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朗読箇所

公現後第3主日

旧約 イザヤ書 40:1−11

◆帰還の約束
1 慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
2 エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。
3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
5 主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
8 草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
9 高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神
10 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
11 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。


新約 ヨハネによる福音書 1:19−28

◆洗礼者ヨハネの証し
19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、
26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

説教

ヨハネはなぜ荒れ野で叫ぶ声なのか?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    イエスさまがガリラヤやエルサレムで
    活動をはじめる少し前に、
    人びとの人気を集めたのが、
    洗礼者ヨハネ、またはバプテスマのヨハネ
    と呼ばれる人物でした。
    新約聖書にある4つの福音書すべての
    かなり早い段階で彼の名前が登場するほど、
    このヨハネという人物は
    当時のユダヤの人びとの間で有名で、
    強い影響力のある人物でした。
    彼が活動を始めたのは、彼が30代前半だったころ。
    デビュー地は、荒野。
    主な活動場所は、ヨルダン川のほとり。
    彼は、らくだの毛皮を着て、
    バッタや野蜜を食べて生活をしていました。
    あれ?
    何だかあまり魅力的ではありませんね。
    それなのに、なぜ洗礼者ヨハネは
    人びとの人気を集めたのでしょうか?

    それは、ヨハネが語ることが、
    旧約聖書に登場する預言者たちの伝統を
    受け継いでいるものとして、
    当時のユダヤの人びとから受け止められていたからでした。
    ヨハネは人びとに罪の悔い改めを呼びかけました。
    つまり、今の自分の生き方を顧みて、
    自分本位に生きるのではなく、
    神と人とを愛する生き方へと方向転換するように、
    人びとを招きました。
    そして、罪の赦しのしるしとして、
    彼はヨルダン川で人びとに洗礼を授けました。

    そんな彼の姿を見たある人たちにとって、
    この洗礼者ヨハネという人物は、
    ユダヤの人びとがずっと待ち望んできた、
    救い主メシアのように思えました。
    またある人たちは、このヨハネこそが、
    メシアが来る前に再び現れると約束されている、
    あの預言者エリヤなのではないかと考えました。
    またある人たちには、ヨハネは、
    モーセのような偉大な預言者のように思えました。

    このように、重要人物として受け止められ、
    人びとの間で話題になっているヨハネについて、
    エルサレムの宗教的指導者たちは、
    調べる必要性があると感じたのでしょう。
    祭司とレビ人が代表してヨハネのもとにやってきて、
    「あなたはどなたですか」と、ヨハネに問いかけました。
    ヨハネは人びとがヨハネについて考え、
    噂になっていたであろうことをすべて否定します。
    わたしは、メシアではない。
    エリヤでもない。
    モーセのような預言者でもない。
    「違う」と徹底的に否定します。

    では、ヨハネは自分のことを
    どのように考えていたのでしょうか?
    ヨハネは、自分自身は「声」であると言います。
    ヨハネ福音書の著者は、
    イエス・キリストを神の言葉として紹介することから
    この福音書を始めました。
    声であるということは、
    言葉そのものではありません。
    声は言葉を伝えるために用いられます。
    ですから、神の言葉であるイエス・キリストを
    指し示す存在というのが、
    ヨハネが自分自身について語ったことでした。
    この福音書をはじめから読む人たちにとって、
    この考え方は決して新しいことではありません。
    ヨハネは光ではなく、
    光であるキリストを証言する人だと、
    ヨハネ福音書はそのはじめから伝えているからです。

    ただ、それは単に言葉であるキリストを
    指し示すだけの声ではありませんでした。
    洗礼者ヨハネは、旧約聖書のイザヤ書に
    記されている言葉を引用して、
    自分のことを説明をしています。
    「私は、預言者イザヤが言ったように
    『主の道をまっすぐにせよ』と
    荒れ野で叫ぶ者の声である」(ヨハネ1:23)と。
    荒れ野で叫ぶ者の声という言葉に、
    どのような印象を受けるでしょうか?
    わたしはこの言葉を読んで、
    途方もない気持ちになりました。
    だって、それはまるで、
    誰もいない場所に向かって
    叫んでいるかのようだからです。
    好き好んで荒野に行く人はいません。
    荒野で叫んでも、
    人びとは町や村の中にいるのですから
    その声が届くはずもなく、
    聞いてくれる人はどこにもいません。
    そして、その叫ぶ言葉の内容といえば、
    「主の道をまっすぐにせよ」です。
    荒野に道などありません。
    ここで使われている「道」という言葉は、
    人や獣が通って、自然にできる道とは違います。
    イザヤ書では、明らかに、
    交通のために整備された道を
    指す言葉が使われています。
    いくら荒野で叫んで、
    荒野に道を整えていこうと呼びかけても、
    誰にも届きませんし、
    何よりもそれは、途方もない、困難な働きです。
    道のない場所に、
    道を作っていかなければならないのですから。
    正直、ヨハネのこの呼びかけに
    真剣に耳を傾けようと思えば思うほど、
    途方に暮れる思いになります。
    それは果たして可能なのだろうか、と。

    ヨハネやイザヤが語る道とは、
    神のための道です。
    それは、人が神と出会うために必要な道を
    整えるようにという呼び掛けともとれます。
    その呼びかけが、荒野で叫ばれているため、
    不可能さを感じます。
    荒れ果てた道を移動しやすいように整えていくことは、
    とても時間のかかる作業です。
    実際、イザヤ書が想定している
    整えて、まっすぐにするべき道は、
    バビロンへと捕囚されたイスラエルの民が
    バビロンからエルサレムへと帰るための道です。
    直線距離は800km。
    それは、小山市から広島県までの距離です。
    そのような長い道をまっすぐに、整備していくことが、
    弱い民族であったユダヤの人たちにとって、
    いかに不可能で、途方に暮れる
    大事業であったことかがわかるでしょう。

    このように、道をまっすぐに整えていくことが
    不可能であることを示すことによって、
    神と人を結ぶ道を整えていくことが
    いかに困難であるかを伝えるために、
    ヨハネは声として、声高に叫んだのでしょうか?
    たしかに、実際問題、
    神と人との間には大きな溝があります。
    神と人との関係は、
    荒れ野のようにすさみ、命を感じられない、
    乾き切った関係なのかもしれません。
    神を愛することも、
    共に生きる人たちを愛し、憐れみ、
    手を取り合って生きていくのも難しいことです。
    神の声を聞き、神の願いを知るよりも、
    自分の願いに忠実に生きる方が遥かに簡単です。
    その意味で、この世界に荒野が広がっていることは、
    誰の目にも明らかです。
    わたしたちの人生を豊かにし、
    その生命の輝きを溢れさせる働きや出来事がある一方で、
    やはり、わたしたちの命をすり減らし、疲弊させ、傷つける、
    争いや暴力や悪意がわたしたちの社会に渦巻いているのは
    否定できない事実だからです。
    けれど、ヨハネはそのような事実を示す声ではありません。
    そんな荒れ果てた、命の感じられないことが
    あたりまえの場所で叫ぶ声がヨハネでした。
    それは、荒野の中にこそ、キリストが訪れ、
    キリストを通して、神がわたしたちと
    出会ってくださることを指し示す声でした。
    キリストにあって、人と神を結ぶ道が整えられました。
    荒れ果てていて、どこへ行けば良いかさえわからない、
    そんな荒れ野の中でキリストは
    わたしたちと出会ってくださいます。
    わたしたちが道を整えようとする前に、
    神の側が道を整え、
    キリストが来てくださったからです。

    もちろん、キリストが荒れ野に訪れ、
    わたしたちと出会ってくださるから、
    わたしたちは何も変わる必要などなく、
    今の自分のままで良い、
    荒野は荒野のままで、そこに道など無くて良い、
    というわけではありません。
    キリストと出会ったからこそ、
    わたしたちは自分たちの前に広がる道を
    整えていく必要があるのでしょう。
    神がわたしたちに願うのは、
    わたしたちが神と人を愛する、
    そんな道を歩んでいくことです。
    ですから、誰かを蹴落として、
    傷つけながら歩む道ではなく、
    誰かと手を取り合って、平和を築いていく道を整えながら、
    歩んでいくことこそが、わたしたちの願いです。
    自分にとって損か得かを気にするのではなく、
    共に生きる人たちの喜びや笑顔を求めていく。
    そして、憎しみや妬みに心を支配されるのではなく、
    心を開いて目の前の人に共感し、
    共に生きる誰かを思いやることこそ、
    わたしたちが歩んでいきたい道です。
    わたしたちがそのような道を歩んでいくとき、
    キリストはわたしたちの旅に伴ってくださり、
    キリストを通して、神はわたしたちの道を
    整えてくださるはずです。
    時には、わたしたち自身もヨハネのように、
    荒野で叫ぶ声となり、主キリストにある愛や憐れみ、
    平和や正義を指し示す必要もあるでしょう。
    自分たち自身の道が整えられるだけでなく、
    わたしたちが共に歩む人たちの道が整えられ、
    この世界に平和が広がっていくこともまた、
    神が望むことだからです。

週報より

  • 2024.1.21 週報より抜粋・要約

  • ① ティータイムの後に、月報『モレノ』の製本作業を予定しています。
    今月のモレノの編集と印刷を終えました。
    ご協力くださったみなさま、ありがとうございました。
    きょうの礼拝後、ティータイムの後に製本作業をおこないますので、
    お時間のある方は、ご協力よろしくお願いします。

    ② 『交読詩編』購入のお知らせ
    礼拝での朗読聖書が聖書協会共同訳に変更したことにより、
    詩編交読の訳も新しくする必要があります。
    教会の備品として、新しく30部の『交読詩編』を購入予定です。
    昨年、天に召された佐々木法子さんの記念として購入します。
    個人用の購入をご希望の方は、牧師までお知らせください。
    教会用と一緒に注文をします。

    ③ 教会教育委員会主催のリレー講義の第3回目のお知らせ
    『道・真理・命 〜 恵みの旅としての弟子の歩み』という書籍を用いて学ぶ、
    ナザレン教会の牧師たちのリレー講義(Zoomで)が
    来週の日曜日(1月28日)の午後4時から予定しています。
    Zoomのミーティング IDは、 845 4653 5777 です。

    ④ 【公告】 年次教会総会のお知らせ
    2月18日(日)の礼拝後に、年次教会総会を開催します。
    教会員の皆さまはご出席ください。
    やむを得ず欠席をされる方は、委任状のご提出をお願いします。
    委任状の書式はとくにありません。
    委任状は、LINEでのメッセージやメールでも提出可能です。

    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください。
    受付テーブルの上にある家の箱で集めた募金は、
    ナザレン教会を通してボランティア団体、各被災自治体などへ送金されます。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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