<降誕節第1主日>

2020年12月27日()   礼拝説教
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キリストの満ちあふれる豊かさをさらに受けて  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書


イザヤ書11:1−5

◆平和の王

5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
6 ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

2) 新約聖書

ヨハネによる福音書1:14−18


14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年12月27


キリストの満ちあふれる豊かさをさらに受けて


きょうは今年五十二回目の日曜日。

一年の最後の日曜日です。

この一年を振り返っての、

皆さまの感想はいかがでしょうか。

わたし自身は八月に母を天の故郷に送りました。

しかし、予定していた弟と母の納骨は、

今年おこなうことができませんでした。

大学の授業は最初からオンラインでしたから、

学生と一度も顔を合わせることがなく、

もうあと数回の授業で終わってしまいます。

今年受け持った学生の中の幾人かでも、

来年の別の授業で会いたいと思いましたが、

来年もオンライン授業が決まりました。

神学校も今年は授業では一度も学校に行かず、

すべてオンラインでの授業でした。

それはそれで良い点もあるのですが、

学校というものの在り方が根本から問われる、

そのような一年でした。

春先には新型コロナウィルスについて、

わたし自身はかなり軽く考えていました。

しかし、今年も終わりが近づいてみれば、

世界はこのウィルスのため劇的に変化し、

いっそう予測不可能な世界になりつつある、

そのように感じられます。

一年で最後の日曜日は、

教会暦では降誕節第一日曜日。

神による救いの働きから見ると、

キリストの降誕の前と後で、

世界には決定的な違いが生じたという意味で、

新たな始まりの日曜日でもあります。

この事実には、

わたしたちのキリスト教信仰にとって、

大切で重大な意味があると思います。

終わりが新たな始まりになる。

それこそがキリスト教信仰の真髄だからです。

旧約の終わりが新約の始めになり、

キリストの死が罪の赦しの始めになり、

わたしたちの死もまた、

わたしたちの永遠の命の始めになるのです。

この一年、新型コロナウィルスは、

わたしたちに終わりを考えさせました。

古いままの考え方や社会の体質が、

終わりにならざるを得なくなりました。

その他、あらゆる面で生活が変化しました。

必要な変化が早められ、

新たな創意工夫が加速されたという意味で、

良い面もあったかと思います。

しかし、一年前の世界に戻ることは、

もはやあり得ないと言わざるを得ないほどに、

世界には重大な、あるいは深刻な変化が起き、

今から一年後に世界がどう変わっているか、

予測すらできない状態です。

明るい未来を信じたいという思いがある一方、

正反対の悲観的予測も心に浮かんできます。

新型コロナウィルスだけを考えてみても、

ウィルスの変異が次々に起こり、

感染力や重症化率の凶悪化が加速し、

制御不能になる悲観的未来にならないと、

いったい誰が断言できるでしょうか。

それに加えて、

あらゆる世界規模の問題や課題があり、

刻々、深刻化しつつ世界に拡散しています。

世の終わりを考えさせられます。

そして同時に、

終わりがどのような始まりになるかも、

考えさせられます。

ヨハネ福音書は、

世界が闇に覆われていると考えています。

罪ある人間の形作る社会は、

それ自体罪の支配を受けていて、

神の創造した世界と人間に対して、

抑圧的で破壊的な力を振るいます。

神がそのように世界を創造したのではなく、

人の罪が世界を歪め、

神がよしとされた世界とはかけ離れた、

罪の力に満ちた世界にしたのでした。

ヨハネ福音書は神の言のことを、

言は神と共にあり、

言は神であった。

万物は神の言によって創造された。

そう語ります。

ヨハネは神の言すなわちキリストが、

恵みと真理に満ちていたと言います。

つまり、この世界は

恵みと真理に満ちた神の言によって、

本来よいものとして創造されました。

世界が悪なのではなく、

人間が悪なのではなく、

物質が悪なのでもなく、

人間の罪が世界に悪を生み出し、

世界を神の創造と大きく異なる、

罪に満ちた世界にしてしまいました。

それが聖書の教える世界理解です。

神によって創造された世界は、

神に祝福された世界であり、

本来よいものですから、

神によるもっともすばらしい創造である、

この世界に満ちるあらゆる命、

中でも人の命は、

神による祝福と共に与えられた、

もっとも喜ばしい神の栄光のはずです。

人はさまざまな現実の中で命を与えられます。

多くの場合、そうしたこの世の現実は、

人の罪のゆえに歪められ、

不公正で不当な世界を創り出しています。

愛ではなく無関心が世を支配し、

憐れみではなく冷淡さが、

正義ではなく強い者の要求が、

公平ではなく人の欲が、

赦しではなく裁きが、

慈しみではなく暴力が、

この世界を動かす力となっています。

それでも、世界そのものは、

神が創造し祝福し、よいと言われた世界。

わたしたちの命は、

例外なく神によって創造され、

神の祝福を受けて与えられたものです。

だから、区別も差別もなしに無条件に、

喜ばしい、生きる価値のある命です。

人間の罪が創り出す、

不平等や不公平な世の中で、

不遇な境遇に生まれる人や、

苛酷な運命を負わされて生まれる人、

病や障がいを持っている人がいます。

このわたしが神に祝福されているなど、

とうてい信じられない。

そのように感じる人もいます。

しかし、命が与えられていること自体、

祝福されていることの証です。

そこには例外はありません。

どのような苦難や試練の現実にあっても、

祝福されて与えられた命であることにおいて、

すべての人が等しいのであり、

生きることが無条件に肯定され、

神に喜ばれています。

人類はその歴史の中で幾度も、

民族や国や人種、文化を越えて、

人の命に価値付けをおこない、

価値の高い命と低い命、

優越した命と劣った命を区別し、

差別してきました。

近代のもっとも優れた国家で、

障がいのある人や特定の人種を、

「生きる価値のない命」として、

絶滅させようとしてこともあります。

どのような理由であれ口実であれ、

命に価値の違いや等級を付けることは、

神の恵みと祝福に対する冒瀆であり、

神に対する敵対行為です。

現代社会でも同じことが起きています。

いじめは、ある人の命の価値を貶めます。

差別は命を価値付けする考えです。

ハラスメントは命を粗末に扱うことです。

どれも命を恵み祝す神への敵対行為です。

神が祝福して与えられた命は、

たとえ一日しか生きることがないとしても、

その一日を生きる権利と価値があります。

自分が生きる意味も価値もないなどと、

誰も考えたり言ったりするべきではなく、

誰も他の人の命を否定したり、

貶めたりすることがあってはなりません。

命はそれ自体が、神によしとされた、

神の創造の目的であり神の栄光だからです。

命は、生きること自体に意味があります。

それは確かなことです。

だが、もしそれだけだとしたら、

神の御子が人となって世に来られることは、

必要がなかったはずです。

どんな命もかけがえがない。

あらゆる命に価値がある。

それだけでは理解することのできない、

はるかに大きなかけがえのない目的のため、

神の御子が人となって世に来られた。

それがヨハネ福音書の告げることであり、

イエス・キリストが世に来られ、

生涯をとおして成し遂げられたことです。

人は神の恵みを受けて、

祝福されて命を与えられています。

しかし、人は罪のために神から離れています。

この世界は人の罪のために、

神の創造とは大きくかけ離れた、

罪の力が支配する世界です。

この世は罪のため闇に覆われている。

それがヨハネ福音書の物語る、

この世界の現実です。

その現実の中で、

ただ命は祝福されている、

生きる権利と価値は等しい、

そのようにいくら考えるとしても、

人は罪の現実が支配するこの世界で生まれ、

生き、死んでゆくだけです。

それで終わらせないために、

恵みと真理に満ちた神の言が世に来ました。

神の言の恵みと真理をいっそう豊かに与え、

恵みに満ちあふれさせるために、

神の御子が世に来られました。

神はその独り子を遣わすほどに、

深く世を愛されたと福音書は語ります。

人々がこの世界で生きるだけでなく、

人々を救うために、

神の言である神の御子が、

人となって世に来られました。

たしかにわたしたちは、

どのような現実にあるとしても、

健康であっても病を負っていても、

豊かであっても貧しくても、

平穏であっても苦難を負っていても、

例外なく命が祝福されています。

しかし、そのことを遙かに超える恵みを、

神はわたしたちに与えてくださいます。

御子をとおして、

この世で祝福された命というだけでは、

決して受け取ることのできない、

創造の恵みに代えての、

絶大な恵みを、

神はキリストを通して与えてくださいました。

わたしにとってずっと不思議に思う、

謎に満ちた言葉がきょうの箇所にあります。

 

  わたしたちは皆、

  この方の満ちあふれる豊かさの中から、

  恵みの上に、更に恵みを受けた。

 

「恵みの上に、更に恵みを受けた」。

この言葉には、ギリシア語の前置詞で、

「アンティ」という単語が使われています。

日本語は「その上にさらに」と訳しています。

しかし、この訳だと、

「恵みの上にさらに積み重ねて」、

という意味になることでしょう。

しかし、「アンティ」という前置詞は、

日本語でも使われる、

あの「アンチ」のことです。

「アンチ巨人軍」とか、

「アンチ・・」という仕方で。

アンティは、「・・に代えて」

「・・の代わりに」

「・・と引き換えに」という意味の語です。

もし恵みの上に更に恵みを、ということなら、

アンティではなく別の語が適切です。

ここで福音書が言おうとしているのは、

「恵みに代えて恵みを」

という意味ではないでしょうか。

前の恵みを反古にしたり否定したり、

という意味ではありません。

前の恵みに代えてはるかに豊かな恵みを、

神はキリストを通して与えてくださった。

そういう意味ではないのでしょうか。

この世においてすべての人の命は、

神に等しく祝福されています。

しかし、それだけではなく、

わたしたちはキリストによって与えられる、

満ちあふれる豊かさをさらに受けて、

この世の命を生きています。

その満ちあふれる豊かさとは、

キリストと信仰によって結ばれることで、

わたしたちは神の子とされて生き、

天の国と永遠の命の望みという、

更なる豊かさを恵みとして与えられて、

この世の命をこの世限りでなく、

永遠の命へと引き継がれる仕方で、

生きることができるということです。

だから、わたしたちの生涯は、

神への感謝に満ちたものとなります。

 

 



(以上)

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