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朗読箇所

公現後第2主日

旧約 出エジプト記 40:34−38

◆主の栄光
34 雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。
35 モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
36 雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。
37 雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。
38 旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。


新約 ヨハネによる福音書 1:14−18


14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

説教

神はどこにいるの?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    一体、神はどこにいるのか?
    それは、人が長い時間をかけて
    何度も何度も問い続けてきたことです。
    とくに、わたしたちの社会で起こる
    さまざまな悲惨な出来事を前にするとき、
    この問いをつぶやきたくなってしまうでしょう。
    さまざまな暴力が人の尊厳や生活を破壊し、
    人の心を痛めつけるこの社会の中で、
    正義の神は一体どこにいるのか?
    争いが終わらず、戦いがさらなる戦いを生み、
    砲撃や爆撃の音が鳴り止まず、
    人びとの悲しみと嘆きの声が響き続けるこの世界で、
    平和の神は一体どこにいるのか?
    地震がこれまで通りの生活を奪ったとき、
    世界の創造主である神は一体どこにいるのか?
    人生のあらゆる困難の中で、
    希望の神は一体どこにいるのか?
    神に信頼して信仰の旅路を歩むわたしたちにとって、
    決して簡単には無視できない問いかけです。

    聖書は、神の居る場所について、
    神は天にいると答えます。
    それは、空の上という意味ではありません。
    人間の力では決してたどり着けない、
    人間のいるこの大地とは違う、
    神のいる領域が、天と呼ばれています。
    もしも神が天にしかいないのであれば、
    神はわたしたちとは無関係な、
    遠い存在のようにも思えてきます。
    遠いところでこの世界を支配し、
    遠くの方から、わたしたちを眺めているだけ。
    そんなふうに、神が遠くにいるのならば、
    わたしたちの日々の苦しみや悩みも、
    喜びや楽しみも、神には関係のないように思えてきます。

    けれど、神は、天のみを
    ご自分の居場所とはしませんでした。
    旧約聖書を読むとき、山や神殿などの特定の場所が
    神がご自分を人びとの前で明らかにする、
    聖なる場所として受け止められています。
    そう、特定の場所へ行くならば、
    天の神と出会うことが出来る。
    そんな場所として、ある特定の場所が
    聖なる場所として受け止められました。

    このように、神の居場所が
    天であり、聖なる場所であるという、
    旧約聖書の証言を思い起こしながら、
    さきほど開いたヨハネ福音書の言葉を
    読んでみると、どうでしょうか。
    きょう読んだ箇所で、
    ヨハネは、神の言葉である
    イエス・キリストについて書き始め、
    神の言葉であるイエス・キリストは、
    神であると書いたその後に、
    「言は肉となって、
    私たちの間に宿った」(1:14)と書いています。
    つまり、神が人となり、
    わたしたち人間の間で
    一緒に時間を過ごした。
    神がわたしたち人間の生きる場所を
    ご自分のいる場所としたということを
    ヨハネは書いています。

    神のいる場所として、
    一般的に理解されていた場所が
    天であり、神殿であったことを考えると、
    ヨハネのこの言葉には、
    とても大きな驚きが伴います。
    だって、神の子が人となって、
    わたしたちの間に宿ったということは、
    天を居場所とする神が、
    地上を居場所とすることを選んだ
    ということなのですから。
    わたしたち人間の努力や能力では、
    決して入り込むことができないのが、
    神のおられる天という場所です。
    その天から、神が地に来られたということは、
    わたしたち人間の側からは、
    決して乗り越えることができない境界線を
    神の側が乗り越えて、
    人間の側に来てくださったということです。

    そして、この地上を自らの居場所とするために、
    神が選んだ方法は、神が人となるということでした。
    それは、神が人間の弱さを
    その身に引き受けることです。
    神が人間となるということに、
    どれほどたくさんの不利益があったことでしょうか。
    どれほど多くの制限を受けたことでしょうか。
    肉体を持たなければ、
    人とならなければ、
    決して味わうことのなかったであろう、
    肉体の疲れ、痛み、病、そして死を
    イエス・キリストは経験しました。
    また、人びとの争いに巻き込まれたり、
    拒絶され、裏切られるなど、
    人間として生きなければ味わうことのなかった、
    人間の悪や罪深さに直接触れる経験をしました。
    なぜこれほど多くの制約を引き受けてまで、
    神はわたしたちがいる場所を
    ご自分の場所としようと願ったのでしょうか。

    きっと、神は居ても立っても
    いられなかったのでしょう。
    愛と憐れみに、突き動かされてしまったのでしょう。
    自分自身が引き受けることになる
    不利益や制限や弱さや痛みを度外視で、
    神は、わたしたちのもとに来てくださいました。
    「神はどこにいるのか?」と思い悩み、
    この世界のさまざまな出来事に苦しむわたしたちを
    遠くの方から見て、遠くの方から支援するのではなく、
    そばに来て、その弱さや悩みを知った上で、
    神は、わたしたちと共に生きようと
    決断してくださいました。

    神のその強い決断は、ヨハネが選んだ、
    「わたしたちの間に宿った」という言葉にも
    強く表されています。
    「宿る」と訳されているギリシア語の単語は、
    テントという意味の単語の動詞の形をとっています。
    つまり、「テントを張って生活をする」という意味です。
    神が人となって、わたしたちと共にいるというのならば、
    移動を前提としたテントよりも、
    ひとつの場所に留まって
    定住することを前提とした
    神殿をイメージする単語の方を使ってほしいものです。
    そうすれば、「神がたしかに、ここにいる」
    ということを強く印象付けられるでしょうから。

    でも、ヨハネは、イエス・キリストが
    わたしたちのもとに宿ったと伝えるとき、
    定住生活ではなく、テント生活の方を選びました。
    なぜって?
    それは、ヨハネが用いたこの単語が、
    旧約聖書の時代に、
    イスラエルの民が荒野を放浪していたときに用いられた、
    移動式の礼拝所である、
    幕屋を思い起こさせるものだったからです。
    荒野を放浪していた時代、
    幕屋は、イスラエルと共に移動し、
    神はイスラエルと共に旅をしました。
    イスラエルの民が旅をし、
    放浪していた場所は、荒野です。
    古代の人びとにとって、
    荒野は命のない場所でした。
    そこは、秩序もなく、荒れ果てている場所です。
    まさに、四方八方、カオスに覆われ、
    暗闇が広がる場所でした。
    そんな場所を旅するイスラエルの民と一緒に、
    いのちの源である神が荒野の中も共にいて、
    その無秩序の中を歩んで行く旅を
    彼らと共に歩んでくださいました。
    荒野で旅をするイスラエルの民にとって、
    幕屋は、そのことの大きな象徴でした。
    ですから、キリストが人となって、
    わたしたちのもとに定住したと語らず、
    わたしたちのもとでキリストが
    テント生活をしたとヨハネが表現したのは、
    イスラエルの民の旅を思い起こしているからなのでしょう。
    そう、イスラエルの民が秩序のない、
    いのちの息吹を感じられない、荒野を旅したときに、
    いのちの神が常にその旅に伴ってくださったように、
    キリストも、わたしたちの人生の旅路に伴ってくださる。
    どれほどわたしたちの世界が争いに満ちていたとしても。
    どれほどわたしたちの世界に無秩序で、
    暗闇に覆われたものであったとしても。
    わたしたちの源である神はわたしたちを決して見放さず、
    わたしたちの旅をキリストにあって、共に歩んでくださる。
    このようなメッセージを込めて、
    ヨハネは定住ではなく、テント生活のイメージを用いて、
    キリストがわたしたちの間に宿ったことを伝えたのでしょう。

    ヨハネの抱いたこの確信は、
    わたしたちにとっても同じものです。
    「神は一体どこにいるのか?」と問いかけたくなる世界は、
    まさに、カオスで覆われ、暗闇が広がり、
    秩序もなく、荒れ果てている世界です。
    争いが当たり前となってしまったこの世界では、
    命よりも、死の方が広がっているように感じます。
    そのような世界の中に天幕を建てるように、
    神はキリストをわたしたちのもとに送ってくださいました。
    いのちを感じさせない荒野の中で、
    いのちにあふれる神が共にいることを
    象徴する幕屋が建てられ、
    その幕屋と共にイスラエルの民が旅をしたように、
    キリストがこの世界の中で共にいて、
    わたしたちにいのちを分け与え、
    この暗闇の中を共に旅してくださる。
    イエス・キリストにあって、
    このような世界で旅をするわたしたちに
    いのちの源である神が伴って、一緒に歩んでくださいます。

    ということは、ヨハネの言葉に基づいて考えるならば、
    神がどこにいるのかは、明らかです。
    天におられる神は、キリストにあって、
    わたしたちと共にいてくださいます。
    神は、キリストにあって、わたしたちがいる場所を
    ご自分がいる場所として選び続けてくださっています。
    たとえ、この世界がどれほど無秩序で、
    争いと暴力に溢れ、
    暗闇に覆われていると思えたとしても、
    荒野に天幕が建てられたように、
    この世界にいのちを与えるために、
    神はわたしたちと共にいて、
    わたしたちの信仰の旅路に伴ってくださいます。
    神は天から決して動かない方でも、
    聖なる場所から決して動かない方でもなく、
    わたしたちに対する愛と憐れみに突き動かされ、
    人間の弱さを引き受けてまで、
    わたしたちと共に旅を続けてくださる方だからです。
    だから、信仰の旅路を続けていく上で、
    暗闇に飲み込まれ、無秩序に押し流される
    そんな経験をするときにこそ、
    わたしたちは何度も、何度も思い起こしましょう。
    無秩序で、荒れ果てた
    荒野のように思える道を歩んでいたとしても、
    キリストはわたしたちの人生を導くいのちの光として、
    天のみ国へと至るまでの道を
    一緒に歩み続けてくださいます。
    神が愛と憐れみに突き動かされ、
    人となって、わたしたちと共に歩む
    そんな驚きと恵みに溢れた決断をしてくださったのですから。

週報より

  • 2024.1.14 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に月報『モレノ』の編集会をおこないます。
    モレノ編集チームのみなさま、よろしくお願いします。
    モレノの製本作業は、いつも通り来週の礼拝の後におこないます。

    ② きょうは午後3字から目黒教会で関東地区の新年聖会があります。
    きょうは午後に新年聖会があるため、基嗣牧師は目黒教会へ出かけます。
    聖会の説教者は、教団理事長の土肥努先生です。
    YouTubeで「@nazarene-kanto」と検索して出てくるチャンネルより、
    ライブ配信も予定されています。
    聖会の後、地区協議会が開催されます。基嗣牧師が出席予定です。

    ③ 能登半島地震で被害に遭われた方々を覚えて祈ります。
    わたしたちの教会が所属している日本ナザレン教団は、
    被災地の復興を願い、ナザレン教会援助委員会(JNCM)を通じて、
    救援募金を開始しました。
    受付テーブルの上に置いてある、家のかたちの箱で募金を集めて、
    教会からJNCMへ送金します。
    募金は、ボランティア団体、各被災自治体などへ送金される予定です。
    募金にご協力いただける方はよろしくお願いします。
    継続的な募金の方法については、
    礼拝後に役員のみなさんと話し合ったあとに、お知らせしようと思います。

    ④ 『交読詩編』購入のお知らせ
    礼拝での朗読聖書が聖書協会共同訳に変更したことにより、
    詩編交読の訳も新しくする必要があります。
    教会の備品として、新しく30部の『交読詩編』を購入予定です。
    昨年、天に召された佐々木法子さんの記念として購入します。
    個人用の購入をご希望の方は、牧師までお知らせください。
    教会用と一緒に注文をします。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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