<三位一体後第23主日>

2020年11月15日()   礼拝説教
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わたしはわたしの道を、主に従って歩む  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書


イザヤ書53:1−10

1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
4 彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
5 彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
6 わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
7 苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
9 彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。
10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。



2) 新約聖書

マルコによる福音書8:31−38


◆イエス、死と復活を予告する

31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年11月15


わたしはわたしの道を、主に従って歩む


 29節を見てみましょう。

ペトロがイエス様に告げました。

「あなたこそ、メシアです」。

あなたがわたしの救い主。

ペトロはそのように信仰を言い表しました。

あなたこそ、わたしの従うべき方。

その言葉を受けたイエス様は、

ご自分がメシア、救い主として歩むべき道を、

弟子たちにはっきりと告げたのでした。

それは、しかし、

ペトロや弟子たちの期待とは違っていました。

イエス様が語って聞かせた道は、

苦難の道、死に至る歩み、

そして復活の道でした。

イエス様はご自分がどのような道を歩み、

どのような意味で救い主なのかを告げました。

ところがペトロは猛反発します。

イエス様が告げる救い主としての道、

主イエスが示したメシアの道が気に入りません。

ペトロは自分が期待し思い描いている、

そのような救い主になってもらいたくて、

イエス様を諫め始めたのでした。

その行為はイエス様の言葉を否定することです。

主イエスが救い主として歩むべき道を、

ペトロは妨げようとしたのでした。

救い主としてどのような道を歩むべきなのか。

それは救い主である主イエスがご存じです。

その道をイエス様が歩むこと、

つまり苦難と死への道を歩むことが、

人々のための救いの道です。

ペトロはその道を歩むことに反対して、

イエス様を止めようとしたのでした。

イエス様が厳しく叱ったのは当然です。

では、ペトロはどうすればよかったのでしょう。

イエス様がご自分の道として、

苦難と死への道を選んで歩むのであれば、

どうぞご自由に、わたしはとめませんから。

そう言うべきだったのでしょうか。

あなたが救い主の道と信じる道を歩むのは、

イエス様あなたの自由です。

わたしには関係がないからどうぞご自由に。

そう告げて放っておくべきだったでしょうか。

世間の大多数の人は、たぶんそうなのでしょう。

誰でもイエス様が十字架の道を歩まれたことを、

常識としては知っています。

知ってはいるが、それはイエス・キリストの勝手、

わたしには関係がないこと。

そのように思っています。

そういうものなのでしょうか。

わたしたちの応答は「いいえ」です。

いいえ、イエス様の歩まれた道は、

わたしのための道。

わたしたちはそう信じたのでした。

主イエスの歩まれる道は、

わたしたちのための救いの道です。

救い主として十字架の道を歩まれる、

その主イエスに従い、

信仰によって主イエスと一つに結ばれて、

共に歩むその時、

主イエスの苦難と死、

そして復活の出来事が、

わたしたちの命と結ばれます。

主イエスをわたしの主、救い主と信じて、

主イエスに従おうと願う時、

わたしたちのこの命、この生涯は、

主イエスと深く関連付けられます。

だから、あの日あの時、

ペトロをいさめた後でイエス様は、

従おうとする全ての群衆を呼び寄せて、

みんなに語りかけたのでした。

「わたしの後に従いたい者は、

自分を捨て、自分の十字架を背負って、

わたしに従いなさい」。

とても厳しい言葉のように響きます。

ある人たちにとっては、

従うことを諦めさせるに充分な言葉です。

だが、たしかにとても厳しい言葉ですが、

ただ厳しいだけの言葉ではありません。

この言葉は日常の生活を放棄させたり、

世捨て人のようになることの要求ではなく、

わたしたちがどのように生きるのか、

生きる道の根本を指し示す言葉だからです。

イエス様の後に従いたいと願う人には、

例外なく求められることです。

だから身近にいる十二弟子だけでなく、

群衆を呼び寄せて、

みんなに向かって言われたのでした。

「自分を捨てて」ということは、

自分を無価値な存在とみなしたり、

禁欲主義者になれとの命令ではありません。

自分の考えや自分の願望によって、

何が救いかを自分で決める、

そういう自己中心さを捨てることが、

イエス様の求めることです。

まさにその意味で、

ペトロは自分を捨てていませんでした。

自分が考える救い主の姿を掲げて、

イエス様が告げる救い主の姿の方を、

ペトロは捨てるようにと要求したのですから。

もしわたしたちが、

主イエスこそわたしの救い主と信じるなら、

わたしたちは自分を捨てることが必要です。

すなわち、

イエス様が教え、示してくださる救いを、

わたしの救いだと信じて、

その救いを受け入れることが必要です。

ある人にとっては残念なことかもしれませんが、

イエス様は経済的な成功や安定を救いとはせず、

商売繁盛や家内安全を救いとは示さず、

無病息災を救いとは告げません。

自分の十字架を背負って、

イエス様の後に従い行くことを、

救いとして告げ知らせるのです。

「自分の十字架を背負って」。

だれがそんなことを救いだと信じるでしょう。

だれがそんなことを喜んで受け入れるでしょう。

自分の十字架を背負って従うなど、

暗く、険しく、辛い重荷を担いで、

しぶしぶついて行くイメージが浮かびます。

そんな道を行くのはいやです、

楽しく快適で浮き浮きする道にしてください。

そう願いたくもなることでしょう。

でも、もしそれが願いだとしたら、

わたしたちは非現実の幻想の世界を、

あたかも旅しているかのような気分になるだけの、

ごまかしの生涯を歩まされるだけです。

自分の十字架を背負う。

それはどういう意味なのでしょうか。

その意味をイエス様は、

つづく「なぜなら」という理由を告げて、

続く言葉で明らかにしています。

「なぜなら、自分の命を救いたいと思う者は、

誰でもそれを失うが、

誰でもわたしのため、

福音のために命を失うなら、

それを救うことになる」。

さらに続けて言われます。

「なぜなら、人は全世界を獲得して、

自分の命を失えば、

いったい何を得るというのか」。

残念ながら、日本語の聖書は、

「なぜなら」を訳してはいません。

福音書の原典にあって日本語聖書にはない、

「なぜなら」という言葉こそ、

実は、ここには絶対必要です。

「自分の十字架を背負って」とは、

いったいどういう意味なのかを、

イエス様がはっきりと語っていることを、

「なぜなら」は明らかにしているからです。

なぜ自分の十字架を背負って従うべきなのか。

「なぜなら、自分の命を救おうとしている限り、

それを失うが、

わたしのため、福音のために、

それを失うなら、

命を救うことになるからだ。

なぜなら、人は世界を手に入れて、

だが自分の命を失ったら、

いったい何を得るというのか。

失った自分の命を買い戻すのに、

どんな代替品があると言うのか」。

ここでイエス様が問いかけるのは、

何のために生きるのかということです。

人はそれぞれ、自分の生涯を、

「自分の十字架を背負って」、

つまり負って歩むべき荷物を背負って生きます。

自分の十字架がなんであるのかは人それぞれです。

人はどのような荷物を負うのか、

ある程度選べるものもあるでしょうが、

多くの、そして特に重大な荷物については、

選ぶことのできない、

一方的に与えられ、負わされるものです。

どの時代、どの国、どの民族、どの人種、

どの性別、どの家柄、どのような境遇か。

それらは予め与えられた負うべき荷です。

さまざまな身体的・精神的障がい、

病、容姿、経済的環境、その他もろもろ。

ある人にとって苛酷な重荷であり、

ある人にとって他の人よりも有利な立場の、

負いやすいと感じる荷物かもしれません。

たしかなことは、

まったく何も負わないフリーの歩みは、

だれにも現実ではないことです。

人の背中を見てその荷物をうらやんだり、

あるいは自分でなくてよかったと思うことは、

わたしたちの歩みを良くはしません。

イエス様の場合、ご自分の負うべき十字架は、

文字通り、ゴルゴタでの十字架であり、

苦難と死の道を歩むことでした。

わたしたちはどうなのでしょうか。

わたしたちのこの群れの中だけでも、

ことのほか重い十字架を負わされていると、

そのように感じておられる方があるでしょう。

あるいは、いろいろな重荷はあるにしても、

自分の荷は軽いと感じる方もあるでしょう。

もし、重い苦難を負わされているとしたら、

自分のその十字架を呪い、

わが身の不幸を嘆いて生きることが、

その人の歩む道となるのでしょうか。

あるいは、反対に、

いろいろなものに恵まれている人が、

全世界を獲得して、

それで自分の命を獲得したと思い込んで、

それが自分の歩む道だと考えるのでしょうか。

人は誰でも、

自分の十字架を背負って生きています。

しかし、もし、

ただ自分の十字架を背負って生きるだけなら、

その十字架がどのようなものか次第で、

生き方そのものが運命的に捉えられて、

嘆いたり悲しんだり、

あるいは誇ったり高ぶったり、

境遇次第で浮き沈みの激しい道を、

わたしたちは歩まされることになります。

もし、それぞれの十字架を背負う歩みが、

キリストと結ばれるならどうなるのでしょうか。

その時、自分が背負っている十字架が、

それがどのようなものであれ、

キリストにおいて、

意味のあるものとなると信じます。

イエス様の言葉は、

とても興味深く面白いものです。

日本語訳の聖書はちょっと曖昧ですが、

直訳するとこういう言葉です。

「自分の十字架を背負って、

それからわたしについて来なさい」。

この言葉が明らかにしているのは、

自分の十字架を背負うことが、

意味のある肯定的なこととして、

示されているということです。

自分の十字架を背負うことは、

重荷を負う苦しみの道ではなく、

あるいは自分を誇る道ではなく、

キリストにあって意味がある道となる。

そういうことではないでしょうか。

そして、

わたしたちが十字架を背負って歩む、

そのわたしたちの道は、

わたし一人で歩む道ではありません。

イエス様はこう言われました。

「自分の十字架を背負って、

それからわたしについて来なさい」。

このわたしたちの道を、

主イエスが先に歩んでおられます。

わたしたちは自分の歩む道を、

先立つ主イエスの後について歩むのです。

わたしはその風景を想像します。

わたしの前を、

わたしたちを救うための十字架を背負って、

イエス様が歩み、

わたしたちは自分の十字架を背負って、

その後をついて行きます。

わたしたちの自分の道を、

遠く離れてではなく、

すぐ目の前を、

主イエスはすぐそこにいて、

共に歩んでくださっている。

イエス様の声が聞こえるような気がします。

あなたの歩む道はわたしの道だという声が。

わたしはわたしの道を、

主の後について歩む。

それが命を救う道なのだと信じます。

 

 



(以上)

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