<四旬節第1主日>

2021年2月21日()   礼拝説教
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なくてはならないものは、ただ一つ  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書

エレミヤ書7:30−34



30 まことに、ユダの人々はわたしの目の前で悪を行った、と主は言われる。わたしの名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。
31 彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。
32 それゆえ、見よ、もはやトフェトとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る、と主は言われる。そのとき、人々はもはや余地を残さぬまで、トフェトに人を葬る。
33 この民の死体は空の鳥、野の獣の餌食となる。それを追い払う者もない。
34 わたしはユダの町々とエルサレムの巷から、喜びの声と祝いの声、花婿の声と花嫁の声を絶つ。この地は廃虚となる。


2) 新約聖書

マルコによる福音書9:42−50


◆罪への誘惑
 

42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
46 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
49 人は皆、火で塩味を付けられる。
50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2021年2月21


なくてはならないものは、ただ一つ


きょうの福音書の言葉には驚かされます。

なんと過激で厳しいイエス様の言葉でしょう。

恐ろしい言葉だとさえ思われます。

 

  もし片方の手があなたをつまずかせるなら、

  切り捨ててしまいなさい。

  両手がそろったまま

  地獄の消えない火の中に落ちるよりは、

  片手になっても命にあずかる方がよい。

 

しかも、手だけではなく、

同じことを足についても、

また目についても言われるのです。

こんな過激な言葉を三回も繰り返すとは、

いったいイエス様はどうしたのでしょうか。

ここで思い浮かばれるイエス様の姿は、

慈愛に満ちた愛の言葉を語る姿とは、

ずいぶんと異なるように思われます。

もしここまでするのでなければ、

だれも神の国に入ることができないとしたら、

だれがわたしは大丈夫と言えるでしょうか。

むしろ、わたしには無理だと感じるでしょう。

あまりに高いハードル、

それに比べて自分の力が全く及ばない現実。

その極端な落差に失望し落胆させられます。

これでは神の国はまったくの高嶺の花。

ごく一部の人にしか到達できない、

ふつうの人の手を越えた領域。

そのようにしか思えません。

実際、神の国に入るために、

どれだけ大勢の人が厳しい修行をおこない、

苛酷なまでの苦行に打ち込み、

命がけの苦闘をしてきたことでしょう。

キリスト教の歴史をひもとくと、

そのような苦行を重ねた人の物語が、

あちらこちらに出てまいります。

実は、宗教改革の口火を切った、

マルティン・ルターはそのような一人でした。

ルターはなんとか救いを確かなものにしよう、

神の国の権利を獲得しようと、

日夜だれよりも修行に打ち込み、

あらゆる善いわざをおこない、

死ぬほどの苦行を重ね、

それでも神の国に入る確信が持てず、

苦しみ続けたのでした。

他の修道士仲間が半ばあきれたほどです。

後にルター自身がこう書き記しています。

少し長いですが引用してみましょう。

 

  わたしはよい修道士であり、

  非常に厳密に戒めを守ったので、

  もし修道院の訓練を通じて

  天国にはいることのできる

  修道士がいるとしたら、

  わたしこそは確実に

  天国にはいることができたであろう。

  わたしを知っている同僚修道士たちはみな、

  この点でわたしを支持するであろう。

  というのは、

  もしさらに長くわたしが

  そのようなことを続けていたとしたら、

  わたしは徹夜聖務と祈り、朗読、

  その他のわざによって、

  自分自身を殉教の死に至らしめたであろう。

  ・・それにもかかわらず、

  わたしの良心はわたしに確信を与えず、

  ・・わたしは日ごとに

  より深い不確かさを見出し、

  より弱くなり、

  より深く悩まされるのであった。

 

神に救われたと確信でき、

神の国に入ることができると納得するため、

死ぬほどの苦行を重ね、

それでも確信が持てなかったと、

ルターはいうのです。

なぜそんなことになったのか。

それは、当時の教会が、

善いおこないを積み重ねなければ、

神の国に入ることはできないと教えたからです。

多くの人はルターほど真剣ではなく、

いい加減でした。

誰もがすぐに神の国に行くなどと、

信じてはいなかったからです。

その時代の教会は、

ほとんどの人がすぐには神の国に入れず、

不足分を苦行で補うために、

煉獄という天国と地獄の中間の場所に行き、

そこで火で浄化されねばならない。

そう教えていたのでした。

だから、多くの人はこう考えました。

どうせすぐに天国に行けず、

まず煉獄に行くのだから、

この世でそこまで頑張らなくてもよい。

ルターは特別だったのでしょうか。

きっとそうなのでしょう。

しかし、ルターはもっとも正直でした。

だから必死で努力しました。

その努力が報われることはありませんでしたが。

きょうの福音書が伝えるイエス様の言葉は、

そのような厳しさを求めているかのようです。

しかし、もしそう受け止めるとしたら、

わたしたちはイエス様の真意を理解せず、

この箇所の意味を考え違いしています。

このイエス様の言葉は、

わたしたちに苦行を要求するのではなく、

禁欲を救いの条件として求めるのでもありません。

この言葉がわたしたちに呼びかけているのは、

何を選択するのかという問いかけです。

ほんとうになくてはならないものは、

いったい何だと思うのか。

そのことを考えさせる言葉です。

「あなたにとって一番大切なことは何?」

そう問われたなら、どう答えますか。

一番大切なもの・・、

財布があるかどうかを探す人、

スマートフォンがちゃんとあるか確認する人、

また自分の家族や友人を考えるでしょうか。

自分自身が一番大切だと思うでしょうか。

イエス様はあるとき言われました。

「自分の命を救いたいと思うものはそれを失う」。

考えるほどにわからなくなります。

イエス様がここで問いかけている相手は、

イエス様を信じて神の民とされている人たちです。

その事実から考え始めるとよいかもしれません。

わたしたちキリスト者は、

イエス様とのきずなによって、

神の民としてこの世の定住者から呼び出され、

神の国を目指して世を旅する旅人、

この世での寄留者とされました。

わたしたちが全生涯をかけて目指す、

究極の目的地は神の国。

そうであれば、答えは明らかです。

わたしたちにとって、

なくてはならない究極の何かとは、

ただ一つ、神の国です。

他の何を手に入れたとしても、

他のどんなものを得たとしても、

神の国を失えば、

すべては無意味です。

なくてはならないものは、ただ一つ。

神の国。

さて、ここでわたしたちは、

改めて考えてみましょう。

神の国を受け継ぐには、

いったいどうしたらよいのでしょうか。

苛酷な苦行と禁欲生活をとおして、

そのことによってのみ得られるのでしょうか。

かつてマルティン・ルターはそう考えていました。

その結果、失意と落胆ばかりを手に入れました。

そして、想像を絶する苦行を重ねたはてに、

ルターは重大なことを悟ったのでした。

人は善いおこないや厳しい修行などをとおして、

自分の力で神の国を得ることはできないことを。

神の国は、すでに与えられている。

それがルターの見出した真理でした。

神の国はイエス・キリストを信じる信仰によって、

すでに無償で、ただで与えられていて、

神の国は今わたしたちのものです。

ルターがその事実を聖書の中に見出した時、

それはルターが福音を再発見した時でした。

それ以来、

わたしたちは信じています。

人はおこないによってではなく、

信仰によって神に受け入れられ、

神の国と永遠の命の約束が与えられていると。

だから、わたしたちは旅人であり、

神の国を目指して世を旅していますが、

すでに神の国に受け入れられている者として、

旅をしています。

だが、もしそうであるとしたら、

なぜイエス様は神の国のハードルを上げるような、

こんな厳しい言葉を語ったのでしょうか。

神の国に入ることがいかに困難かを教えることが、

イエス様の目的ではないようです。

わたしたちが何を選び取り、

何をもっとも高い価値とするか。

そのことを問うているのではないでしょうか。

神の国の国籍は、ただ神の恵みにより無償で、

わたしたちにすでに与えられています。

わたしたちは今すでに神の子とされ、

永遠の命の約束がわたしたちのものです。

しかし、わたしたちは比べてしまいます。

神の約束、神が無償で与えてくださった恵み、

神の国と永遠の命の約束を、

他の何かと比べて、

他の何かの方を大切に思い込み、

神の国の方を捨ててしまう。

そのようなことをわたしたちはします。

神の国を受け継ぐこととは共存できないもの、

神の国の約束を持つと同時に、

いっしょに持つことのできないものが、

この世にはあります。

その時はどちらかを選ぶしかありません。

神の国を受け継ぐ道と同時には歩めない、

神の国とは相容れない別の道があります。

その時はどちらかの道を選ぶことになります。

富や楽しみか神の国かという選択ではありません。

名誉や成功か神の国かという選択でもありません。

神の国を選ぶためには、

富や楽しみがあってはならない。

そういうことではありません。

それらを手に入れ、

自分の物とし続けるために、

神の国と相容れない手段を選ぶかどうか。

そのことが問われているのです。

神の国の世継ぎとされているわたしたちが、

神の国を受け継いで歩みながら、

神の御心に反する生き方、

憐れみと愛をないがしろにする道を、

同時に歩むことはできません。

神の国を望むことと、

神の正義に反する振る舞いをすることは、

両立できません。

神の国に入ることは、

キリストを通して無償で与えられる恵みです。

その恵みの内を生きることを願うなら、

その恵みを生きることとは相容れないものを、

わたしたちは切り捨てなければなりません。

それで儲けが少し減るなら、

儲けが減ることを受け入れ、

神の国と合わない楽しみなら、

その楽しみを捨て去り、

名誉や成功が神の国と衝突するなら、

神の国を選び取り、

その名誉や成功を放棄することが、

わたしたちの生き方です。

小さな者を憐れまないままで、

神の国への旅を続けることはできません。

イエス様は、

片手があなたをつまずかせるなら、

その片手を切り捨ててしまえ、

片方の足があなたをつまずかせるなら、

その足を切り捨ててしまえ。

片方の目があなたをつまずかせるなら、

その目をえぐり出してしまえ。

そう言われました。

この言葉はもちろん誇張表現ですが、

それでもはっきりと、

わたしたちに一つのことを告げています。

なくてはならないものは、ただ一つだと。

神の国と、神の国につながる道を、

常に選び続けよと。

 

 



(以上)

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