<公現後第6主日>

2021年2月14日()   礼拝説教
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神はわたしたちが思うよりも慈しみ深い  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書

ヨシュア記2:1−24

◆エリコを探る

1 ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。
2 ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、
3 王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」
4 女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。
5 日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」
6 彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、
7 追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
8 二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、
9 言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。
10 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。
11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
12 わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。
13 父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」
14 二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」
15 ラハブは二人を窓から綱でつり降ろした。彼女の家は、城壁の壁面を利用したものであり、城壁の内側に住んでいたからである。
16 彼女は二人に言った。「追っ手に会わないように、山の方へ行きなさい。三日間はそこに身を隠し、追っ手が引き揚げてから帰りなさい。」
17 二人は彼女に言った。「あなたが我々に誓わせた誓いから、我々が解かれることもある。
18 我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。
19 もし、だれかが戸口から外へ出たなら、血を流すことになっても、その責任はその人にある。我々には責任がない。だが、あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、その血の責任は我々にある。
20 もし、あなたが我々のことをだれかに知らせるなら、我々は、あなたの誓わせた誓いから解かれる。」
21 ラハブは、「お言葉どおりにいたしましょう」と答えて、二人を送り出し、彼らが立ち去ると、真っ赤なひもを窓に結び付けた。
22 二人は山に入って行き、そこに三日間とどまって、追っ手が引き揚げるのを待った。追っ手はくまなく捜したが、見つけ出すことはできなかった。
23 その後、二人は帰途につき、山を下り、川を渡って、ヌンの子ヨシュアのもとに戻り、自分たちが経験したことを一部始終報告して、
24 こう言った。「主は、あの土地をことごとく、我々の手に渡されました。土地の住民は皆、我々のことでおじけづいています。」


2) 新約聖書

マルコによる福音書9:38−41


◆逆らわない者は味方
 

38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2021年2月14


神はわたしたちが思うよりも慈しみ深い


わたしには、ずっと心に引っかかってきた、

二つの言葉があります。

一つはもうずいぶん昔のことです。

高校生の時、近くに高齢の女性が住んでいました。

その方は以前、アメリカで生活した経験があり、

当然キリスト教と接する機会もあったのですが、

アメリカでの体験をとおして、

キリスト教に対する嫌悪を抱き、

穏やかな口調ではありましたが、

頑なにキリスト教を拒んでいました。

日本に原爆を落として大勢の人を殺し、

それをクリスチャンが正当化していることが、

どうしても耐えられなかったようです。

「彼らがキリストを信じているという理由で、

自分たちは天の国に行くと言うのなら、

自分は行きたいと思わない」。

それに対して、

なんと言ってよいのかわかりませんでした。

もう一つの言葉はこの教会に来てからです。

ある日系外国人のクリスチャンが、

このように言いました。

「わたしの祖父は仏教徒だったから、

天国ではなく地獄に行きました」。

キリストを信じるなら天国に行くが、

信じない人は地獄に行く。

素朴な信仰ではあるでしょうが、

確信を込めてそのように言い切ることに、

わたしはたいへん驚かされました。

この二つの言葉、

語った人も時代も異なりますが、

わたしにとって心にひっかかり、

時折思い起こさせられる言葉でした。

救われる人と救われない人。

いったい誰にわかるというのでしょうか。

あるいは誰が決めることができるでしょう。

わたしたちはプロテスタントの立場です。

プロテスタント教会の原点は、

マルティン・ルターが聖書を通して、

はっきりと確信し宣言するようになった、

「信仰義認」つまり、

「主イエスを信じる信仰によって救われる」

ということにあります。

人は誰も自分の力で救いを獲得できず、

自分の善いおこないによって

神に義と認められることはできません。

人は皆罪びとであり、

人の力で罪をあがなうことはできない。

わたしたちはそう信じています。

人は誰でも、

神の恵みにより、神の憐れみによってのみ、

神に受け入れられることができます。

信仰によってのみ救われるという、

聖書の教えをルターが取り戻し、

それを人々に告げ知らせたことによって、

救いに届くまで善いおこないを積み重ね、

正しさを自分に満たして救いに至るという、

誤った考えから脱却できたのでした。

人は誰も自分の善行を積み上げることで、

神の救いを獲得することはできません。

ただ神が憐れみのゆえに救いの手を差し伸べ、

神のもとへと至る道を開いてくださいました。

わたしたちにできることは、

神が備えて与えてくださる救いの道を、

ただ感謝して受けるだけです。

恵みとして無償で与えられる救いを、

ただ感謝して受け取る。

それが信仰ということです。

たしかに、聖書にはそう書かれています。

人が神に義と認められるのは、

自分のおこないが神にふさわしいからではなく、

神が無償で差し出してくれる救いの道、

すなわちキリストとキリストによる罪の赦しを、

ただ信じて受け入れることによってです。

しかし、その先を人々は考えます。

いろいろ議論を重ね、推測し、

考えを発展させてきました。

そこからいろいろな問題が生じてきました。

キリストを信じる者は、

ただ信仰のみによって救われる。

この確信が本来意味したのは、

わたしたちの救いは、

わたしたちの力や能力や努力に依存せず、

神の恵みと憐れみのみに基づくという、

救いの確かさを与えるはずのものでした。

ところが、人はその確信を論理的に発展させ、

神学的な推理から結論へと至りました。

キリストを信じる者は天国に行き、

キリストを信じない者は地獄に行く。

そのように結論付けたのです。

神は終わりの日に全ての人を裁き、

信じる者は右に、

信じない者は左に振り分ける。

たしかに、聖書は最後の審判を教えます。

キリストのたとえにも、

神は羊と山羊を分けるように、

裁きの時に人を右と左に分ける。

そのような教えがあります。

でも、分ける基準は何だったでしょうか。

キリストを信じたか信じなかったか、

ということではなかったはずです。

しかし、信じる者は救われるという確信が、

最後の裁きの基準を、

キリストを信じるかどうかに変えたのでした。

結局、神に対するイメージは、

イエス様が「アッバ(パパ)」と呼んだ、

慈しみ深い父というよりも、

終わりの日に人々を天国か地獄かに振り分ける、

厳格な裁判官へと変わってゆきました。

こうした神学的推論、

つまり「こうであれば、こうであるはずだ、

したがってこうでなければならない」

という論理的な推測から結論が導かれ、

それがキリスト教神学として、

信じられ、教えられるようになりました。

そうした人間による神学的推論の極致が、

たとえば二重予定説と呼ばれるものです。

神は天地創造の前に、

救われる人と滅びに至る者を、

予め定めたという教えです。

この、あまりに極端な神学的主張に対して、

神が愛であり憐れみ深い方であるという、

聖書の主張に基づいて反対した、

オランダの神学者とその仲間たちが、

当時の教会から異端宣告されました。

やがてその宣告は取り消され、

その神学者の教えを受け継ぐ人々は、

世界中に拡がってゆくことになります。

そうした立場を受け継ぎ、

もっとも大きな影響力を与えたのが、

わたしたちナザレン教会のルーツである、

ジョン・ウェスレーという、

英国国教会の指導者です。

キリストを信じる者は救われる。

それは聖書が高らかに告げ知らせ、

わたしたちが確信していることです。

しかし、

キリストを信じない者は滅びると、

白か黒かを分けるように、

羊と山羊を分けるように、

明確に区別することができるのでしょうか。

どうしてそのような断定的神学が、

そのような冷徹な教えが、

キリスト教の歴史の中で、

広く受け入れられ信じられたのでしょうか。

キリスト教の歴史の中でと言いましたが、

厳密にはヨーロッパのキリスト教の話です。

こうした極端な結論が導かれ、

人々に広く信じられたのには理由があります。

それは、その時代の西欧世界が、

完全なキリスト教世界だったからです。

家族はみんなクリスチャン。

親戚も友人もみんなクリスチャン。

周囲の住民はもちろん国民はすべてクリスチャン。

ユダヤ人とイスラム教徒と異端者を除いて、

全員がキリスト教徒の世界でした。

だから、キリストを信じない人は地獄に行くと、

心の痛みも悲しみも抱かずに断言できたのでした。

そういう教えが、日本にもそのまま持ち込まれ、

一部で教えられてきました。

しかし、キリスト教世界ではない世界で、

そんな結論が受け入れられるでしょうか。

信じる者は天国に行くが、

信じない者は地獄に行く、

などという極端な教えが、

はたして日本で正統なものと言えるでしょうか。

キリストを信じない親や、我が子、

夫や妻、親しい友が信じていないという理由で、

地獄に行くなどと結論付けることが、

正統な教えと言えるでしょうか。

わたしたちは西欧で創り出された、

しばしば論理的推論に基づいた神学ではなく、

聖書に立ち帰って、

聖書がほんとうはどう教えているかを、

改めて学び、探究する必要があります。

きょう、わたしたちは旧約聖書からは、

ヨシュア記2章を読みました。

エジプトを脱出してから四十年荒れ野を旅し、

モーセから民の指導者を引き継いだヨシュアが、

約束の地と信じるカナンに入るための、

最初の関門に差しかかりました。

エリコという、

城壁に囲まれた都市国家を越えなければ、

約束の地カナンに入ることができません。

ヨシュアが二人の偵察をエリコに送ります。

二人はこの町の遊女ラハブの家に潜みます。

しかし、そのことがエリコの王に知られ、

窮地に陥ることになります。

その時ラハブが二人をかくまい、

窓から吊り降ろして逃がしました。

ラハブは異民族で異教徒の遊女でした。

しかし彼女が神の民に示した好意のゆえに、

ラハブは憐れみを受けることとなります。

ヨシュア記はラハブの結末を、

こう物語るのです。

 

  遊女ラハブとその一族、

  彼女に連なる者はすべて、

  ヨシュアが生かしておいたので、

  イスラエルの中に住んで

  今日に至っている。

  エリコを探る斥候として

  ヨシュアが派遣した使者を、

  彼女がかくまったからである。(6:25)

 

ラハブがイスラエルの民の背後におられる、

主なる神を恐れたことはたしかです。

しかし、彼女が信仰者という意味で、

神を信じるようになったかどうかは、

聖書は関心を示してはいないように思います。

神の民に好意を示したかどうか。

そこだけに注目しているようです。

きょうの福音書は、

弟子たちとのやりとりの中で、

イエス様が語られた言葉です。

ここにはとても重要なことが示されている。

わたしにはそのように思われます。

イエス様に従って来ていない人が、

イエスの名によって悪霊を追放していました。

弟子たちはそれを見て怒ります。

弟子でもないくせに先生の名を勝手に使い、

悪霊を追い出そうとするなど言語道断。

そこでやめさせようとしたというのです。

弟子たちはそのことをイエス様に、

おそらく誇らしげに報告したのでしょう。

それに対するイエス様の言葉は、

弟子たちにとって意外なものでした。

「やめさせてはならない」。

え、どうしてですか。

従おうとしない者があなたの名を使い、

勝手に悪霊を追放しているというのに。

イエス様がその理由を告げます。

 

  わたしの名を使って奇跡を行い、

  そのすぐ後で、

  わたしの悪口は言えまい。

  わたしに逆らわない者は、

  わたしたちの味方なのである。

 

信じる者は味方で信じない者は敵。

イエス様はそのような判断をしません。

白か黒かに単純に分ける考えとは異なり、

味方を、仲間を、友を、

もっと広く考えていたとしか思えません。

イエス様の言葉は、

キリスト教世界での推論で築かれた、

あの神学的な教えを超えているようです。

わたしたちは聖書に基づく教えとして、

信仰によって救われると信じます。

それは確かなことです。

しかし、信仰とは何でしょうか。

信仰とは、わたしたちを神と結ぶものです。

信仰によって神と結ばれた者は、

神の御心と結ばれます。

そうであるなら、

信仰によって神と結ばれた者は、

神の御心を分かち持ち、

神が喜ばれることを喜び、

神が願うことを願いとすることでしょう。

神とつながらない信仰は無意味です。

聖書は、神が慈しみ深い方だと教えます。

聖書は、神が憐れみに満ちた方だと告げます。

だから、信仰者は慈しみを抱き、

憐れみを忘れることをしません。

キリストを信じるということは、

自動機械のスイッチのようなものとは違います。

信じている、はい右、

信じていない、はい左。

そんなことはあり得ません。

わたしたち人間は神を自分たちの考えで、

厳格な裁判官にしたり、

人を信仰の有無で天国と地獄に振り分けたり、

終わりの日に裁きを下す冷徹な審判者にします。

だが、神はわたしたちが思うよりも慈しみ深い方。

信仰によって神と結ばれた人は、

神の慈しみ深さを生きるようになるはずです。

そうならなければ、

神とのきずなを生きてはいないことになります。

そのことはわたしたちに、

もう一つの可能性を考えさせるはずです。

キリストを信じる信仰を持たないとしても、

慈しみ深く、憐れみ深く生きる人は、

その慈しみと憐れみ深さによって神と結ばれ、

それゆえに神の報いを受けることになると。

どんなささいな慈しみでも、

一杯の水を飲ませるというだけのことでも、

神は見逃すことがない。

このイエス様の言葉は、

信仰を持ってはいない家族や親しい人々がいる、

日本社会に生きるわたしたちクリスチャンに、

神が与えてくださる希望のように思われます。

いずれにしても、結局、

誰が救われ、誰が救われないかを決めるのは、

人間ではなく、神ご自身です。

わたしたちにとって最善の道は、

信仰の有無と救いの有無を混同するのではなく、

神に望みを置いて神の御手に委ねることです。

 

 



(以上)

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