出版社に関わり、

内部の事情や情報を耳にします。

献金や募金が激減し、

本の売り上げが年々落ち込み、

経済的に立ちゆかなくなる教会も、

次第に増え始めています。

日本だけの問題ではありません。

いわゆる先進諸国とみなされる国々で、

キリスト教は停滞し、

あるいは衰退しています。

その原因がどこにあるのか。

多くの牧師が首をひねり、

たくさんの宣教学者や神学者が、

あれこれ理由を考え、

原因の究明を試みています。

しかし、ほとんどの場合、

これといった根本原因がわかったとは、

とうてい言える状態ではありません。

おそらく、先進諸国と言われる国々は、

文化的にも経済的にも、

行き着く所に行き着いてしまい、

人々は未来への望みを持たなくなったのでしょう。

そのかわりに、今の状態を保つことを、

なにより優先するようになったのでしょう。

今を守ること、

今持っているものを失わないこと、

それが多くの人の切実な願いです。

今まで持っていたものを失った人たちは、

そのことを嘆き、悲しみ、

前と同じ状態に戻りたい、

今よりもましだった以前に戻してほしい、

それが切なる願いになってしまっています。

そういった現状に対して、

キリスト教の教会は、

どのように応答してきたでしょうか。

多くの教会はそうした人々の願望に応え、

願いをかなえるような言葉を、

福音として語ってきてしまいました。

「あなたは大丈夫」

「あなたは愛されている」

「あなたは問題ない」

そういった安心感を与えること、

悩み事を解消してあげること、

それが福音であるかのように教えてきました。

その結果、

教会は世を旅する民ではなくなり、

この世の定住者を作ることに熱心になり、

教会のほんとうの使命を見失いました。

そうなる誘惑が強かったのはたしかです。

なぜなら、現代の多くの人々は、

自分自身も、自分の住むこの世界も、

変わりたいとはおもわず、

変えたいとも願わず、

今の自分と今の世界のままで、

もっとましになりたい、

そう願っているからです。

ようするに、多くの人は、

新しく生まれ変わることではなく、

少しましに改善したいだけです。

現代の人々は自分を変える必要のない、

小さな助言や占い師の霊感は喜んで聞き、

ゴシップやフェイクニュースや、

手軽な儲け話は簡単に信じます。

でも、自分のこれまでの価値観を捨て、

今の世界を支配している世界観を変えて、

命の目標を新たにされるということは、

ほとんどの場合、望みさえしません。

今の世界のままでいかに上手く生き、

どうしたら少しでもましになれるか。

それが人々の関心事です。

だから、メシアが来るなどということは、

考えもしないし、考えたくもない。

そんなことは望みもせず、

信じようともしない。

それが今の時代の、

いや、むしろいつの時代でも、

人々の現実の姿です。

「信じるに足るしるしを見せてくれたら、

少しは考えようじゃないか、

そんなことはできっこないと思うがね」。

これは、イエス様にしるしを求めた、

ファリサイ派の人々と、

いったいどこが違うというのでしょうか。

現代のわたしたちの時代にも、

イエス様のあの嘆きは、

そっくりそのまま当てはまることでしょう。

「どうして、今の時代の者たちは

しるしをほしがるのだろう」。

今の時代も、いつの時代も、

人々が求めるようなしるしは、

決して与えられることがない。

イエス様の厳しい言葉は、

今の時代にも向けられています。

では、今の時代の人々は、

救い主を求めることはあり得ないでしょうか。

今の時代の人々は、

神の救いを見出すことはないのでしょうか。

いいえ、そんなことはありません。

皆さんが、そうではないことの証人です。

たしかに、今の時代に、

人々が大挙して教会に押しかけることは、

絶対無いとはいえないですが、

あまり考えられることではりません。

しかし、いつの時代にも、

ですから、今の時代にも、

メシア、すなわち救い主を信じ、

この世の定住者ではなく、

神の国を目指して世を旅する者とされて、

新たな命を生きるようになる人々はいます。

皆さんがそうであるように。

わたしたちの魂が、

救い主を信じるようになるのには、

ただ一つの道があるだけです。

否定的な言い方は止めましょう。

一つの救いの道が与えられています。

わたしたちの魂がイエス・キリストと出会い、

その教えに心動かされ、

その約束に希望を与えられ、

キリストとの信仰のきずなにより、

聖霊がわたしたちの内に宿り、

励ましと慰めを与えてくださり、

キリストを我が主と信じて、

キリストと共にこの世を旅しようと願う。

その道が、この世界に示され、

宣べ伝えられています。

その道を歩みたいと願う人は、

決して絶えることはありません。

もし、わたしたちがその道を喜び、

感謝を抱いて歩んでいるなら、

同じ道を歩みたいと願う人たちは、

常に起こされ、絶えることはないと信じます。

しるしを求めるかぎり、

信じることはできません。

そうではなく、主イエスの道を、

主ご自身と共に歩むこと、

それをわたしたちは信仰と呼んでいます。

 



(以上)

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