<降誕節第3主日>

2021年1月10日()   礼拝説教
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「これに聞け」という言葉の重さ  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書


出エジプト記19:20〜20:3

◆シナイ山に着く

20 主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
21 主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。
22 また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」
23 モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」
24 主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」
25 モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。

20篇
◆十戒
1 神はこれらすべての言葉を告げられた。
2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。



2) 新約聖書

マルコによる福音書9:2−8


◆イエスの姿が変わる
 

2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2021年1月10


「これに聞け」という言葉の重さ


先週の水曜日、1月6日は公現祭でした。

その日から公現節に入りました。

クリスマスの季節が終わり、

しばらく祝祭のない通常の期間になります。

わたしたちはきょうから、

マルコによる福音書からの説教に戻ります。

昨年の待降節に入るまで、

マルコ福音書から説教してきました。

久しぶりに戻るので、

どんな場面でマルコ福音書を中断したか、

覚えておられる方は少ないでしょう。

わたしも改めて見直しました。

そう、イエス様が弟子たちを伴って、

とても不思議な旅をなさった箇所でした。

まもなくイエス様たちはエルサレムを目指します。

エルサレムはガリラヤ地方のずっと南です。

もし、近々エルサレムへと向かうのなら、

南か、せめて西の方に行くべきでしょう。

ところがイエス様は弟子を連れて、

ずっと北の地方、

ユダヤ人の住む地域の北の外れ、

フィリポ・カイサリア地方に行きました。

目的のエルサレムとは正反対です。

どうしてそんな余計な道行きをしたのか、

その理由がわかりません。

何か必要と意味があったのでしょう。

マルコはその時イエス様が三人の弟子と、

「高い山に登られた」と告げます。

なるほど、高い山に登るのが、

この北の地方に来た目的なのでしょう。

ユダヤには他に丘陵地帯はあっても、

高い山はこの地方にしかなかったからです。

おそらくヘルモン山という、

三千メートル近い山が連なる山岳地帯です。

その山裾にある高い山のどれかが、

イエス様と三人の登った山に違いありません。

そこで、きょうの福音書の出来事、

イエス様の姿が変貌するという、

神秘の出来事が起きました。

いったいなぜ、なんのためでしょうか。

何を体験したくて、

あるいは何を弟子たちに体験させたくて、

わざわざこんな遠くの地方に来て、

高い山を目指すようなことになったのか。

何のためにイエス様の姿が一時的に変貌したのか。

そこには意味と目的があったはずです。

でも、福音書はそのことを伝えていません。

だが、考える手がかりがあります。

きょう旧約聖書は出エジプト記から読みました。

この箇所とマルコ福音書の出来事は、

とてもよく似ています。

皆さんも出エジプト記とマルコ福音書を読んで、

そこには関係がありそうだと感じたはずです。

エジプトを脱出したヘブライ人一行は、

エジプトの軍隊の追跡から逃れると、

シナイ山のふもとに来ます。

そこでしばらく滞在するよう神から命じられ、

荒れ野で神から十戒を受けることになります。

その時、モーセがシナイ山に登り、

神と語り合い、十戒を授けられました。

その後いろいろややこしい出来事がありますが、

今回はそれが目的ではありませんので、

省略しましょう。

結論から言うと、

最初の十戒の板をモーセは砕いてしまい、

再度、シナイ山で十戒を授けられます。

その時、モーセが山から下りると、

モーセの顔は神の威光を受けて、

光を放っていたというのです(34:29-35)。

ヘルモン山でイエス様の変貌を見た弟子は、

かつてシナイ山でモーセの身に起きた、

顔が光を放って白く輝いていたという、

その出来事を思い出したはずです。

その時三人の弟子が見たのは、

イエス様の姿がまっ白に光輝き、

エリヤとモーセが現れて、

イエス様と語り合っている光景です。

シナイ山のモーセと同じだ、

彼らはそう感じたに違いありません。

この出来事に驚き、

畏怖を抱いたペトロは、

見当外れなことを口走ります。

 

  先生、わたしたちがここにいるのは、

  すばらしいことです。

  仮小屋を三つ建てましょう。

  一つはあなたのため、

  一つはモーセのため、

  一つはエリヤのためです。

 

ペトロは何を言いたかったのでしょう。

仮小屋とは何でしょうか。

まったく意味不明の言葉を、

ペトロは自分でも分からず口走りました。

マルコは的確に説明しています。

 

  ペトロは、どう言えばよいのか、

  わからなかった。

 

意味不明な言葉ですが、

たしかなことが一つあります。

ペトロは、目の前で、

シナイ山でモーセに起きたことと同じことが、

今まさに起きていると思い込んだのです。

モーセの身に起きたことが、

いまイエス様の身にも起きていると。

モーセの体験の再現です。

本当にそうだったのでしょうか。

シナイ山でモーセが体験したこと、

それは神がモーセに現れたことでした。

神の威光を受けて、

モーセの顔は光を放ちました。

イエス様はその時、

神の威光を受けて、

白く光り輝いたのでしょうか。

いいえ、違います。

かつてシナイ山でモーセが体験したことと、

いまイエス様の身に起きていることは、

似て異なるものです。

なぜなら、イエス様の姿が白く輝いたのは、

神の威光を受けたからではなく、

神の光が一時的に宿ったからでもないからです。

イエス様ご自身が神の威光の光を放ち、

弟子たちはイエス様がその威光に輝くのを、

目の当たりにしたのでした。

天の御座におられた神の御子の、

神としての輝きを弟子たちは見たのでした。

本当なら弟子たちはその時、

この方、イエス様こそが、

神の御子、神そのものであると悟るべきでした。

しかし、彼らはそうは考えませんでした。

目の前にいるこの方は、

モーセやエリヤと並び称されるべき、

偉大な人間の一人だと思い込んだのでした。

多くの人はイエス様のことを、

偉大な聖者の一人と思い込んでいます。

世界四大聖人の一人として崇めたりします。

それは多くの人にとって、

最大の尊敬と評価の証なのでしょう。

でも、どれほど偉大だと信じても、

一人の人間として崇めているだけです。

神の威光を自ら放ち、

白く光り輝くこの方こそ、

信じ従うべき神に他ならない。

そう考えるべきでした。

こんな考え違いをしている弟子たちに、

天の神は呼びかけます。

イエスというこの方こそ神であることを、

天の父なる神の声が宣言します。

 

  これはわたしの愛する子、

  これに聞け。

 

唯一の神の内に、

父と子の区別があり、

父と同様に子も神であること。

だから子なる神に聞き従うことは、

神に聞き従うことに他ならない。

そのことが弟子たちに明らかにされた瞬間です。

弟子たちはその声の主を探します。

でも、もはや誰も見えず、

彼らが見たのはイエス様だけ。

「これに聞け」というと物扱いのようです。

「この人に聞け」の方がよいでしょうか。

その声に促されて、

その時弟子たちが見たのは、

もはや神の威光を放ち、

まっ白に輝くイエス様ではありません。

それまでと変わらない、

もとどおりのイエス様。

人々を教え、病の人に触れて癒し、

憐れみを抱き、ファリサイ派と議論し、

貧しく、時に疲れて眠り、

弟子たちといっしょに旅して来た、

その人を彼らは見たのでした。

「この人に聞け」という声が示した方は、

光輝く神の子ではなく、

現実の中で弟子を集め、

人々を愛し憐れみ、

教え、慰め、癒し、導く方。

その方に聞き従えと宣言されたのでした。

イエス様のすべてが彼らを教え導く道標。

そして彼らが望みを託すべきは、

神の威光をかざす支配や権力ではなく、

苦難を受け、十字架につけられて死に、

復活する神の御子です。

しかし、どうやら人間というものは、

神の威光をまとって光輝く、

栄光のキリストに従いたいようです。

神の光で人々を輝かせ、

成功と繁栄を保証する、

権威と権力と勝利を掲げる、

栄光のキリストに従いたいようです。

キリスト教の歴史の中で、

どれほど繰り返し、

そのような光輝くキリストが描かれ、

信じられてきたことでしょう。

多くの場合、

国家の繁栄、戦争の勝利、

王や権力者の栄光が、

光り輝くキリストと結び付けられてきました。

アメリカの悲劇は、

国家の権威とキリストを結び付け、

繁栄と成功の神学を信じてきたことに、

根本の原因があるように思われます。

キリストを国家の繁栄や権威と結び付けたり、

自分の成功や幸運と結び付けることは、

キリストを信じているという口実のもとで、

実はまったく異なるものに耳を傾け、

キリストではない別のものに聞き従うことです。

人々は光輝くキリストの幻想を掲げ、

キリストの威光を自分の身にまとわせて、

願望が創り出す光輝く幻想のキリストに、

自らを聞き従わせる誘惑にさらされます。

だから、わたしたちは、

いつも思い起こさねばなりません。

「この人に聞け」という声で、

弟子たちが見たのはイエス様であったことを。

「これに聞け」と告げる声は、

あの時、あの場所にいた三人の弟子だけでなく、

時代を越え、文化を超え、民族を越えて、

すべてのキリストを信じる人に対して、

今も呼びかけられています。

常にイエス様を見て、

その姿に倣い、

聞き従うようにと。

「これに聞け」という父なる神の言葉は、

わたしたちにとって、

とても重い意味を持つ言葉だということを、

常に心に留めておきたいと思います。

 

 



(以上)

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