<待降節第2主日> 2020年12月6日(日) 礼拝説教 ![]() 闇の中に光が輝く (石田 学牧師) ![]() ![]() |
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◇ 聖書 < 新共同訳 > 1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 | |||
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説 | 説 | ◇ 説教 (石田 学牧師) 2020年12月6日 闇の中に光が輝く きょうはヨハネ福音書1:4−5から、 説教を準備させていただきました。 この箇所はとても翻訳が困難で、 解釈も難しい箇所です。 単語や文法は簡単なのですが、 幾通りにも受け取ることができ、 どれが適切な理解なのかは、 人によって異なるからです。 きょうの中心的な箇所ではありませんが、 1−3節も簡単に触れておきましょう。 福音書を書いたヨハネは1−3節で、 万物が神の言(ロゴス)によって創造され、 すべてのものは言によって成ったと語ります。 「初めに神は天地を創造した」と、 創世記は語り始めますが、 ヨハネはそれを受けて、 神による創造は神の言によったのだと告げ、 創世記の記述を説明しています。 万物が言によって創造されたことを踏まえて、 ヨハネは4節を続けます。 言の内に命があった。 しかし、この日本語訳はだいぶ曖昧で、 意味がわかりにくいです。 これでは、命が言のどこかに、 部分的に存在していたかのようです。 最新の聖書協会共同訳はこう訳しています。 言の内に成ったものは、命であった。 こちらの方がだいぶ良いように思います。 それでも、まだわかりにくいですね。 ヨハネが言おうとしているのは、 言が命の創造主であり、 言が命の源だということです。 聖書が最初に語る大切なことは、 神が天地を創造したということです。 ヨハネ福音書はこの創世記の言葉を受けて、 「万物は言によって成った」と告げます。 神はこの物質世界を創造なさいました。 神が創造したのは物質だけでしょうか。 いいえ。 この世界は物質だけで成り立ってはいません。 もしこの世界が物質だけだとしたら、 世界の存在は神にしか認識されません。 もし命が存在しないとしたら、 この世界の存在もまた無意味です。 世界の存在は誰にも知られないのですから。 神は、物質に宿る仕方で命を創造し、 あらゆる命の最後に、 人の命を創造なさいました。 わたしたちの命は神の言によって創造され、 神の言がわたしたちの命の源です。 わたしたちは物質的な意味だけでなく、 命そのものを神の言から受けています。 神の創造は、命の創造を目指したのであり、 その完成こそが、人の命です。 創世記は天地創造の出来事をこう語ります。 初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、 闇が深淵の面にあり、・・ この記述が告げることは明らかです。 神が天地を創造したとき、 闇がすべてを覆っていたということです。 無限の闇の拡がり、闇の支配に対して、 神はこう言われました。 光あれ。 すると光がありました。 神による光の創造です。 そして、創世記は、 闇に対して光の輝きが増し加えられてゆく、 そのような仕方で創造のを語るのです。 それはまるで、 闇の中に次々と輝く光が生み出され、 多様な被造物が出現し、 あたかも静まり返ったコンサートホールで、 楽器が一つずつ音を奏で始め、 しだいに多様な音が共演して響きわたり、 フル・オーケストラが交響するかのよう。 そのような仕方で世界は造られてゆきます。 そして、もっとも創造を輝かせるのは、 命の創造であり、 人の命が与えられる時です。 神の創造は、深淵に広がる闇への対抗であり、 もっとも力強い闇への勝利こそが、 命の創造です。 だから、闇の反対語は命であり、 命の反対語は闇だと言えるでしょう。 闇の反対語は光ではないのかって? はい、そうです。 だからヨハネはこう言うのです。 この命は人の光であった。(共同訳) 命は光。 命の対極は闇。 命が失われることは闇の勝利です。 なぜ人は死を恐れるのか。 その理由がここにあります。 死は闇の象徴であり、闇そのものだからです。 人の力で死を滅ぼすことができないように、 人の力では闇に立ち向かうことはできず、 闇に勝つことはできません。 いったい誰が死に対して、 そして闇に対抗して、 闇に打ち勝つことができるでしょうか。 闇の中に光を創造した方、 命の創造主である神だけです。 人は光を作る方法を発明しました。 火を使って闇を自分の周りから追い払い、 いろいろな燃料を工夫し、 原子力の火を灯し、 電球や蛍光灯やLEDを発明しました。 自分の魂を明るく照らすため、 富を蓄積し、身分階級で人の上下を作り、 宝石や金銀を身に付け、 陛下や閣下や将軍や社長や先生と呼び合い、 光輝く世界を創り出してきました。 しかし、しょせんは物質的な光。 それらはいくら輝かせても、 まことの光である命は得られません。 命の源である創造主、 神の言、それだけが、 人の命の望みです。 わたしたちの命は闇に囲まれています。 常に虚無に脅かされ、 闇の脅威にさらされています。 いったいだれが言えるでしょうか、 わたしの命は永久に安泰だと。 「明日も元気に頑張ろう」とは言えても、 明日の命すら保証できません。 あらゆる病がこの世界に溢れています。 がんや心臓病や脳血栓、内臓疾患、 定番のもろもろの病気に加え、 新型コロナウィルスの脅威にさらされ、 たぶんこれが最後の病気ではないでしょう。 闇の力はそのような仕方で身近にあります。 災害、暴力、敵意、破壊、老い、 挫折、失望、無力感。 わたしたちは自分で思う以上に、 わたしたちを飲み込もうとする、 諸々の闇の脅威にさらされています。 こうした闇の力に立ち向かうことは、 わたしたち自身にできることではありません。 ただ一人、 わたしたちの光である命の源、 神の言だけがその力を持つ方です。 だから、わたしたちは信じ、望みをおきます。 人となって世に来られた神の言、 わたしたちの主キリストを。 人の命の源である神の言キリストだけが、 闇に勝つ光の創造主だからです。 キリストを信じるとはいったいどういうことか。 その意味をよく理解しておきたいと思います。 キリストを信じるということは、 わたしたちの命の源が神の言、 キリストであるということです。 永遠の言であり命の源である、 キリストの命と結ばれることによってのみ、 わたしたちの命が、 一時的なものではない、永遠の命と結ばれます。 だから、わたしたちは心しておきましょう。 まことの光である神の言、 神の独り子キリスト以外の、 どこかに、あるいは何かに、 まことの光を求めることは間違いだと。 まことの光以外は、 それが何であれ、この世の何か、 すなわち物質的な光にしか過ぎず、 それらは一時的であって、 闇に勝つことはないからです。 神は万物を創造なさいました。 しかし、闇を消し去ったわけではありません。 この世界は、いわば深淵の間に造られました。 神の創造は深淵の間に光をもたらしましたが、 この世界が今も闇の淵にあることは、 世界の現実が証明しています。 最近、わたしはニュースを見るのが嫌です。 どれほど今の世界に闇が拡がり、 虚無の支配が迫っているかを、 つぶさに実感させられるからです。 アメリカの大統領選挙で、 わたしはつくづく思わされました。 なんと多くの人たちが、 力と強さの幻想に魅了されることか、 なんと多くの人たちが、 自分の信じたいことを信じることか。 それが偽りであっても、 根拠のないことであっても、 世界をいっそう混沌に向かわせても、 そんな幻想に浸らされ、 闇の欺きにだまされる人の、 なんと多いことか。 新型コロナウィルスの問題も含め、 世界はいま闇の力に侵食されています。 だが、わたしたちは闇に怯える必要はなく、 恐れに身をすくめて生きる必要もありません。 「光あれ」と言われた光の創造者、 わたしたちの光である命の源、 神の言が人となって世に来られ、 わたしたちを照らす光となられたからです。 闇の中に、キリストという光が輝いています。 闇はこの光に勝つことがありません。 わたしたちが使用している新共同訳聖書は、 5節をこう訳しています。 「暗闇は光を理解しなかった」。 以前の口語訳聖書は、こうでした。 「やみはこれに勝たなかった」。 「理解しなかった」と、 「勝たなかった」。 同じ動詞なのに、 どうしてこんなに違う訳になったのか。 その理由はわかっています。 この動詞は両方の意味を持っているのです。 どちらに解釈するかで、 この言葉の意味が全く異なってきます。 結論から言いましょう。 「闇は光に勝たなかった」。 そのように訳すべきです。 最新の聖書協会共同訳がそう訳しています。 闇は光に勝たなかった。 まことの光である神の言、 キリストに、闇は勝つことがない。 この宣言にこそわたしたちの希望があり、 わたしたちの確信と平安の根拠があります。 わたしたちは、 この神の言、命の源である、 キリストと結ばれているからです。
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