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朗読箇所

四旬節第2主日

旧約 ゼカリヤ書 14:20−21


20 その日には、馬の鈴にも、「主に聖別されたもの」と銘が打たれ、主の神殿の鍋も祭壇の前の鉢のようになる。
21 エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。


新約 ヨハネによる福音書 2:13−25

◆神殿から商人を追い出す
13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

◆イエスは人間の心を知っておられる
23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

説教

熱情の行き場

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    毎年春に行われる、
    過越祭というユダヤ人にとって大切なお祭りがあります。
    それは、自分たちの先祖であるイスラエルの民が
    エジプトで奴隷生活をしていたときに、
    神によって解放され、自由を与えられ、
    神の民とされたことを思い起こし、
    お祝いするためのお祭りでした。
    彼らにとって重要なお祭りであるため、
    過越祭の時期は、神殿があるエルサレムの都に
    通常の2〜3倍もの人たちが集まりました。
    そんな時期に人びとの需要が高まったのは、
    神殿で神に捧げるための、いけにえとしての動物。
    そして、その動物を購入するために
    自分の持っているお金を
    神殿で使えるものへと換金することでした。
    そんな面倒なことするなら、
    神殿で購入するよりも、
    自分で動物を持ち込んだ方が良いのでは?
    と思うかもしれません。
    けれど、神に捧げるいけにえは、
    傷のない動物である必要がありました。
    もしも旅の途中で動物たちを傷つけてしまっては
    せっかく連れてきた動物たちを
    捧げることができなくなっています。
    そのため、いけにえのための動物を
    神殿で購入できることは、
    神殿に訪れる人びとにとって
    絶対に必要なことでした。
    神殿を訪れる誰もが必要としているため、
    たくさんの動物たちがそこにいたことでしょう。
    いけにえを捧げる人たちの収入や財産に応じて、
    牛か羊か鳩がいけにえとして捧げられました。
    なので、過越祭が近づいてきた影響で人で溢れるだけでなく、
    牛や羊や鳩の鳴き声で
    とても騒がしい神殿の様子が想像できるでしょう。

    過越祭が近づき、エルサレム神殿に
    たくさんの人が訪れる時期に、
    そんな騒がしい神殿の中で
    普段聞き慣れない音が響きました。
    それは、ムチの鳴る音。
    ムチの音に驚いた羊や牛が駆け出す音。
    それを見て、商人たちが慌てて走り出す足音。
    大量のコインが落ちる音。
    両替人が使っていた台が倒れた音。
    そして、男が叫ぶ声が聞こえてきました。
    「それをここから持って行け。
    私の父の家を商売の家としてはならない。」(16節)
    その声の正体は、イエスさまです。
    イエスさまはなぜこのような騒動を
    引き起こしたのでしょうか。

    イエスさまの言葉からは、
    神殿で商売が行われていることが
    問題のように感じます。
    けれど、神殿でいけにえのための動物は、
    遠い場所からエルサレムへとやって来て、
    エルサレムで過越祭をお祝いし、
    このお祭りの期間を
    エルサレムで過ごす人たちのために売られていました。
    もしも神殿でモノを売り買いすること
    そのものに問題があるならば、
    動物を売っている商人たちだけでなく、
    動物を買う人たちや、
    このような商売を許している祭司たちに対しても、
    イエスさまの言葉は向けられたことでしょう。

    けれども、ヨハネ福音書が記録するこの物語において、
    イエスさまの言葉が向けられたのは、
    鳩を売っている商人に対してのみでした。
    なぜ商人に対してのみ、
    イエスさまの言葉は向けられたのでしょうか。
    それは、イエスさまが旧約聖書の
    ある言葉を意識していたためでした。
    きょう、旧約聖書からゼカリヤ書14章を読みました。
    ゼカリヤ書の最後、14:21で、
    預言者ゼカリヤはこのように語っています。

    エルサレムとユダの鍋も、
    すべて万軍の主の聖なるものとなる。
    いけにえを献げる者は皆やって来て、
    鍋を取り、それで煮る。
    その日には、万軍の主の神殿に、
    もはや商人はいなくなる。
    (ゼカリヤ14:21)

    預言者ゼカリヤを通して約束された、
    将来の出来事がここには記されています。
    それは、日常的に使うものと、
    神殿で用いられる聖なるものの
    区別がなくなるというものです。
    つまり、そうなると、誰もが神殿で
    特別なものを用いる必要がなくなります。
    すべてのものが神に
    受け入れられるものとなるからです。
    ですから、神殿専用のものを
    商人が売る必要などなくなります。
    そんな日が将来、訪れると、ゼカリヤは語りました。
    ユダヤ人たちは、救い主メシアが訪れたときに
    実現する出来事として、
    ゼカリヤのこの言葉を受け取りました。
    そしてイエスさまは、
    自分の行動と言葉によって、
    ゼカリヤの言葉がもう既に
    実現していると宣言しました。
    神殿に商人はもう必要ありません。
    イエス・キリストという、
    約束された救い主メシアが訪れたのですから。

    イエスさまのこのような行動は、
    熱心なユダヤ人たちの反感を買ったことでしょう。
    現在の神殿で行われているシステムを破壊するなど、
    彼らは気に入りません。
    そういった周りの空気を感じ取ってか、
    この出来事を見たイエスさまの弟子たちは
    旧約聖書の詩編69篇に記されている言葉を思い出しました。
    それは、「あなたの家を思う熱情が
    私を食い尽くす」という言葉でした。
    弟子たちが思い出したこの言葉は一見、
    イエスさまが神の家である神殿を思うあまり、
    イエスさまの神殿に対する熱情が、熱意が、
    結果的に人びとの反感を買い、
    イエスさまを十字架にかけて殺すことになったことを
    後から振り返って書いているように見えます。

    でも、詩編69篇を読んでみると、
    神殿に対する熱情を持っているのは、
    詩人自身ではないことに気付かされます。
    詩編69篇では、
    詩人を批判し、あざ笑い、攻撃している人たちこそが、
    神殿に対する熱情を持っている人たちです。
    そのため、この詩編を引用しているヨハネは、
    イエスさま自身の神殿に対する熱情が
    イエスさま自身を死へと追いやったと
    伝えようとはしていないのでしょう。
    むしろ、神殿に対する熱情を抱いていた人びとこそが、
    イエスさまを死へと追いやりました。
    救い主メシアの時代の訪れを拒み、
    その時代の神殿のシステムを守ろうという
    熱情が、熱意が、熱狂が、
    イエスさまを食い尽くしました。

    「あなたの家を思う熱情が
    私を食い尽くす」。
    この嘆きの言葉は何も、
    イエスさまやあの詩編をうたった詩人だけの
    特別な経験というわけではありません。
    形を変えて、どんな時代でも、
    わたしたちの生きるこの時代でも、
    何度も何度も起きています。
    国や組織を守りたいという熱情や熱意は、熱狂は、
    一人ひとりの命や尊厳を傷つけます。
    大きな共同体の中に個人を飲み込んでいきます。
    その大きな共同体の中では認められない価値観を
    持つことが許されず、差別や排除が生み出されます。
    自分の国や組織が大切だから守りたいというその熱意は、
    ときには対立を生み出します。
    自分の大切なものを守るために、
    自分の大切なものを手に入れるために、
    他の人を傷つけ、奪うことを厭わなくなります。
    この世界で起こり続ける紛争や戦争や虐殺を見るとき、
    わたしたちは自分たちが抱く熱意が暴走し、
    誰かを傷つける現実をもう否定することはできません。
    わたしたち自身が、何かを大切にしたいという気持ちが、
    誰かを傷つけてしまうということは、十分に起こり得るのですから。

    もしかしたら、イエスさまが神殿で示した熱意だって、
    暴力的なものだったじゃないか?と
    問いかけたくなるかもしれません。
    たしかに、ムチを持って動物たちや
    人びとを追い出すあのイエスさまの姿は、暴力的に見えます。
    ただ、ヨハネ福音書のこの物語を注意深く読んでみると、
    イエスさまが暴力に訴えなかったのは明らかです。
    イエスさまは拷問などで使われるムチを
    予め用意して神殿に現れたわけではありませんでした。
    イエスさまが用いたムチは、
    縄で作った急ごしらえのものです。
    その目的は、人びとを叩くためではなく、
    自分の力では簡単に動かせない動物たちを
    彼らの近くを叩くことによって、
    動かすためだったと考えられます。
    イエスさまは鳩の入ったカゴまで
    ひっくり返したわけではないので、
    鳩を売る商人たちはその場に残ることが出来ていました。
    そのため、イエスさまは細心の注意を払って、
    動物たちを神殿から出したことが想像できます。
    ですから、イエスさまは神殿を守るために、
    暴力的手段を用いたではないかという主張は、
    この箇所からは決してできません。
    イエスさまは決して暴力的な手段を用いることなく、
    自分の熱情に動かされて、
    神殿で新しい時代の訪れを宣言したのですから。

    その意味で、この物語は
    わたしたちの現実を教えてくれます。
    それは、時に、暴力と熱情が結びつく危険を抱えている
    わたしたちの現実です。
    そして、それは時に、熱情に促され、
    決して暴力に訴えることなく
    現実に抗議し、抵抗出来る可能性を持っているという、
    わたしたちの現実です。
    わたしたちはこの両方の可能性を持ち合わせています。
    いや、この物語の中で、暴力に訴えなかったのはイエスさまで、
    最終的に暴力的な手段が神殿を守るための熱情と
    結びついてしまったのが、
    敬虔なこの時代の信仰者たちでした。
    その意味では、わたしたちが抱く熱意や熱情、
    何かを達成したいという強い思いは、
    あまりにも簡単に暴力と結びついてしまうことを
    伝える側面の方が強いかもしれません。

    熱情が暴力と結びつく世界は、
    イエスさまを何度も十字架にかけるような世界です。
    暴力を自分の熱意によって正当化する世界は、
    ムチを持ったイエスさまの姿を都合よく利用し、
    その上で、イエスさまにムチを打つような世界です。
    わたしたちは、そんな世界の現実を肯定したくありません。
    そんなわたしたちの世界で起こる
    あらゆる暴力に加担したくなどありません。
    だからわたしたちは、自分たち自身が心に抱く熱意や願いが、
    キリストの愛や憐れみ、
    そしてキリストの平和に結ばれ続けることを願います。
    もしもわたしたちが抱く熱意が暴力に傾くならば、
    わたしたちの心が偏った愛情や
    歪んだ希望と結びついているからです。
    もしもわたしたちが抱く熱意やそれに基づく行動が、
    誰かを差別し、傷つけるならば、
    キリストの平和を踏みにじることになるからです。
    だからわたしたちは、神の前で共に祈ります。
    神よ、どうかわたしたちが心で抱く思いや、
    わたしたちから湧き出てくる熱意と、
    キリストの愛、憐れみ、平和を
    分かちがたく結びつけてください、と。
    この祈りは、わたしたちの力では、
    到底無理なことです。
    実現不可能なことです。
    けれども、復活の主であるキリストが
    わたしたちに伴ってくださるから、
    わたしたちの心は、暴力ではなく、
    キリストの愛、憐れみ、
    そして平和と結ばれます。
    どうか、みなさんが心に抱く熱情、熱意やあらゆる願いが、
    暴力へと行き着くのではなく、
    キリストの愛、憐れみ、
    そして平和の実現へと向かっていきますように。

週報より

  • 2024.02.25 週報より抜粋・要約

  • ① 先週は教会総会を開催することができました。
    総会では、新年度の教会役員の選挙が行われ、
    5名の方が選出されました。
    新しい年度の役員の方たちの働きのために
    お祈りください。
    その他のことついては、
    きょう配布した報告書をお読みください。

    ② 来年度の礼拝の係やチームにご協力いただける方を募集しています。
    係を担当してくださる方、
    チームに入ってくださる方は、
    受付テーブルの上にある申し込み用紙に
    記入して、投書箱に入れてください。

    ③ きょうから、いのちのことば社の「ぶんでんリレー」という企画がはじまります。
    教会でキリスト教関連のグッズや
    書籍を購入できます。
    今回は第1回目で、
    期間は3月24日(日)までです。
    熊谷多賀子さんが担当をしてくださいます。

    ④ 来週は礼拝後に、新旧役員合同で月例教会役員会をおこないます。
    新年度の役員との引き継ぎと
    新年度の役割決めをおこないます。

    ⑤ 教会のもみの木が近々、伐採される予定です。

    ⑥ きょうは午後4時から教会教育委員会のリレー講義があります(Zoomで)。
    ZoomのルームIDは 845 4653 5777 で、
    パスワードはありません。

    ⑦ 月報『モレノ』3月号が完成しました!
    ご協力くださったみなさま、
    ありがとうございました。

    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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