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朗読箇所

公現後第6主日

旧約 創世記 28:10−17

◆サムエルへの主の呼びかけ
10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。
11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
16 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
17 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」


新約 ヨハネによる福音書 1:40−51


40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
◆フィリポとナタナエル、弟子となる
43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

説教

疑いを抱きながら、主イエスと出会う

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    ヨハネ福音書はそのはじめに、イエスさまの弟子たちが
    イエスさまとどのように出会ったのかを記録しています。
    イエスさまの弟子たち全員が
    まったく同じ出会い方をしたわけではありませんでした。
    ある人たちは、もともとは洗礼者ヨハネの弟子でした。
    ヨハネがこの人こそ神の子だと言うから、
    ヨハネの言葉を信頼して、
    彼らはイエスさまについて行き、
    イエスさまの弟子となりました。
    イエスさまから直接声をかけられて、
    イエスさまについて行くことを決めた弟子たちもいました。
    自分の家族や友人たちに
    イエスさまを紹介された人たちもいました。
    このように、弟子たちがイエスさまについて行こうと決めた、
    そのきっかけは様々でした。
    一人ひとりのイエスさまとの出会いに、
    色々なストーリーがあったのでしょうが、
    ヨハネ福音書は、決して弟子たち全員が
    どのようにしてイエスさまに
    ついて行くようになったかについては、
    事細かに説明することはしません。
    福音書の著者は、ひとりの弟子にスポットを当てます。
    それは、弟子たちの中でも有名な
    ペトロではありませんでした。

    ヨハネ福音書が紹介するのは、
    ナタナエルという名前の人です。
    イエスさまの話を聞いたときの彼の反応は、
    これまでイエスさまのことを紹介されてきた他の人とは
    全く違ったものでした。
    それは、疑い。
    否定的な反応です。
    彼は、フィリポから「預言者たちも
    書いている方に出会った」と聞いたとき、
    「ナザレから何か良いものが出ようか」(1:46)と、
    鼻で笑います。
    あんな小さな田舎の村から、
    救い主メシアが出てくるわけないだろ?
    ナザレなんて小さな村について、
    聖書のどこにも書いていないんだから。
    小さな村を見下したような態度で、
    ナタナエルはフィリポの言葉に反応します。
    「いいから、来てみなって。
    そして、イエスという男に実際に会ってみなよ」と、
    フィリポが言うものだから、
    ナタナエルはイエスさまに会いに行ってみたのでした。

    さて、疑いを抱いたナタナエルが
    イエスさまと出会ったとき、
    ナタナエルの心には何が起きたのでしょうか。
    それとも、彼の心には何も
    変化が起こらなかったのでしょうか。
    一見、大きな変化がナタナエルの心に
    起きたかのように見えます。
    イエスさまとの会話を通して、
    疑っていたのが一転して、
    イエスさまを神の子、
    イスラエルの王と呼ぶようになるのですから。

    でも、イエスさまとナタナエルの会話を読んでみると、
    ナタナエルがイエスさまを神の子として受け入れる理由が、
    正直なところ、見えてきません。
    イエスさまはナタナエルに、
    「まことのイスラエル人だ。
    この人には偽りがない」(1:47)と言って、
    ナタナエルのことを評価しているように見えます。
    この人は一体、自分の何を知っているのだろうか
    と感じたナタナエルが、
    「どうして私を知っておられるのですか」(1:48)と
    イエスさまに尋ねるのも当然です。
    それに対するイエスさまの回答は、
    「あなたがフィリポから話しかけられる前に、
    いちじくの木の下にいるのを見た」です(1:48)。
    いちじくの木の下にナタナエルがいたのを見たから、
    何だというのでしょうか?
    いちじくの木の影は、
    律法を教え、学ぶ場所として
    好んで選ばれた場所だったようです。
    ということは、
    ナタナエルが真剣に神の言葉を学び、
    神と向き合おうとしている姿を見たと、
    イエスさまはナタナエルに伝えているのでしょうか。
    イエスさまと知り合う前から
    自分の姿をイエスさまが見つめていてくださった。
    イエスさまはわたしのことを
    よく知っていてくださっているとナタナエルが感じ、
    イエスさまを神の子と認めるようになったのでしょうか?
    それは、なんだか、話が飛躍しているように思えますね。
    彼の疑いは一体どこへ行ってしまったのでしょうか?
    はたして本当に、これだけの会話で
    イエスさまに対する彼の態度は変わり、
    疑いが晴れたのでしょうか?

    信仰とはそういうものだよ、
    というのもひとつの答えなのかもしれません。
    わたしたちの理解の越えたところで、
    神が働くのは確かにその通りなのですから。
    でも、そうだとしたら、
    ナタナエルの疑いが解消されたのは良いけれども、
    ヨハネ福音書を読んでいるわたしたちの側が
    疑いの渦に飲み込まれてしまいそうです。
    都合の良いように、ナタナエルという人物を登場させて、
    イエスさまを信じさせているのではないだろうか、と。

    ナタナエルがフィリポの前で吐き捨てた、
    「ナザレから良いものが出ようか」という言葉は、
    彼のイエスさまに対する疑いに溢れた言葉です。
    ですから、間違いなく、彼は疑いを抱きながら、
    フィリポに連れられて、イエスさまに出会ったことでしょう。
    そうだとするならば、
    ナタナエルのイエスさまに対する反応は、
    もっと否定的な反応であることが自然です。

    イエスさまに対して疑いの心を持ち、
    否定的な態度を取っている人物として、
    ナタナエルの言葉を読んでみるとどうなるでしょうか。
    彼の言葉は、アイロニー。
    皮肉として読むことができます。
    自分の本心とは真逆のことを言うことを通して、
    自分の本心を更に強調する方法です。
    あぁ、わたしのことをよくご存知なのですね。
    あなたは本当に神の子なんですね。
    まさにイスラエルの王にふさわしい方なんですね。
    まぁ、わたしはあなたのことを
    そんな風には考えていませんが。
    というように、イエスさまを嘲るように、皮肉交じりで、
    ナタナエルがイエスさまに答えたと考えると、
    この二人のやり取りがとても自然に見えてきます。
    イエスさまはナタナエルを「偽りがない」と評価しています。
    そう、自分が抱いている疑いの心を決して偽らずに、
    イエスさまに近づいたのがナタナエルという人なのでしょう。

    自分に対して向けられた嘲りや疑いを
    イエスさまは受け止めて、ナタナエルに答えます。
    あなたはもっと大きなものを見るだろう、と。
    天が開け、神の天使たちがわたしの上を
    上り下りするのを、
    あなたも、あなたの周りの人たちも、
    見ることになるのだから(1:50−51)。
    イエスさまとナタナエルの会話はこれで終わります。
    疑いを抱いたナタナエルがどうなったのかは、
    全くわからないまま、物語は閉じられます。
    さて、実際のところ、
    ナタナエルはどうなったのでしょうか?
    わたしたちは想像するしかないのでしょうか?

    実は、そうではありません。
    ただ1度だけ、
    ナタナエルはこの福音書の中で再び登場します。
    それは、この福音書の一番最後に記されている物語の中です。
    十字架刑によって殺され、
    3日目によみがえったイエスさまと
    弟子たちが出会う物語の中で、
    ナタナエルの名前が登場します。
    ナタナエルはイエスさまと会話をしたこの後、
    イエスさまのことを疑いながらも、
    ずっとイエスさまの姿を見てきたのでしょう。
    「もっと大きなものを見るようになる」という、
    イエスさまの言葉を半信半疑受け止め、
    確かめさせてもらおうじゃないかと、
    軽い気持ちで、イエスさまの動向を
    見つめていただけなのかもしれません。

    でも、イエスさまを見つめる中で、
    ナタナエルはイエスさまと出会います。
    何がきっかけになったのかはわかりません。
    けれど、たしかに彼は
    イエスさまを見つめ続けたのでしょう。
    決して、自分が抱いている疑いを覆い隠さず、
    見ないふりをすることなく、
    正直に自分の心を見つめながら、
    イエスさまが何をするのかを見つめ続けました。
    どんな言葉を語ったのか。
    どんな人と出会ったのか。
    どんな行動をしたのか。
    彼が心で抱いた疑いは、
    彼がイエスさまと出会うことを
    邪魔しませんでした。

    こんな風に彼が疑いを抱き続けながらも、
    イエスさまと出会うことが出来たのは
    なぜなのでしょうか。
    それはイエスさまが彼の疑いや嘲りを
    受け止めただけが理由ではなかったと思います。
    ナタナエルの疑いを受け止め、
    彼と共にいることをやめなかった、
    弟子たちの交わりが
    彼とともにあり続けたからでしょう。
    彼がイエスさまを通して明らかになる神の救いや、
    イエスさまの憐れみに満ちた行いを
    見つめる日が来るまで、
    イエスさまの弟子たちはナタナエルと
    一緒にいることをやめませんでした。

    神への疑いは、信じるか、信じないかという、
    白黒に分けられるものではありません。
    わたしたちは、神を信じながら、
    神を疑うからです。
    いや、愛と平和の神を信頼しているからこそ、
    この世界や日常で遭遇する出来事を前にするとき、
    神の愛や憐れみや正義を疑ってしまうのです。
    信頼すればするほど、
    神よ、なぜなのかという問いかけが、
    とめどなく生まれてきます。

    だから、わたしたちには信仰の友が必要です。
    落胆し、疑いに心を支配されるとき、
    それでも、神は愛と憐れみに満ち、
    この世界に平和を願っておられると、
    わたしたちに示し続ける信仰者の交わりが
    わたしたちには必要です。
    イエスさまが約束されたように、
    天が開け、更に大きなことを
    わたしたちが見つめる日が訪れることを
    一緒に励まし合いながら、待ち望み続ける、
    そんな交わりがわたしたちには必要です。
    幸いなことに、わたしたちは
    ここに、そのような交わりを持っています。
    神の愛や正義を疑い、
    神への信頼が曇るときも、
    ここに集う仲間たちと共に、
    信仰の旅を歩んで行きます。
    一緒に旅をする仲間たちが
    わたしたちに教えてくれるからです。
    常に、神への信頼で溢れる歩みを続けられるほど、
    わたしたちの心は強くありません。
    でも、そんなわたしたちを支え続ける信仰の友を
    神がわたしたちに、教会の交わりを通して
    与えて続けくださっていることは、
    わたしたちにとって大きな喜びです。
    疑いを抱いても良いんです。
    心が揺れ動いても良いんです。
    わたしたちの疑いを受け止めてくださるイエスさまは、
    わたしたちの日々の歩みを共にしてくださるのですから。
    そして、わたしたちが疑いを抱き、心揺れ動くときに、
    神の愛と、主キリストにある希望を
    指し示してくれる信仰の仲間たちが、
    信仰の旅路を共に歩んでくれるのですから。

週報より

  • 2024.02.11 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に月報『モレノ』の編集会をおこないます。
    モレノ編集チームのみなさま、よろしくお願いします。

    ② あすは午前10時30分から浦和教会で関東地区CECの研修会があります。
    「コロナ禍後の教会〜教会とは何かを改めて考える」という題で、
    石田学先生が講演をします。Zoomでの参加も可能です。
    ZoomのID 837 3535 2319 パスワード 444860

    ③ 来年度の礼拝の係やチームにご協力いただける方を募集しています。
    週報にはさんである申し込み用紙をご覧ください。
    係を担当してくださる方は記入して、投書箱に入れてください。
    (もちろん、モレノ用の好きな讃美歌の投書も募集中です!)

    ④ 名簿と次週の総会資料を週報棚に入れておきました。ご確認ください。
    名簿は教会内での連絡のみにご使用ください。
    名簿に誤りがありましたら、牧師までお知らせください。

    ⑤ 年次教会総会とランチの会のお知らせ
    来週の礼拝後に、ランチの会を予定しています。
    メニューはオープンサンドです。
    ランチの会の後に年次教会総会を開催します。
    教会員の皆さまはご出席ください。
    やむを得ず欠席をされる方は、委任状のご提出をお願いします。
    委任状の書式はとくにありません。
    委任状は、LINEでのメッセージやメールでも提出可能です。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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