<降誕節第2主日>

2021年1月1日()   礼拝説教
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対立、分断、そして未来の見えない世界をどう生きるか  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書


創世記3:1−10

◆蛇の誘惑

1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」



2) 新約聖書

ヨハネによる福音書1:14−18



 

14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2021年1月3


なぜキリストを見上げて生きるのか


皆さま、新年おめでとうございます。

元旦礼拝でも同じ挨拶を交わしましたが、

改めて同じ挨拶から始めさせていただきます。

わたしたちは新たに、

2021年の旅を始めました。

きょうはその最初の日曜日。

これからまた一年間、

きょうを含めて五十二回の礼拝を守ります。

あたかも巡礼者が、

旅の途上に設けられたチェックポイントで、

その旅を続けていることを確認するように、

この一年間も五十二回、

わたしたちも旅の途上での中継点を、

礼拝という形で通過してゆきます。

もちろん五十二回全部に出席できる方は、

そう多くはないかもしれません。

しかし、教会に来られる回数に関係なく、

五十二回の日曜日を迎えるのですから、

場所が教会であれ、

あるいは他のどこかであれ、

主なる神に礼拝を捧げる日であることを覚え、

その時にいる場所で祈り、

神への感謝を捧げていただきたいと思います。

二日前、教会で元旦礼拝を祝いました。

その礼拝の中でわたしは、

対立、分断、そして未来の見えない世界を、

どう生きるかという主題で説教しました。

「どう生きるか」。

この問いは人間にとって本質的なものですが、

特に不透明な時代、危機の時代には、

必ず問わざるをえない課題です。

平穏でこれといった問題のない時代なら、

そのようなことを考えなくても、

生きることだけならできるでしょう。

しかし、今や、

ぼーっと生きていても困らない時代は過ぎ去り、

もう戻ってくることはないと思います。

これからは、対立、分断、

そして未来の見えない時代が続きます。

だから、生き方が問われる時代です。

そして、重要なことは、

どう生きるかを考えるためには、

自分の正体を知る必要があることです。

自分が何者であるかをわきまえずに、

どう生きるかを考えることはできません。

わたしたちはいったい、何者でしょうか。

もっと具体的でピンポイントに問いましょう。

わたしたちキリスト者は何者なのでしょうか。

クリスチャンのアイデンティティは何か。

そのことが問われねばなりません。

きょう、わたしたちはいっしょに、

詩編百編を読みました。

この詩編こそは、

わたしたちの正体を最も明確に告げてくれます。

 

  知れ、主こそ神であると。

  主はわたしたちを造られた。

  わたしたちは主のもの、その民

  主に養われる羊の群れ。

 

これほど具体的に、はっきりと、

わたしたちの身元正体を語る聖書の言葉はない。

わたしはそのように思います。

主なる神によって造られたこの命を、

主の民として主に養われて生きる。

それがわたしたちであることを、

この詩編は教えてくれます。

しかし、それだけではありません。

この詩編はもう一つ、

とても重要なことを告げています。

わたしたちは今のこの場所、この環境、

この世界に留まって生きる民ではなく、

この世界の先にある目的地を目指して、

この世を旅している民だということです。

この詩編の詩人がどこを目指しているのか。

それは明らかです。

詩人は喜びを込めてこう歌います。

 

  感謝の歌を歌って主の門に進み

  賛美の歌を歌って主の庭に入れ。

 

想像力がかき立てられる詩です。

詩人は遠くから巡礼の旅をして、

ようやくエルサレムを見上げる所に来ている。

そのように考えてみましょう。

都を見上げ、その中央にある神殿を思い、

エルサレムの城門をくぐって、

神殿の庭に到着するその喜びと期待に、

胸を高鳴らせてこの歌を歌うのです。

巡礼者は、旅の目的地に着こうとしています。

ここに来るまでの旅はどうだったでしょうか。

平穏で安全な旅であったかもしれません。

しかし、むしろ、

困難や苦労、危険や心配を体験しながらの、

難儀の多い旅であったように思います。

だからこそ、旅の終わりが近づいた時、

その喜びはひとしおだったのではないでしょうか。

詩人が具体的に歌う目的地はエルサレムであり、

そこにある神殿です。

しかし、この詩はわたしたちの旅、

この世を旅するわたしたちの歌でもあります。

わたしたちは主の門を通って、

主の庭に入ることを目指して、

この世の旅をしているのですから。

「主の門」「主の庭」が象徴するのは、

わたしたちが目指す神の国です。

神の国。

そこは恵みと慈しみが満ち、

神の平和(シャローム)が支配する国、

対立も分断も、もはやなく、

死も恐れもない神の領域です。

この世界の中ではありえない、

神の世界での現実です。

神の国を望む人は、だから、

この世の定住者ではありえません。

この世では旅人であり寄留者です。

しかし、その旅を止めてしまい、

この世の定住者になってしまうのは、

実はとても簡単なことです。

この世の何か、

それが自分の命であれ、

金であれ名誉であれ、

欲を満たすことであれ、

さまざまな利益や御利益であれ、

それらをいちばん大切で欲しいものとすれば、

この世の定住者になるからです。

あるいは、

この世に溢れる対立と分断に取り込まれ、

敵と味方に分ける仕方で世界を考えれば、

この世の定住者になるからです。

あるいは、この世だけに目を向けて、

この世の何かに心を奪われ、没頭すれば、

もう立派なこの世の定住者に戻ります。

この世界は、わたしたちの目と心を占領し、

わたしたちの魂を虜にするもので溢れています。

誤解しないでいただきたいのは、

この世のいろいろなものの放棄を求めたり、

不必要なものだと言っているのではありません。

自分たちの身元正体を見失ったり、

あるいは求めるリストの二番目、三番目に、

もしくはもっと下位に位置づけること、

それが、わたしたちの陥る危険と罠です。

わたしたちが自分の身元正体を見失わず、

忘れてしまうことがなく、

常に、ずっと、

自分が神に養われる神の民であること、

神の国を目指す旅人であると自覚するためには、

この世界で横だけを見て、

水平方向だけに目を向け、

この世のことだけを関心事にするのではなく、

上を見上げてこの世を旅することが必要です。

わたしたちが目的地である天の御国を見上げ、

そこに入ることを切に祈り求めるのは、

そこが、そこだけが、

命の主であり恵みと慈しみに満ちた、

唯一の神がおられる国だからです。

わたしたちが本当に願いとすることは、

天の御国という場所に入ることよりも、

むしろ、

神と共にいることです。

神が共にいてくださるところ、

それをわたしたちは神の国と呼び、

天の御国と呼んでいます。

わたしたちは神を求め、

神と共にいることを願い、

神を見上げてこの世を旅しています。

しかし、その神はどのような神でしょうか。

あそこにいる、ここにいると言える、

場所と空間に縛られた方でしょうか。

どこかの民族の神でしょうか。

国家の守護神でしょうか。

繁栄を保証する御利益の神でしょうか。

自分の願望を満たす召し使いのような神?

あるいは「わたしは神はこうだと思う」と、

自分のイマジネーションで作り上げる神?

ヨハネ福音書はこの点で明快です。

 

  いまだかつて、神を見た者はいない。

 

そうだとしたら、結局、

人は本当には神を知ることができないのでしょうか。

神は人の願望が造り出した幻想か、

人間の想像力の産物にすぎないのでしょうか。

いいえ。

わたしたちは神をはっきりと知ることができます。

確信をもって神を信じることができる、

ただ一つの、しかし揺るぎない根拠があります。

神の御子が人となって世に来られ、

人々を教え、病を癒し、

わたしたちを愛し慈しんで、

深い憐れみをもって小さな者を受け入れ、

世の罪を負い、あがなうために、

十字架で死なれ、よみがえられ、

今も天の御国におられるご自分と、

地にいるわたしたちを聖霊によって、

一つにつないでくださっているからです。

そのことをヨハネ福音書はこう宣言しました。

 

  父のふところにいる独り子である神、

  この方が神を示されたのである。

 

かつて、人となって世に来られた神の独り子、

イエス・キリストを見て、聞いて、触れた、

大勢の人々がいました。

ヨハネもその一人として証言しています。

彼らがキリストの言葉を、おこないを、

そして十字架と復活を、

代々に亘って証言し伝えてくれています。

キリストを知ることは神を知ること。

だから、わたしたちは天のキリストを見上げ、

キリストがおられる天の御国を目指し、

そこを目的の地として世の旅を続けます。

詩編の詩人と同じように、

感謝をささげ、御名をたたえながら。

これがわたしたちのこの一年の旅の仕方、

わたしたちの生き方となりますよう、

心から祈ります。

 

 



(以上)

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