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朗読箇所

待降節第4主日

旧約 イザヤ書 7:13−14


13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に
もどかしい思いをさせるだけでは足りず
わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
14 それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。


新約 マタイによる福音書 1:18−25

◆イエス・キリストの誕生
18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

説教

神は、わたしたちと共にいることを選んだ

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    わたしと妻との間には、ふたりのこどもがいます。
    こどもたちの出産予定日が近づいたとき、
    わたしたちの頭を悩ませたのは、
    どんな名前を付けるのか、ということでした。
    親のエゴかもしれませんが、
    生涯呼ばれ続ける名前だから、
    やはり、できる限り素敵な名前をつけたいものです。
    色々な名前の候補を挙げ、
    あれでもない、これでもないとふたりで悩みながら、
    こどもたちの名前を考えていたのを今でも覚えています。
    楽しい時間ではありましたが、
    やはり一つの名前に決めることは、とても大変でした。

    毎年、クリスマスが近づいてきて、
    イエス・キリスト誕生の物語を読むとき、
    イエスさまの両親のヨセフとマリアは、
    さまざまな苦しみや悩みを
    背負っていたことを想像させられます。
    婚約期間中に、マリアが身ごもったことにより、
    彼らは婚約を取りやめる危機に立たされました。
    神がヨセフの夢に現れて、
    マリアが身ごもった理由を伝えたことにより、
    婚約破棄は免れました。
    けれど、住民登録をせよとの御触れが出たため、
    身重の状態でマリアは、ヨセフと一緒に、
    旅をしなければなりませんでした。
    ベツレヘムでは泊まる場所が
    なかなか見つかりませんでした。
    出産は、旅先のベツレヘムで
    しなければなりませんでした。
    無事に生まれたかと思ったら、
    東の方から来た学者たちが
    ユダヤ人の王が生まれたと騒ぎました。
    彼らからその噂を聞いたヘロデ王によって、
    生まれた子の命が狙われることになってしまい、
    彼らはエジプトへ亡命する必要もありました。
    実に、主イエスの誕生の物語は、
    波乱万丈で、悩みや苦しみの多いものでした。

    そんな彼らが、頭を悩ませずに済んだことは、
    生まれてきた赤ん坊に名前を付けることでした。
    イエスという名前を付けるようにと、
    父親のヨセフは夢の中で神から命じられたからです。
    イエスという名前は、
    「彼は救う」という意味です。
    この名前自体に、特に目新しさはありません。
    というのも、旧約聖書の時代から、
    イエスと同じ意味をもつヘブライ語の名前である、
    ヨシュアという名前は、子どもたちに
    わりとよく付けられる名前だったからです。
    何からの救いかというと、
    それはやはり、具体的に彼らを取り囲んでいた、
    敵の攻撃や命の危機からの救いであり、
    安全の保証でした。

    この時代に生きたユダヤの人びとは、
    もっと軍事的な解放を期待して、
    救い主メシアの登場を待ち望んでいました。
    そのため、救い主が生まれると
    その誕生を予告された、イエスさまにも
    同じような期待の目が
    向けられたかもしれません。
    けれど、生まれてきた赤ちゃんに、
    イエスという名前を付けるように伝えた神は、
    「この子は自分の民を罪から救う」
    という説明を加えることによって、
    そういった軍事的な意味を込めてはいないと、
    ハッキリと伝えています。

    戦いの旗印となるために
    イエスさまは産まれたわけではありませんでした。
    安全や安心、繁栄や成功を保証するために、
    イエスさまは産まれたわけでもありませんでした。
    もっと、わたしたち人間の根っこの部分にある悪や罪深さ、
    それによって引き起こされるさまざまな過ちから、
    わたしたちを救い出すために
    イエス・キリストは生まれた、というのが、
    マタイがこの福音書を通して伝えることです。
    たしかに、わたしたちは日々、
    人間の罪深さや
    この社会が抱える悪に苦しんでいます。
    人のいのちや尊厳を守るよりも、
    利益を求め、世間体ばかり気にして、
    他人を思いやれず、
    自分のことばかり大切にしてしまう。
    争いを好んでいるわけではないのに、
    衝突したり、陰口を叩いてしまう。
    自分の立場を正当化できるならば、
    タガが外れたように報復してしまう。
    自分が敵視する人びとの、
    人としての尊厳を認めず、
    彼らは人間の顔をした動物と言ってしまう。
    戦争も、虐殺も、搾取も、差別も、格差もなくならず、
    広がり続けている。
    そういった世界の現実の根っこにある、
    わたしたち人間が抱えている罪から、
    わたしたちを救い出すために来たのが、
    イエス・キリストでした。

    でも、どうやって?
    どうやって、イエスさまは
    救いをもたらすというのでしょうか?
    圧倒的な力を見せつけて、
    「わたしに従え、言う通りに生きなさい」といったように、
    上からの力や恐怖で押さえつけて、
    罪や悪が広がることを極力抑えるのでしょうか?
    それでは、自由や多種多様な生き方を
    否定されてしまいます。
    神もそれを望んでいません。

    神は、どのような形でイエスさまを通して、
    わたしたちに救いをもたらそうとしたのでしょうか。
    それについて、マタイは、
    イエスさまのニックネームのようなものを
    紹介することを通して、説明しています。
    この子は、インマヌエルと呼ばれる。
    「神はわたしたちと共にいる」
    という意味の名前で呼ばれる。
    これが、この福音書を記した
    マタイが強く信じていたことです。

    この言葉には、本当に驚かされます。
    だって、本当は、人間をゲームのコマのように動かして、
    問題を解決した方が
    神にとっては遥かに楽なのですから。
    遠くの方から、世界の仕組みを変えて、
    強制的に人間の生き方を変えてしまうことだって、
    この世界を造った神ならばできてしまいそうです。
    でも、神はそのような方法を選びませんでした。
    イエスさまは、インマヌエル、
    「神はわたしたちと共にいる」と呼ばれたからです。
    神は、争いで溢れ、
    人びとの憎しみが終わらない、
    平和とはかけ離れた現実が広がる世界の中で、
    キリストにあって、わたしたちと共にいることを選びました。
    イエス・キリストを通して
    神が共にいてくださることを知った人たちの間で、
    憎しみや争いが終わりを告げ、
    愛や憐れみが溢れ、
    平和が広がっていくことを神は願っています。
    そのような願いを抱いて、
    神は、主イエスを通して、
    この世界でわたしたちと共にいることを選びました。

    それは、この世界でわたしたちと共に生きる
    イエスさま自身も、
    わたしたちの罪によって
    傷つけられることを意味します。
    インマヌエルという呼び名を
    赤ちゃんのイエスさまに対してのみ、
    マタイが使っていることはとても印象的です。
    きっと、自分の力では何も出来ない
    赤ちゃんのイエスさまを
    インマヌエルと呼んでいることに
    意味があるのでしょう。
    赤ちゃんは、自分では何もできません。
    自分一人の力では生きていくこともできません。
    そんな姿のイエスさまが、インマヌエルと呼ばれ、
    わたしたちと共にいてくださいます。
    無抵抗で、この世界の悪や罪に傷つけられて、
    泣き叫びながら、
    イエスさまはわたしたちと一緒にいてくださいます。
    無抵抗で、力のない赤ん坊の主イエスにあって、
    神はわたしたちと共にいてくださいます。
    それは、まるで、無抵抗で、力のない、
    この世界の罪や悪に晒されているわたしたちと
    神が一緒にいてくださることを
    象徴的に示しているかのようです。

    もちろん、誰もがいつまでも赤ちゃんではありません。
    いつまでも子どもではありません。
    誰もが、徐々に、力を付けていきます。
    徐々に、知恵や能力を身につけていきます。
    徐々に、この世界で生きる術を身に着けていきます。
    けれど、そういったものが役に立たないほどに、
    自分の無力さを突きつけられることが
    何度も、何度もあります。
    大きな力の前に抵抗することができず、
    ただ目の前の現実を嘆きながら、
    耐えていくしかないことだってあります。
    わたしたちが暮らす世界には
    そういった現実が今も広がり続けています。

    でも、たしかに主イエスは来てくださいました。
    わたしたちが嘆くこの世界の現実を
    共に嘆き、泣き叫び、神に祈りを届けるために。
    わたしたちが傷つけられ、
    いのちをすり減らされるこの世界の現実の中で、
    いつまでも、わたしたちと共に生き、
    わたしたちの歩みを励ますために。
    憎しみや敵意が終わらず、
    関係のない人たちまで
    悲しみの渦へと巻き込んでいく
    この世界の現実の中で、
    わたしたちと共に生き、
    共に生きるわたしたちを
    罪から救い出すために。
    争いが終わらず、暴力が止まらない
    世界の中で生きるわたしたちと共にいるために。
    力によってではなく、
    人の弱さを知ることによって、
    平和をもたらすために。

    ですから、イエスさまは、決してお客さんとして、
    わたしたちのもとに来たのではありません。
    一時的に、平和をもたらし、
    一時的に、平穏な日常をわたしたちに
    与えるために来たのではありません。
    瞬間的に、わたしたちを
    喜ばせるために来たのでもありません。
    わたしたちに都合の良いときだけ、
    わたしたちと一緒にいてくれる方でもありません。
    わたしたちの行動のすべてを保証するためでもありません。
    地上でおこなれている戦いを
    すべて肯定するためでもありません。
    傷つけられて、誰かに報復するときに、
    そのすべての行動に神の保証をもたらすためでもありません。
    そういった、わたしたちが抱えている暴力性から、
    わたしたちを解放し、
    救い出すためにイエスさまは来ました。
    憎しみと無関心の広がる場所に、愛と憐れみをもたらし、
    暴力と争いと残虐性が溢れ得る場所に、
    平和と和解をもたらすために。
    わたしたちを罪に溢れる現実から救い出すために、
    イエスさまは来てくださいました。
    だから、わたしたちは主イエスの誕生に希望を抱き、
    きょうも主イエスがすべての人と
    共にいてくださることを喜びます。


週報より

  • 2023.12.24 週報より抜粋・要約

  • ① クリスマスおめでとうございます!
    主イエスが今もわたしたちと共にいてくださることを感謝し、
    主がふたたび来られることをわたしたちは待ち望みます。
    きょうは礼拝後に、クリスマス祝会をします。
    有志の方たちによる持ち寄りの食事会と出し物を予定しています。
    皆さまどうぞごいっしょにお過ごしください。

    ② 月報『モレノ』のクリスマス・新年号が完成しました。
    ご協力くださったみなさま、ありがとうございました。

    ③ クリスマス献金にご協力ください。
    牧師への冬の手当、キリスト教関連団体への寄付などに用います。
    受付テーブルの献金袋をご利用ください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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