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朗読箇所

待降節第3主日

旧約 創世記 2:1−4

◆ナタンの叱責
1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに
何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い
小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて
彼の皿から食べ、彼の椀から飲み
彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに
自分の羊や牛を惜しみ
貧しい男の小羊を取り上げて
自分の客に振る舞った。」
5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、
8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。
9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』


新約 マタイによる福音書 1:1−17

◆イエス・キリストの系図
1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、
8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、
9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、
10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。

説教

キリストにあって、新しく始まる

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    たくさんの名前が記された
    この長い系図から、
    みなさんはどのような印象を受けるでしょうか。
    わたしは自分の祖父母までしか知りませんので、
    自分にかかわる系図を作れと言われても、
    自分のこどもたちも含めて、
    4世代分の長さの系図しか
    つくることができません。
    もちろん、両親に聞いてみれば、
    あと1,2世代伸ばせるかもしれませんし、
    市役所へ行けば、
    もう少し長いものを作ることが出来るかもしれません。
    自分のルーツを知るという意味では
    興味はありますが、
    優先順位は決して高いものではないので、
    しばらくの間、わたしが作れる系図は
    4世代程度の長さになるでしょう。

    そう考えると、
    現代に生きるわたしたちにとって、
    マタイが福音書のはじめに提示した系図は
    とてつもない長さのものだとわかります。
    アブラハムからイエス・キリストに至るまで、
    14世代を3回も繰り返しているわけですから。
    ですから、マタイの示す系図には、
    イエス・キリストの家系の持つ
    歴史の深みを感じさせられます。
    イスラエルの信仰の父と呼ばれるアブラハムからはじまり、
    イスラエルの王であったダビデを含めて、
    たくさんの王たちの名前が並んでいるので、
    イエス・キリストはとても由緒ある家柄の出身
    であることも想像できます。
    何世代にもわたって、
    彼らは自分たちの信仰を受け継ぎながら、
    たくさんの困難を乗り越えて、
    救い主イエス・キリストの誕生にまでたどり着きました。
    そんなユダヤの人びとの
    誇りと栄光に満ちた系図を示すことを通して、
    ユダヤ人たちがイエスさまをキリストとして、
    自分たちが待ち望んでいたメシアとして迎えることの
    正統性とその喜びを
    マタイが示しているようにも思えます。

    ただ、どうやらマタイはユダヤ人の誇りや栄光とか、
    血統や家柄といったものを強調し、
    それをイエス・キリストに押し付けるために、
    この系図を記したわけではないようです。
    というのも、この系図に付けられている
    いくつかの注釈は、
    この系図の価値を高めるどころか、
    この系図の価値を下げるように
    働く可能性があるからです。

    たとえば、マタイは外国人女性たちの名前を
    系図のところどころに置いています。
    ですから、イエス・キリストの系図は、
    ユダヤ人のみの系図ではありません。
    外国人を嫌う傾向にあったユダヤの人びとにとって、
    これは都合の悪いことでした。
    マタイは、民族のはじまりにおいて、
    彼らの先祖たちが自分たち以外の民族を受け入れ、
    共存していた事実を伝え、
    「純血のユダヤ人」という幻想を
    取り払おうとしているのかもしれません。

    また、マタイは、この系図を
    14世代ごとに区切ることを通して、
    ダビデ王の登場と、バビロンへの強制移住を
    時代の転換点として位置づけています。
    ダビデが王であると強調されているため、
    ダビデの登場は、
    栄光に溢れる王国時代の始まりを感じさせます。
    けれど、マタイはダビデについて、
    ウリヤの妻によって
    彼の子が産まれたと記しました。
    このように記すことによって、マタイは、
    ダビデが犯した過ちを
    思い起こすようにと、読者に伝えています。
    ただひとりだけ王として紹介されている
    ダビデの過ちに目を向けた後、
    王国時代の王たちの名前が続きます。
    ここに記されている王たちが
    まったく過ちを犯さなかったわけではありません。
    むしろ、彼らは神の前に罪を犯し、
    徐々に徐々に、王の心も、人びとの心も、
    神から離れていきました。
    ですから、ダビデの登場は、
    喜ばしい王国時代のはじまりというよりは、
    人びとが神から離れていく歴史のはじまりでした。
    そして、王たちの過ちの連鎖は、その結果として、
    もうひとつの歴史の転換点を招きます。
    マタイが強調するもうひとつの歴史の転換点は、
    バビロンへの強制移住です。
    バビロン捕囚と呼ばれるこの出来事は、
    彼らの大切なものをいくつも奪いました。
    いのちや家族とのつながりだけではありません。
    神殿は破壊され、王は奪われました。
    神から与えられたと信じてやまない
    土地も奪われました。

    このように考えると、この系図は決して
    栄光に溢れる、誇り高いものとは思えません。
    むしろ、かつては王の家系であったけれども、
    今は没落した、ただの庶民の系図です。
    系図を読み進めるほどに、この家系はその力を失い、
    期待を削がれていくような感覚を覚えます。
    注釈をつけずに、アブラハムからキリストまで
    寄り道せずに名前を記していけば、
    そのような印象を与えることはなかったでしょう。
    それなのに、マタイはなぜこのような形で
    イエス・キリストを紹介することを
    選んだのでしょうか?

    その鍵は、イエス・キリストが
    ヨセフの子として記されていないことにあります。
    本当は、何度も何度も繰り返されてきたように、
    「ヨセフはキリストと呼ばれるイエスをもうけた」と、
    これまでの書き方に倣って
    キリストの誕生について記せば良かったのですが、
    マタイにはそれが出来ませんでした。
    ヨセフはイエス・キリストと
    血の繋がった父親ではなかったからです。
    マリアは聖霊によって身ごもりました。
    つまり、神がマリアに働きかけることによって、
    マリアのお腹の中に、
    神の子であるイエス・キリストが宿りました。
    そうであるならば、マリアの系図の方を
    紹介してほしいものです。
    でも、この系図でヨセフは、
    養子のような形でイエスさまを
    自分の子どもとして引き受けています。
    そのため、これまで長い時間をかけて
    系図によって示してきた、
    アブラハムからはじまり
    ヨセフに至るまでの流れを
    イエスさまが完全に引き継いでいるようには見えません。
    むしろ、最後の最後ではしごを外し、
    その流れを断ち切っているかのようです。

    はい、まさにそうです。
    救い主がわたしたちのもとに訪れる、
    神の子がわたしたちのもとに来るということは、
    人間の努力の積み重ねの結果ではありません。
    良い血統や家柄が続いたから、
    救い主が訪れたのではありません。
    神に従う正しい人ばかりが何世代も続いたから、
    神の子が登場したのではありません。
    そうではなく、神によって、
    救い主はわたしたちのもとに訪れたことを
    マタイは強調しています。
    人間の努力や血統や
    信仰深さや積み重ねた祈りの量や
    捧げた献金や寄付したお金の額や
    聖書を読むのに費やした時間の長さによってではなく、
    神の意思と神の決断によって、
    神の恵みと憐れみによって、
    救い主イエス・キリストは
    わたしたちのもとに訪れます。
    そしてそれは、何度も何度も繰り返される、
    人間の過ちや罪深さを断ち切るためにです。

    だからこそ、マタイは、イエス・キリストのうちに、
    大きな希望を見出しています。
    そのため、マタイは系図を書き始めるときに、
    少し変わった表現でこの系図について書きはじめました。
    日本語訳の聖書では、「系図」となっていますが、
    新約聖書が記された言語であるギリシア語では、
    「はじまりの書物」といった意味のフレーズを
    マタイは使っています。
    つまり、マタイはこの系図は、
    「イエス・キリストのはじまりの書」ですよ、
    と記すことによって、
    イエスさまによって新しい始まりが
    訪れることを伝えています。
    この「はじまりの書」というフレーズは、
    さきほど読んだ、創世記2章の
    ギリシア語訳にも出てきます。
    「これが天と地の
    はじまりの書である」と(創世記2:4)。
    神の子イエス・キリストが
    わたしたちのもとに来たという出来事は、
    この世界が造られた
    その始まりに匹敵するほどに重要な、
    新しい始まりを告げる出来事だと、
    マタイは受け止めたのでしょう。
    それは、イエス・キリストが
    罪や過ちで溢れる時代に
    終わりを告げるからです。
    そのため、イエス・キリストの訪れは、
    明らかに大きな時代の転換点です。
    神への背きが繰り返された王国のはじまりや、
    すべてを失うことになった、あの日の、
    バビロンへの強制移住以上に、
    キリストの訪れは大きな転換点でした。
    そして、それは、喜びと平安に溢れる
    新しい始まりのときとなりました。

    でも、わたしたちは思います。
    そうは言っても、人間の罪や過ちは、
    そこら中にはびこっているじゃないか。
    人間の悪は、むしろ膨れ上がっているように
    見えるじゃないか。
    だから、口々につぶやきたくなります。
    ほら、戦争はいつまでも終わらない。
    ほら、気候変動は更に加速し、
    地球環境はみるみるうちに悪くなっている。
    ほら、また誰かが不当な扱いを受けている。
    ほら、食べ物や飲む水がなく、飢えている人がいる。
    ほら、仕事がなく、悲しんでいる人がいる。
    ほら、わたしの中に、
    誰かを妬んだり、憎んだりする気持ちが
    何度も何度も沸き起こってくる。

    そのとおりです。
    救い主であるイエス・キリストは
    この世界に訪れたけれども、
    未だに人間の悪や罪深さは
    解決されないままのように見えます。
    でも、そのような場所に、
    イエス・キリストが愛と憐れみをもたらすために、
    平和と正義をもたらすために、来てくださいました。
    わたしたちが自分たちの罪や過ちや悪で
    悶え苦しんでいる場所に。
    お互いを傷つけてしまっている場所に。
    神の憐れみと慰めをもたらすために、
    神の子であるイエス・キリストが
    この世界に来てくださいました。
    だから、わたしたちは待ち望みます。
    キリストがわたしたちの心の深くにまで
    来てくださるように。
    キリストが神の救いの手を必要としている人びとに
    訪れてくださるように。
    キリストが、きょう悲しんでいる人のもとに
    訪れてくださるように。

    わたしたち一人ひとりの間に訪れることを通して、
    イエスさまは罪の支配を終わらせ、
    神の愛と平和でわたしたちを
    包み込んでくださる方です。
    そのようにして、わたしたちのところに
    イエスさまが来ることから、
    神は新しく始めてくださいました。
    とても小さく、無力かもしれないけれど、
    キリストが訪れてくださったわたしたちを通して、
    神はこの世界に手を伸ばしてくださっています。
    どうか、キリストを通して神の愛と平和で
    わたしたちを包み込んでくださる神が、
    わたしたちひとりひとりを通して、
    この世界を少しでも神の愛と平和で
    包み込んでくださいますように。
    そのために、きょうも、主キリストが
    みなさんと共にいてくださいますように。


週報より

  • 2023.12.17 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に月報『モレノ』の製本作業をおこないます。
    ご協力いただける方は、よろしくお願いいたします。

    ② 2024年の教会カレンダーをお持ち帰りください。
    今年は2種類のカレンダーを選びました。
    お好きな方をお持ち帰りください。
    教会から皆さまへのクリスマス・プレゼントです。

    ③ お祈りと応援のお願い
    稲葉奈々さんが来年度、ナザレン神学校への入学を希望しています。
    ナザレン教会に集う青年たちのための働きを行うために、
    伝道者としての道を決心されました。
    入試は3月4日です。応援とお祈りをよろしくお願いいたします。

    ④ 今週の土曜日はキャンドルサービスです。
    午後7時より、やくしんミートセンターの第2駐車場が利用可能です。
    今回のキャンドルサービスのために、貸し出しを許可してくださいました。
    ご近所にお住まいの方々は、お買い物の際にぜひご利用ください。
    小山駅・教会間の送迎は、午後7時に小山駅東口を出発する予定です。

    ⑤ 来週の日曜日はクリスマス礼拝です。
    主イエスの誕生を一緒にお祝いします。
    礼拝の後に祝会を予定しています。
    持ち寄りの昼食会をする予定です。
    持ち寄りの食べ物は無理なさらなくて大丈夫です。
    可能な方は、食べ物飲み物をお持ち寄りください。

    ⑥ クリスマス献金にご協力ください。
    牧師へのクリスマス手当、キリスト教関連団体への寄付などに用います。
    受付テーブルの献金袋をご利用ください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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