<公現後第5主日>

2021年2月7日()   礼拝説教
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主イエスを受け入れるってどういうこと?  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書

申命記7:6−8

◆神の宝の民

6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

2) 新約聖書

マルコによる福音書9:33−37


◆いちばん偉い者
 

33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2021年2月7


主イエスを受け入れるってどういうこと?


うさぎ追いし、かの山

こぶな釣りし、かの川

 

「ふるさと」という歌は、

皆さんもよくご存じのことと思います。

わたしが育ったところは、

学校が終わると釣り竿を担いで、

久野川という川に行って魚釣りを楽しみ、

自転車で酒匂川まで行けば、

もっと大きな川で釣りが楽しめました。

故郷の懐かしさを感じさせる歌です。

とても好きな歌ではあるのですが、

三節の歌詞は心苦しくなります。

 

志を果たして、

いつの日にか帰らん

 

志を果たすことができず、

故郷に帰ることのできない嘆きが、

この歌詞から伝わってきます。

立身出世の夢を抱いて故郷を離れたが、

未だ夢を果たせていない現実にある。

その心情を思うと心が痛みます。

昔は、賢い子どもに対しては、

「末は博士か大臣か」と期待しました。

今でこそ博士にはなったものの就職できず、

大臣というと汚職の匂いが漂いますが、

昔は博士か大臣といえば、

立身出世の模範のようなもので、

「偉い人」の象徴でした。

「偉い人」。

今でこそ具体的な目標は違うとしても、

世の中がピラミッド社会には違いなく、

「偉い人」として、

その頂点に立ちたいという願いは、

全員というわけではないにしても、

多くの人が持っていることでしょう。

会社に勤めているのであれば、

平社員から係長、課長、部長、

そしてさらにその上を目指します。

それは必要で大切なことです。

そして世間の評価によるなら、

社会的地位や名声が高くなるほど、

「偉い人」と見なされます。

そこに十人集まれば、

その中で誰が一番偉いかを考え、

それによって対応も変わります。

その意味で、世間の人々は、

より「偉い人」になるために努力し、

競争し、時には闘い、上を目指します。

人はほとんどの場合、

自分を軸として自分より上か下かで、

他の人を値踏みして判断します。

世界共通だと思うのですが、

日本人の感性が特に上下に敏感なのは、

日本語の尊敬語と謙譲語の使い分けが、

とても厳密で難しいことからもわかります。

イエス様と弟子たちが旅をしています。

途上で弟子たちが何かを議論しています。

イエス様はそれに気付きましたが、

道の途中では何も言わず、

カファルナウムに到着して家に入ってから、

弟子たちに尋ねました。

「途中で何を議論していたのか」。

イエス様に尋ねられた弟子たちは沈黙します。

誰がいちばん偉いかで言い争っていたのです。

彼らはみな、出世欲はあるものの、

それをイエス様に知られたくなかったのでした。

偉くなりたいという願望を露骨に表すことは、

恥だと感じたのでしょう。

弟子たちは皆、故郷を離れて、

イエス様の弟子として従っていました。

イエス様を信じて従ったのは確かですが、

同時に、弟子としての成功も望んでいました。

他の弟子よりも自分の方が偉い地位に就きたい。

それはみんなの正直な思いでした。

どの組織であれ企業であれ、

ライバル同士が競い合い、

誰かが出世レースを勝ち抜いてゆきます。

イエス様に選ばれた十二人の弟子たちも、

弟子の中でだれがいちばん上に立つのか、

競い合い、判断し合い、評価し合っていました。

イエス様は形の上で弟子たちに尋ねましたが、

彼らが何を論じ合っていたかをご存じでした。

黙り込む弟子たちに対してどうしたか。

マルコ福音書はその様子をこう告げます。

 

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。

 

イエス様が「座って」語り出したのは、

これから語ることを心して聞けという、

イエス様の明確な意志表示に違いありません。

弟子たちに特別に重要なことが告げられるのです。

直訳してみました。

 

もし、誰であれいちばん先になりたいなら、

すべての人の後になり、

すべての人に仕える者になりなさい。

 

原文では、

「すべての人の後になって、

すべての人に仕えるものとなるであろう」と、

未来形で語られています。

しかし、この未来形は、

旧約聖書の律法で神が命令を与える形式です。

だから、この未来形は、

聖なる神の命令だということです。

「そうせよ」「そうせねばならない」

そういう意味です。

「いちばん先になりたいなら、

すべての人の後になれ

すべての人に仕える者となれ」。

イエス様が告げているのは、

この世の原理原則の話ではありません。

イエス様を信じて従う者は、

どのようでなければならないか。

そのことを教えるのです。

この世界の原理は上に立つ者が偉い人で、

偉い人は人々を従えて権力を振るいます。

しかし、イエス様に従う者は、

その逆でなければならない。

イエス様はそのようにはっきりと告げます。

さて、ここまで考えてから、

わたしはあることに気付きました。

イエス様の言葉には矛盾があるのではないかと。

先頭になりたいのであれば、

最後になりなさいと言うのであれば、

誰も先頭にはなれないことになります。

先頭になりたいなら最後になれ。

しかし最後になったら、

先頭ではあり得ません。

矛盾しています。

これはいったいどういうことなのでしょう。

理屈の通らないことを命じたのでしょうか。

この言葉の謎を考えるうちに、

ある事実に気付かされました。

そもそも、イエス様の弟子であるということは、

イエス様に従う者だということではないかと。

そうであれば、

弟子はイエス様に従う存在なのですから、

そもそも先になることはあり得ません。

前にイエス様がおられるのですから。

イエス様を差し置いて前に出れば、

弟子ではないことになります。

弟子であるかぎり、

つまり信仰者であるかぎり、

いちばん先になることはあり得ないでしょう。

讃美歌517番が、

この事実を見事に歌い上げています。

 

神の民よ 奮い立てよ

復活の主イェスは 先立ちゆく

 

わたしたちの先には、

つねに復活の主イエスがおられます。

わたしたちは主イエスの後に従う者です。

弟子であるかぎり、

キリスト者であるかぎり、

これは普遍の大原則です。

幾人かのグループで登山をするときには、

守るべきルールがあります。

リーダーが先頭を歩き、

二番目のリーダーが最後を歩くのです。

この順序が守られないで、

不慣れな人が先頭を行くと、

時として道に迷います。

山歩きに慣れた人や壮健な人が、

前の方に固まって歩くと、

体力のない人や具合の悪くなった人が、

遅れたりはぐれたりしても、

気付かれないままになります。

先頭をリーダーが歩き、

副リーダーが最後を歩く。

これは一番弱い人や、

具合の悪くなった人を失うことなく、

全員が無事に安全に、

目的地に到着するための、

ベストの方策なのです。

主イエスを信じる人々の群れ、

すなわち教会には、

あらゆる人がいます。

壮年がいます、若者がいます、

高齢者がいます、子どもがいます。

健康な人がいます、病人がいます。

男がいて、女がいて、

性的少数者がいます。

豊かな人がいて、貧しい人がいます。

気の強い人がいて、気の弱い人がいます。

強い人がいて、弱い人がいます。

能力の高い人、それほどでない人がいます。

だが、誰もが例外なく、

荒れ野であるこの世を旅しています。

その旅の途上、

誰も置いていかず、誰も切り捨てず、

誰も粗末にせず、誰も見捨てません。

そういう群れが教会であり、

キリストを信じる主の弟子の集団です。

群れの全体を導いて先頭を行くのは、

わたしたちの導き手である主イエス。

これは変わることがありません。

誰ひとり見捨てず置き去りにしないために、

最後を行き、皆に仕える者が必要です。

群れの牧者は、間違いなくそういう存在です。

しかし、牧者ひとりの役割ではありません。

群れの中で最後を行く人が多くいるほど、

その群れは堅固な砦として、

あるいは確かな守り手に見守られて、

すべての人が共に旅することができます。

能力や実力の高い人は、

支配者になるのではなく、

最後を歩むことによって、

全体に気を配り、

助ける役目を主イエスから託されます。

教会役員はそういう役目を担う方たちです。

「わたしなんか」と謙遜して、

主イエスが委ねる大切な務めを放棄せず、

面倒なことになったと思いながらか、

仕方ないなと思いながらかは別として、

喜んで引き受けていただきたいと思います。

(教会総会が近いので。

主イエスの御心は選挙で示されます。)

さらに付け加えるなら、

最後を行く役目は牧師と役員だけでなく、

群れの中でできる人たち皆の役割です。

この世の原理は自己責任です。

この世の原則は自助努力です。

どちらも、誰かが見捨てられ、切り捨てられ、

振り落とされることが前提です。

世間はそういう格差を当然とみなし、

世の中はそういうもので仕方が無いと言います。

主イエスの弟子集団である教会は、

それとは対極を訴え、反対を生きようとします。

わたしたちは主イエスを信じました。

それは、主イエスを受け入れたということです。

それはどういうことでしょうか。

わたしは信仰者だということ、すなわち、

主イエスを受け入れるってどういうことでしょうか。

それは、信仰者の群れに属する全ての者と共に、

一つの民として荒れ野の世界を旅することです。

この世を旅する群れの最も小さな者を受け入れ、

いっしょに旅を続けることです。

その時、もしできるならば、

群れの最後を歩んで小さな者を支え、

守って歩んでいただきたい。

また、小さな者はためらわず心配せず、

旅の仲間から受け入れられ、助けられて、

いっしょに喜んで旅を続けていただきたい。

こうして、弱い者が餌食にされるこの世を、

わたしたちは世を旅する神の民の群れとして、

天の国を目指して共に旅をしてゆくのです。

 

 



(以上)

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