<待降節第3主日>

2020年12月13日()   礼拝説教
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何を光と信じるか、それが問題だ  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書


イザヤ書9:1

◆天地の創造

1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。


2) 新約聖書

ヨハネによる福音書1:6−9


6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、
また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年12月13


何を光と信じるか、それが問題だ


わたしたちは今のこの時代に、

新型コロナウィルスの感染拡大と、

それによってもたらされる諸問題のため、

先行きの見えない不安と、

自分たちの安全が脅かされている心配で、

闇の中を歩んでいるように感じています。

災害や疫病などはたしかに恐れを抱かせます。

聖書の中にもそうした恐れが出て来ます。

しかし、聖書が闇の恐れを語る場合、

そうした禍よりもむしろ、

人々の罪深さゆえにもたらされる闇こそ、

もっとも恐るべきものであることを、

わたしたちに告げているように思います。

きょうイザヤ書9:1を読みました。

預言者イザヤが語るのは、

人間の罪が作り出す悪こそが、

真に恐るべき闇だということです。

人々は軍事力に依存しようとし、

占いやまじないに頼り、

互いに愛し合わなくなり、

神への信頼を抱かなくなる、

そんな闇の中に、

イザヤの時代の人々は閉ざされています。

しかし、神が闇を勝利者にはしません。

イザヤは神がもたらす希望の未来を、

このように告げ知らせるのです。

 

  闇の中を歩む民は、

  大いなる光を見、

  死の陰の地に住む者の上に、

  光が輝いた。

 

この言葉で語り始める大いなる光こそ、

救い主誕生の預言でした。

イザヤは続けてこのように希望を告げます。

 

  ひとりのみどりごが、

  わたしたちのために生まれた。

 

預言は既に起きたことのように語られますが、

これは未来の希望の預言です。

預言者は神が来たらせる未来は、

確実にそうなると確信していたので、

あたかもすでに実現したかのような仕方で、

未来の希望を語ったのでした。

救い主の出現こそが光の到来です。

預言者の語る救い主の到来は、

神の言葉が人となって世に来られたことで、

実現したのでした。

きょう交読した詩編130編の詩人は、

暗闇の中を生きる人々の待望を代表して、

このように歌いました。

 

  わたしは主に望みをおき

  わたしの魂は望みをおき

  み言葉を待ち望みます。

  わたしの魂は主を待ち望みます。

  見張りが朝を待つにもまして。

 

詩人はみ言葉こそが闇を照らす光、

そう信じて闇が開けるのを待ち望みました。

これらの預言者や詩人の望みを受けて、

ヨハネ福音書は告げ知らせるのです。

「まことの光は世に来て、

すべての人を照らす」と。

イエス様が教えを宣べ伝え始めるに先立ち、

一人の人物が現れました。

洗礼者ヨハネと呼ばれたその人は、

いったい何者なのでしょうか。

人々から預言者と信じられた、

偉大な人物であったのは確かです。

ヨルダン川で人々に罪の悔い改めを説き、

洗礼を授けていたこの人物について、

ヨハネ福音書はこう書き記しています。

 

  彼は光ではなく、

  光について証するために来た。

 

ヨハネは光ではない。

光について証言するために来た人物。

それが福音書の語るヨハネ像です。

その洗礼者ヨハネが証言する光について、

福音書はこう語ります。

「その光は、まことの光」だと。

まことの光があると言うのなら、

まことの光ではない光、

つまり「偽りの光」も存在するはずです。

福音書がきょうの箇所で告げるのは、

まさにそのことです。

まことの光がある、

そして偽りの光もまた存在すると。

真実ではない光、

多くの人が光だと信じ込む、

偽りの光とは何を指すのでしょうか。

おそらく二つの偽りの光があるのでしょう。

この世界には警戒しなければならない、

二種類の偽りの光、

ほんとうは光ではないにもかかわらず、

多くの人がこれこそ光だと信じ込む、

そのような偽りの光があります。

その一つは、

偉大な人物や尊敬を集める預言者、賢者、

そして、それらの人たちが語る教えを、

わたしを照らす光だと信じ込むことです。

そうした人々やその教え自体は、

すばらしく説得力のあるものなのでしょう。

洗礼者ヨハネの言葉に多くの人々は感動し、

こぞって悔い改めの洗礼を受けたのです。

それでも、わたしたちは、

なぜヨハネ福音書が洗礼者ヨハネを、

「彼は光ではない」と明言したのか、

その理由を考えなければなりません。

福音書がヨハネを光ではないと告げたのは、

彼のことを世の光と信じ、

救い主として従う人たちがいたからです。

福音書には「ヨハネの弟子たち」が登場します。

ヨハネが処刑された後も、

ヨハネの弟子たちは活動していました。

古代キリスト教の研究者たちは、

教会が始まったごく初期の時代には、

ヨハネをメシアと信じる弟子たちと、

イエス様を信じる弟子たちが存在して、

両者は競い合っていたと考えています。

ヨハネを光と信じるヨハネ教団が存在した。

その可能性は高いようです。

それだけヨハネは偉大だったのでしょう。

イエス様自身も洗礼者ヨハネのことを、

「預言者以上の者」

「もっとも偉大な者」

と高く評価しています。

それほどの偉大な人物であるのなら、

なぜ彼を光と信じていけないのでしょうか。

偉大な教師や賢者、神の遣わす聖人は、

だいたい似たような教えを語っています。

ある学者たちは、

イエス様の言葉と古代ペルシアやバビロン、

その他で活躍した賢者の言葉や、

人々の間で受け継がれて来た格言を調べると、

イエス様の言葉のほとんどは、

他の聖人や賢者や格言にもあると主張します。

なあんだ、それだったら、

別にイエス様でなくても、

他の偉大な賢者を信じても同じか。

そう考えるとしたら、

わたしたちは救い主の意味を間違えています。

たしかに、洗礼者ヨハネは人々を正し、

悔い改めへと導きました。

しかしヨハネには人々を救う力はありません。

もし正しい生き方をしたいだけなら、

ヨハネの弟子でも良いのでしょう。

しかし、人々の罪をあがない、赦し、

神の子としての身分を与え、

天の国と永遠の命を約束することは、

ヨハネにはできません。

それは神の遣わすメシア、

救い主だけが実現することだからです。

この世界には、ヨハネだけでなく、

たくさんの偉人や聖人、賢者がいます。

それらの人々の教えを真摯に受け止め、

教訓とすることは良いことだと思います。

しかし、それらの人々を救い主と信じ、

自分の救いを願うことになるなら、

偽りの光を信じることになります。

洗礼者ヨハネは偉大な預言者ですが、

彼には世の人々を救う力はありません。

だから福音書はヨハネの偉大さを認めた上で、

彼は光ではないとはっきり告げるのです。

もう一つの警戒すべき偽りの光は、

それよりもはるかに邪悪で危険です。

使徒パウロはコリントの信徒への手紙二で、

こんな言葉を書いています(11:15)。

 

  サタンでさえ光の天使を装う。

 

光のように装って人々を欺くサタン。

恐るべき偽りの光です。

この世界にはきらめく輝きがたくさんあります。

豊かな資産、輝く貴金属・宝石、

絢爛たる名声や地位、

そこまではなくても信頼できる預金通帳。

それらに依り頼んで誇るなら、

いつか自分の救いには何の役にも立たないと、

思い知らされる時が来ることでしょう。

それらの偽りの光を用いて、

サタンはイエス様を誘惑したのでした。

パンの誘惑、富の誘惑、支配の誘惑。

イエス様はそれらを斥けて、

公の働きを始められました。

イエス様に従うわたしたちは、

富も豊かさもある程度の預金残高も、

必要なことを知っていますが、

それらに自分の救いを依存したりはしません。

光の天使をサタンが装う時、

たいていはもっと巧妙なやり方をします。

光を装うサタンは、

正義を標榜し、

悪や不正と戦うことを主張します。

悪と戦い、不正を打ち破り、

正義を打ち立てよう。

このスローガンのもとで、

敵が誰か、何が悪かを明らかに示して、

人々をその闘いへと駆り立てます。

ヒトラーが主張した敵は、

共産主義者でありユダヤ人であり、

劣等な遺伝子を持つと決めつける人々でした。

軍国主義下の日本が敵だと主張したのは、

日本のアジア侵略を批判する欧米であり、

共産主義者であり、

天皇を神と認めないキリスト教徒でした。

やっかいなことは、

まことの光が呼びかける正義と公平が、

光を装うサタンの主張と、

一見同じように思われることです。

クリスチャンであっても、

よほど気を付けていないと、

光を装うサタンの主張を信じ込まされます。

なぜなら、サタンはキリストのふりをして、

偽キリストとして現れるからです。

しかし、違いを見極めることはできます。

まことの光と、光を装うサタン、

似たような主張のように思われても、

それがもたらす結果は対極的だからです。

光の天使を装うサタンが何を生み出すか、

その果実を見れば明らかです。

対立と敵意、分断と反目、報復と恐れが、

その行き着く先にあるとしたら、

たとえ正義を唱えているとしても、

たとえ悪との闘いを主張していても、

闇が偽装した偽の光です。

ヨハネ福音書は、

そうした偽りの光が溢れる闇の世に、

「まことの光」が来たと宣言しています。

そのまことの光は、

「恵みと真理に満ちて」います(1:14)。

そうであるとすれば、

そのまことの光が照らし出す道の先に、

わたしたちが見出すのは、

愛と慈しみ、和解と一致、

憐れみと共感のはずです。

光の照らす先にそれらを見出すなら、

わたしたちはそれこそまことの光、

そう信じて歩んでゆくことができます。

この世界はおそらく、

偽りの光の方が多く、

また強く輝いているのでしょう。

日々の生活の中でも、

信仰生活においても、

わたしたちにとって、

何を光と信じるか、

それが問題です。

まことの光であるキリストの輝きは、

この世界に対立や敵意や分断を作りません。

誰かに敵意や怒りを向けたり、

批判や攻撃を他の人に向けません。

まことの光であるキリストの輝きは、

それとは対極的に、

愛と慈しみ、和解と共存を作ります。

愛と憐れみを他の人に向けます。

それがまことの光の証。

そのキリストの光に照らされて、

わたしたちはこの世を旅してゆきましょう。

 

 

 



(以上)

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