<公現後第4主日>

2021年1月31日()   礼拝説教
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主の弟子たちよ、何を恐れるのか?  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書


イザヤ書53:11−12



11 彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。

2) 新約聖書

マルコによる福音書9:30−32


◆汚れた霊に取りつかれた子をいやす
 

30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2021年1月31


主の弟子たちよ、何を恐れるのか?


皆さんは何を怖いと思いますか。

恐れの原因はいろいろあるでしょう。

しかし、ほんとうのことを知ること、

それほど怖いことはありません。

恐ろしい事実や、

知りたくない不都合な真実を知ることを、

わたしも含めて、たいていの人は恐れます。

皆さんも心あたりがあることでしょう。

たとえば、体の調子が悪くて、

病院で検査をしたとしましょう。

お医者さんがうーんといいながら、

詳しい検査をしてみましょうと言います。

心配しながら再検査を受けて、

その結果を聞きに行くのが怖い。

できれば聞くのを先延ばしにしたい。

そう思わない方は、

そうとう心臓が強い方だと思います。

真実が自分の願うこととは違う、

自分の希望に反する。

その心配があるとき、

大抵の人は恐れを抱きます。

実際、不都合な真実(と感じること)を、

人は認めたくないとものです。

不都合なことは考えたくないと心が拒み、

正面から向き合うことを恐れます。

あの時の弟子たちがそうでした。

ガリラヤを通って旅していたとき、

イエス様は弟子たちに言うのです。

 

  人の子は、人々の手に引き渡され、

  殺される。

  殺されて三日の後に復活する。

 

イエス様による受難予告と呼ばれる言葉です。

イエス様は三回、受難の予告を告げました。

きょうの福音書の箇所は、

二回目の受難予告です。

弟子たちは初めて聞いたわけではありません。

この時よりももう少し前、

8:31−33の箇所で、

イエス様は最初の受難予告をなさいました。

「人の子は多くの苦しみを受け、殺される」。

それは弟子たちにとってまさに青天の霹靂。

驚いたペトロは、イエス様をわきに連れ出し、

諫め始めたというのです。

弟子が先生を叱るとは、なんということでしょう。

それほどまでにペトロたちには驚きの言葉でした。

信じられない、というよりもむしろ、

あり得ない、事実と受け入れられない言葉でした。

その一回目の受難予告の時、

イエス様を諫めたペトロは、

「サタン、引き下がれ」とまで言われました。

そうとうへこんだに違いありません。

今回は二回目の受難予告ですから、

弟子たちは一回目で既に聞かされています。

最初の時は驚き慌てましたが、

今回は二度目の受難予告です。

当然、弟子たちは言葉としては知っています。

だが、言葉としては知っていても、

それが何を意味するのかがわかりません。

弟子たちはまさにそういう状態でした。

マルコは弟子たちの様子をこう伝えています。

 

  弟子たちはこの言葉が分からなかった。

 

言葉自体は少しも難しくありません。

ただ、その意味がわかりません。

人々の手に引き渡される?

殺される?

三日の後に復活する?

いったいどういうことなのでしょうか。

わからないけれども、

弟子たちはうすうす気付き始めています。

もしかするとこの方は、

願い通りの救い主にはならないのではないか。

期待する救い主と違うのではないかと。

「先生、それはどういう意味ですか」。

はっきりとそう尋ねればよいのに、

弟子たちにはそれができないのです。

マルコは弟子たちの様子をこう伝えています。

 

  怖くて尋ねられなかった。

 

真実を知ることが怖いのです。

弟子たちが恐れたのは、

不都合な真実を知らされることでした。

この方は自分たちの望む救い主ではない、

そのことを知らされる恐れ。

この方は自分たちの願う救いを与えない、

その事実を知らされる恐れ。

将来もこの方といっしょにいたら、

自分たちも人々の手に引き渡され、

殺されるかもしれないという恐れ。

いったい、弟子たちは何を願い、

何を望みとして主イエスに従い、

イエス様と共に歩んできたのでしょうか。

少し先の、10章での出来事ですが、

二人の弟子ヤコブとヨハネが、

イエス様にこんな願いをします。

「栄光をお受けになるとき、

わたしどもの一人をあなたの右に、

もう一人を左に座らせてください」。

弟子たちの中で特に高い位に就きたい。

誰よりも出世することが彼らの願いでした。

すると、そのことを知った他の弟子が、

二人に対して腹を立てます。

自分たちを出し抜くとは何事だ。

それが怒りの原因でした。

弟子たちは期待していたに違いありません。

栄光に輝くイエス様といっしょに、

自分たちも栄光の座に着く時が来るはずだと。

その時を夢見て、

彼らはイエス様に従っていたのです。

だからイエス様の予告は不安をかき立てます。

引き渡され、殺される?

それが将来起きる出来事だとしたら、

この方は救い主ではないのか。

ほんとうはどうなのか。

でも、ほんとうのことを知るのが怖い。

彼らの恐れの正体、それは、

自分たちの願望が砕かれる恐れです。

今も人々が教会を訪れてまいります。

クリスチャンホームで育ったのでない限り、

誰にでも教会デビューの時があります。

皆、いろいろなことを期待して教会に来ます。

そして、イエス様に望みを託します。

ある人はもっとましな人間になりたいと望み、

ある人は人間の品性を高めたいと願い、

ある人は神の祝福を受けて成功したいと考え、

ある人は繁栄を望み、

ある人は病の癒しを求め、

ある人は悩み事の解決を期待し、

ある人は苦しみからの救いを願って。

しかし、教会に通い、

イエス様の教えとおこないを知り、

共に礼拝し、祈り、賛美するうちに、

人々は次第に感じるようになります。

自分が期待しているようなことを、

教会は、イエス様は、

わたしに提供してくれないのではないかと。

やがてそれは漠然とした恐れに変わります。

本当は、自分は間違っているのではないか。

期待し望んでいるようなものは、

ここでは与えてもらえないのではないかと。

成功や繁栄を与えてもらえると信じ、

期待してこれまで来たのに、

そうはならないのではないかという不安。

癒し、幸福、健康、悩みの解決を期待したが、

ここで与えられるものは、

そうしたことと違うのではないか。

心の中で疑いが生じてきます。

「イエス様、あなたは救い主ですよね、

わたしに成功や幸福を与えてくださる、

そういう救い主ですよね?」。

でも、教会で説教を聴き、

しだいにキリストの福音を知るにつれて、

疑問は膨らんでくることでしょう。

もしかすると、

わたしは大きな勘違いをしているのか。

もしかしたら、

わたしはここで与えられないことを、

虚しく期待しているだけなのかと。

真実を知ることを恐れて、

自分の期待にしがみつき、

やがて悟ることになるかもしれません。

キリスト教は望む救いを与えてくれない、

教会は期待外れだったと。

あるいは、違う風に悟るかもしれません。

イエス・キリストが与えてくださる救いは、

わたしが最初に思い込んでいた、

この世の常識が考える救いとは、

まったく異なるものだということを。

そして聖霊の光に照らされて、

こう信じるようになることでしょう。

ここにこそ、キリストを信じることにこそ、

わたしの真に望むべき救い、

わたしの魂からの求めに対する答えがあると。

イエス様はこの世での成功の秘訣を教えません。

この世の幸福な定住者への道を示しません。

成功や繁栄を約束する救い主ではありません。

イエス・キリストは、

この世の罪を負って十字架にかかり、

人々の罪をあがなう苦難の僕としての救い主。

わたしたちをこの世から贖い出して、

神に属する者として受け入れ、

天の国に国籍を持つ者としてくださり、

この世では、神の民すなわち寄留者として、

この世を旅する者として、

わたしたちを歩ませる救い主。

そのことをはっきりと知るなら、

わたしたちは神の民とされている事実のゆえに、

神の御心に沿う生き方を心から願います。

人は誰でも、自分の願いと期待を抱いています。

その実現を求めて教会に来ます。

しかし、やがて真実が明らかになってきます。

その時、恐れが生じることでしょう。

この世でうまく生きる定住者としての成功、

それがわたしの願いなのに、

イエス様はかなえてくれないのではないかと。

主の弟子たちも、それを恐れました。

しかし、わたしたちは、

神が心の内に呼びかける声を聞きましょう。

「主の弟子たちよ、何を恐れるのか?」。

この世での成功の秘訣、

この世での安泰が約束されないことが、

わたしたちの恐れの理由でしょうか。

恐れを捨てさりましょう。

わたしたちが約束されている救いは、

そうしたこととはまったく異なります。

わたしたちが信じるのは、

十字架と復活の主イエス・キリストです。

主イエスの与えてくださる救いは、

この世の常識や理解をはるかに超えます。

この世の常識によれば、

救いとはこの世の成功であり安泰であり、

この世の定住者となってうまく生きることです。

しかし、イエス・キリストの救いは、

わたしたちに天の国籍を与えて、

この世の寄留者として、

神の御心を世に表し、

よいおこないをしながら、

やがて天の故郷に行き着く時まで、

この世を喜んで感謝して旅することです。

皆さんはそういう神の民とされています。

恐れを捨てて、主イエスに従い、

この世を旅してまいりましょう。

天の故郷を目指して。

 

 



(以上)

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