<降誕節第4主日>

2021年1月17日()   礼拝説教
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人の期待する救い主 VS 神の遣わす救い主  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書


列王記上19:9−18



9 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。
16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。
18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

2) 新約聖書

マルコによる福音書9:9−13



 

9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2021年1月17


人の期待する救い主 VS 神の遣わす救い主


きょうの説教題にはVSという文字があります。

VERSUSの略、

つまり「〇〇対××」の「対」の意味です。

人間の期待する救い主 対 神の遣わす救い主。

人は何を救いと考えるのか、

だれを救い主と信じるのか。

この問題は人類に共通の問いでもあります。

きょうの福音書は、

まさにその問題が問われている箇所です。

世間には伝統的な宗教から新興宗教まで、

実に多彩な信仰のかたちがあります。

ほとんどの場合、

どの宗教も、共通した課題に応え、

人々の願いをかなえようとしてきました。

貧しさ、病気、苦労という三大苦難の解決。

それらを掲げる宗教教団が、

多くの信者を集めてきました。

最近ではいわゆる貧病苦だけでなく、

仲間との居場所を提供することで、

あるいは自己啓発や能力開発を掲げることで、

若者から中年層の間で人気のようです。

キリスト教は人々のそうした期待とは正反対。

貧しさを解決することを掲げず、

病が癒されることを歌い文句にはせず、

苦しみの解決を保証することもないです。

そういうことからすると、

キリスト教に大勢の人が集まることはなく、

多くの人々を引き付けることにならないのは、

仕方のないことかもしれません。

あまりに面白みがないのは問題ですが。

キリスト教と称するものの中には、

繁栄や成功を売り物にする所もあり、

そういう教会にはそれなりに人が集まり、

人気があるようです。

多くの人が何を求め願っているか、

とてもわかりやすいと思います。

さて、それでは、

キリスト教の原点と言うべき、

イエス・キリストはどうだったでしょうか。

イエス様に従う弟子たちはいましたし、

大勢の人々が集まっていたのは確かです。

しかし、多くの人は病の癒しを願い、

あるいは聞きたいと思う言葉を聞くため、

イエス様のもとに群がって来ました。

そのため、ヨハネ福音書によると、

イエス様が教えを語れば語るほど、

人々は離れていったようです。

期待していたものとは違ったのでしょう。

イエス様を信じて従う人たちよりも、

批判し、攻撃し、敵視する人の方が多く、

特にその時代の宗教指導者や権力者たちは、

イエス様を嫌い、敵視しました。

イエス様のもとに来る人たちの大半は、

貧しい人や罪びととみなされていた人、

病人や悪霊に取り憑かれた人、

そして下層民でした。

なぜイエス様は宗教指導者や権力者から嫌われ、

敵意を向けられたのでしょうか。

それはイエス様が伝統的な宗教権威を批判し、

権力に媚びることをしなかったからです。

要するに強い者の味方をしなかったからです。

イエス様の時代のユダヤでは

ほとんどの人がメシアの到来、

つまり救い主が来ることを信じ、

待ち望んでいました。

宗教指導者も政治的権力者も、

一般庶民も同じように信じていました。

だが、どんなメシアを期待したのでしょうか。

どんな救いを待ち望んでいたのでしょうか。

聖書は、やがてメシアが来る日のことを

「主の日」と呼び、

神による審判の日と教えています。

メシアが来れば、

その日にはイスラエルを苦しめる敵は裁かれ、

神の栄光がイスラエルにもたらされる。

その日が来ることを人々は待ち望みました。

主の日、審判の日、メシアが来るその日の前、

神は預言者エリヤを遣わし、

メシアが来るための備えをしてくださる。

人々はそのように信じていました。

実際、旧約聖書最後の文書、

マラキ書の一番最後、

つまり旧約聖書の最終部分に、

その預言があります。

 

  見よ、わたしは

  大いなる恐るべき主の日が来る前に

  預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

  彼は父の心を子に

  子の心を父に向けさせる。

 

終わりの日にメシアが来るに先立って、

神は預言者エリヤを遣わす。

エリヤは主が来られるための備えをする。

だからエリヤが来たなら、

すぐに続いてメシアが来ることが分かる。

人々はそう信じて期待していました。

でも、誰がエリヤだとわかるのでしょうか。

どうしたら本物のエリヤと信じられるでしょうか。

あれがエリヤだ、いやこの人こそそうだ。

そうした交錯するさまざまな意見に翻弄され、

人々は自分が期待し信じたいと願うものを信じ、

自分が信じたいと思わないものは信じません。

だから、バプテスマのヨハネが現れても、

宗教指導者や権力者は、

ヨハネが来たるべきエリヤと信じませんでした。

彼らが望むエリヤと違ったからです。

メシアについても同じです。

イエス様が世に来て人々を教えました。

イエス様こそ待ち望んできたメシアなのか、

あるいは違うのか。

結局、何を救いと考えるかによって、

待ち望むべきメシアがどのようなものか、

判断が分かれてくることになります。

宗教指導者や時の権力者たちにとって、

イエス様はまったく期待外れどころか、

むしろ危険人物でした。

国家宗教の強化に貢献せず、

国家の権力を支える役割を果たさず、

むしろ批判するからです。

多くの人たちにとっても、

イエス様は期待はずれでした。

人々は癒しを求め、

自由と解放の戦いを呼びかけるヒーロー、

国家の独立と他国の支配打ち破る、

強い王の出現を願ったからです。

イエス様は人々が救いと信じる、

国家の繁栄や民族の栄光を宣言せず、

敵への勝利を掲げませんでした。

大多数の人たちは、

勝利と繁栄をもたらし、

敵を滅ぼすメシアを望んだのでした。

人の期待する救い主の姿とは、

あまりに違うイエス様の姿、

あまりに程遠いイエス様の教えでした。

自分たちの期待に応えないのだから、

イエスは救い主ではない。

それが人々の結論でした。

期待外れは嫌悪に、

嫌悪は怒りに、

怒りは憎しみに変わってゆきます。

しかも、支配者や指導者にとっては、

イエス様のもとに貧しい者や罪びとが集まれば、

それはとても危険なことに思われます。

だから拒絶し、迫害し、苦しめ、

殺すことによって排除しました。

わたしたちは捕らえられ、苦しめられ、

十字架で殺されたイエス様に心を向け、

改めて考えてみましょう。

人々の期待に応え、

人々の願いを実現すると約束することが、

救い主であることの証なのかと。

というのも、

わたしたちもともすれば、

多くの人たちと同じことを救いと信じ、

願い求めることになりかねないからです。

病気の人が癒しを願い、

受験生が合格を祈り、

生活の苦しい人が豊かさを望む。

そのこと自体は正当なことです。

しかし、その願いを実現することが、

救い主の役割であると思い込み、

癒しや成功や豊かさを救いと結び付け、

それらが実現しないからといって

神を信じないことになるとしたら、

わたしたちは救いとは何か、

救い主とはどのような方かを、

まったく考え違いすることになります。

クリスチャンであっても、

そうした危険はいつもつきまといます。

現代でも多くの人々が期待する救いは、

昔とほとんど変わりません。

救いとは繁栄であり、成功であり、

健康であり、仲間を得ることです。

救いとは安泰のことであり、

ものごとがうまくいくことであり、

他の人に見下されないことです。

だから、イエス・キリストは、

人の期待する救い主とは、

あまりに違いすぎるのでしょう。

しかし、神が遣わした救い主は、

人々の願望に応えませんでした。

神の遣わす救い主がしたことは、

罪の赦しを告げ、

神の民として人々を受け入れ、

神の国の国籍と永遠の命の望みを与え、

この世の定住者であることから、

この世の寄留者へと招き、

天の国を目指す旅人としての生涯へと、

わたしたちを導くことでした。

人の期待する救い主は、

この世の定住者として成功することを、

人々に望ませ、約束します。

(かなう保証などないのに)

しかし、神の遣わす救い主は、

この世を旅する神の民へと、

わたしたちを呼び出して、

天の国を目指させます。

(キリストの復活がその実現の保証です)

人の期待する救い主 

VS

神の遣わす救い主

どちらをわたしたちは信じて望むのか。

わたしたちの答えは既に決まっています。

神の遣わす救い主は、

世の多くの人々には望まれず、

受け入れられず、

むしろ拒まれ、嫌われ、

憎まれ、苦しめられ、

十字架にかけられて死に、

そして、復活する救い主です。

そして、それこそが、

苦難と死、そして復活こそが、

真の救い主であることの、

たしかな証に他なりません。

わたしたちは、

十字架と復活の主イエスを、

わたしの主、わたしの救い主と信じます。

 

 



(以上)

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