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朗読箇所

公現後第1主日

旧約 イザヤ書 6:1-8

◆イザヤの召命
1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は
王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」


新約 ヨハネによる福音書 1:1-13

◆言が肉となった
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

説教

誰が光を指し示す?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    ヨハネ福音書は、光という言葉を
    とても象徴的に用いる福音書です。
    それは、すべての人に救いを与える希望として、
    イエス・キリストを指し示す言葉です。
    わたしたちは、暗闇の中でこそ、
    光の持つその輝きに気づき、希望を抱きます。
    福音書記者ヨハネが、キリストを光と伝えているのは、
    彼が、闇の深まりを実感していたからなのでしょう。
    ヨハネや彼の仲間たちにとって、
    世界が暗闇で包まれているように思えたのは、
    彼らが同胞のユダヤ人たちによって、
    会堂から追い出されたことと関係がありました。
    仲間だと思っていた人たちから排除され、
    嫌がらせを受けることは、
    彼らにとっては、まさに、暗闇が深まる出来事でした。

    暗闇が世界に広がり、深まっていくことは、
    形は違いますが、
    わたしたちも同じように経験しています。
    日常の中で、些細なことで
    誰かと争い合ってしまう経験や、
    嫌がらせを受けたり、
    いろいろな理由で生きにくさを感じることは、
    暗闇の中を歩むようなことといえます。
    大切な人の死を経験することや、
    病気や挫折を経験することは、
    時として、わたしたちの目の前を真っ暗にします。
    何よりも、この世界が暗闇で覆われていると
    わたしたちが実感させられるのは、
    暴力と不正義によって
    人びとの泣き叫ぶ声がやまないことです。
    戦争が終わらず、いのちが軽く扱われ、
    人の尊厳が踏みにじられています。
    難民となった人たちが居場所を失っています。
    憎しみは憎しみを呼び、負の連鎖が止まりません。
    差別、性暴力、ハラスメントを受けたという
    被害報告が鳴り止みません。
    いや、声を上げることさえできず、
    暗闇の中にいる当事者の数の方が
    それ以上に多いことは簡単に想像できます。
    暗闇が広がり、闇が深まっています。
    また、何よりも、わたしたちは今年、一年の始まりに、
    石川県の能登半島を襲った地震によって、
    決して明るいばかりの世界ではないことを
    思い知らされました。
    大切な人たちを失い、
    慣れ親しんだ生活環境を失い、
    避難生活を余儀なくされた人たちがいます。
    連日のように報じられる被害状況に
    言葉を失う思いです。
    このようにして、実に、さまざまな形で
    この世界に暗闇が広がっています。

    世界の暗闇が深まり、暗闇が広がるとき、
    わたしたちは一体どんな反応をしているでしょうか?
    怒りでしょうか?
    悲しみでしょうか?
    嘆きでしょうか?
    神への祈りでしょうか?
    諦めでしょうか?
    無関心でしょうか?
    闇が深まれば深まるほど、
    わたしたちは言葉を失っていく。
    そんな感覚を覚えます。
    いや、事実、語るべき言葉が
    見つからない、わからないことがあります。
    暗闇の深まる世界で、どんな言葉を紡いでも、
    空虚に思えてしまいます。
    暴力で溢れ、悲しみに沈み、
    嘆きにあふれる世界に対して、
    わたしたちは届く言葉も持たなければ、
    影響力さえもないからです。
    その意味で、暗闇に覆われた世界は、
    語るべき言葉を失った世界
    とも言えるかもしれません。

    そう考えると、ヨハネが
    この世界の光としてイエス・キリストを
    紹介する方法は、とても印象深く感じます。
    暗闇に覆われ、語るべき言葉を失った世界に、
    命を与える神の言葉が訪れる。
    そして、言葉を失ったわたしたちのもとに
    光を与える神の言葉が来た、と言うのですから。

    ところで、この世界を光で照らし、
    この世界を命で溢れさせる神の言葉が来たならば、
    本当はもっと世界は明るいはずです。
    もっと暗闇が少ない世界のはずです。
    それなのに、平和とは呼べません。
    安全も安心もありません。
    将来に対して、楽観的になれません。
    なぜ相変わらず、
    暗闇はこの世界で広がり、
    更に深まり続けているのでしょうか?

    ヨハネにとって、その理由は明確でした。
    それは、この世界が
    いのちを与える神の言葉である、
    イエスさまを受け入れなかったからです。
    だって、それもそのはずです。
    イエスさまは、決して、人びとが
    望むような形では来ませんでした。
    すべてのことを一瞬で解決してくれる
    都合の良い光としては来ませんでした。
    この世界の悪をすべて一掃するような、
    力強い光としては来ませんでした。
    むしろ、イエスさまは、
    目立たない、か細い、弱い光として、
    わたしたちのもとにやって来ました。
    それはきっと、一箇所で強く輝いたとしても、
    その光が当たらない場所には、
    暗闇が残り続けるからでしょう。
    強すぎる光の中で、
    本当に光を届けるべき世界の暗い場所が
    見えにくくなってしまうからでしょう。
    だから、神は、小さく、目立たないけれども、
    たしかに闇の中で輝き続ける光として、
    イエスさまをわたしたちのもとに送りました。
    それは、イエスさまを確かな光として受け止め、
    ここに光があると知った人を通して、
    光が広がっていくためです。

    そうです、主キリストを通して与えられる光が
    わたしたちにとっての光として認識され、
    光が光として受け止められるためには、
    この世界の中で、キリストを指し示す人が必要です。
    それは一体誰なのでしょうか?
    ヨハネ福音書にとって、
    それは洗礼者ヨハネと呼ばれる人物でした。
    ヨハネ自身は光ではありません。
    けれども、彼は光であるイエスさまを
    指し示す役割を持っていました。
    イエス・キリストを光として受け止められない世界に、
    暗闇に覆われて、言葉を失ってしまった世界に、
    光を照らし、命の言葉を届ける役目を
    ヨハネは持っていました。

    でも、洗礼者ヨハネはここにはいません。
    じゃぁ、一体誰がここに「光があるよ」と、
    指し示すのでしょうか?
    それは、ヨハネから
    光を指し示された人たちを通してでしょう。
    彼らは、ヨハネを通して、キリストを自分の光として受け取り、
    自分の周りの人たちや、次の世代へと語り継ぎました。
    「ここに光があるよ」と。
    そうやって、わたしたちの光である神の言葉は、
    わたしたちのもとに届いています。
    そして、キリストの光を
    受け止めたわたしたち自身も、
    暗闇に覆われた世界の中で、
    光を指し示すことによって、
    周囲に光を届けていくのです。
    そう、他でもない、私たち自身によって、
    キリストが光であることが暗闇の中で示されるのです。
    これが、この世界に光を届けるために、
    神が選ばれた方法でした。

    それは、牧師や伝道師に任せておけば良いじゃないか
    と、思う方もいるかもしれません。
    たしかに、それは牧者であるわたしが担うべき
    大きな役割のひとつです。
    この時代に、この社会において、
    なぜキリストがわたしたちの光であるのかを
    真剣に考え続けるのは説教者の大きな務めです。
    けれども、残念ながら、暗闇が広がっているのは、
    わたしの周りだけではありません。
    みなさんの周りにも、みなさんの大切な人たちの周りにも、
    暗闇は広がり、闇が深まっています。
    わたしたち一人ひとりが目に見える場所で、
    一人ひとりが生活をする場所で、
    キリストがなぜ光であるのか、
    なぜ命の言葉であるのかを
    思い巡らす必要があるのでしょう。
    たとえそれは言葉にしなかったとしても、
    みなさんを通してこの世界に示されていきます。
    キリストが光であり、命であると受け止める
    みなさんを通して、暗闇が深まる世界に
    光が灯されていくことを神は願っておられます。

    きょう、キリストはどのような意味で、
    わたしたちの世界の光なのでしょうか。
    戦争が続くこの世界で、
    なぜそれでもキリストを光と呼べるのでしょうか。
    それは、イエスさまこそが、
    この世界に平和と和解を打ち立てる方だからです。
    イエスさまは十字架刑という暴力を前に、
    武力や暴力で対抗することはせず、
    無抵抗のまま、平和を願いました。
    武力や暴力によらず、憐れみに生きることによって、
    平和への道を歩んで行く道があることを
    イエスさまは示されました。
    でも、武力によらない平和への道が
    キリストにある光として受け止められるためには、
    このことを光として受け止め、
    「これこそが光だよ」と指し示す人が必要です。

    震災の被害を受けた人びとにとって、
    キリストはどのような意味で
    世界の光と言えるのでしょうか?
    愛する人たちが帰ってくるわけでも、
    元通りの生活がすぐさま戻ってくるわけでもないのに、
    キリストはなぜ世界の光と言えるのでしょうか?
    それは、神は、キリストにあって、
    傷ついている人びとと共におられるからです。
    それが真実な光として届けられるためには、
    神が傷ついたわたしに手を差し伸べるように、
    傷ついている誰かのために手を差し伸べる人が必要です。
    キリストを光として受け止め、
    「これこそが光だよ」と指し示す人が必要です。
    そうです、光を指し示す人がいることによって、
    暗闇に覆われる世界の光として、
    キリストの光は届けられることになるのです。
    暗闇が更に深まる世界に、キリストによって光が訪れた。
    そのことを指し示す、みなさんのような人を
    きょうも、神は必要としておられます。

週報より

  • 2024.1.7 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは、2024年最初の日曜日の礼拝でした。
    今年1年のみなさまの歩みの上に、主キリストの守りと祝福を祈ります。

    ② きょうは礼拝後にもちつきをおこないます。
    もちつきの準備や片付けのときに、
    クリスマスの飾り付けの片付けもおこなう予定です。
    ご協力いただける方はよろしくお願いいたします。

    ③ きょうは礼拝後に月例教会役員会を予定しています。
    教会役員のみなさまは、もちつきの後にお集まりください。

    ④ 能登半島地震で被害に遭われた方々を覚えて祈ります。
    連日のニュースで報じられてご存知の通り、
    1月1日に石川県の能登半島を震源とした地震により、
    大きな被害がでています。
    大切な方たちを亡くされた方々の上に神による深い慰めを祈ります。
    避難生活が余儀なくされている方たちの上に、
    必要な支援がなされることを願います。
    わたしたちの教会が所属している日本ナザレン教団は、
    被災地の復興を願い、ナザレン教会援助委員会(JNCM)を通じて、
    救援募金を開始しましたので、きょうと来週の日曜日に募金を集めて、
    教会からJNCMへ送金したいと思います。
    募金は、ボランティア団体、各被災自治体などへ送金される予定です。
    募金にご協力いただける方はよろしくお願いします。

    ⑤ 来週の礼拝後に月報『モレノ』の編集会をおこないます。
    今月発行予定のモレノの原稿は、来週の日曜日が締め切りです。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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