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朗読箇所

復活節第6主日

旧約 創世記 1:1−13

◆天地の創造
1 初めに、神は天地を創造された。
2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。


新約 ヨハネによる福音書 4:43−54

◆役人の息子をいやす
43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。
44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。
45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。
50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。
53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。
54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

説教

不確かに見える、確かな言葉

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    こどもたち、おいで。
    きょうは、最初にこどものみなさんにお話をした後、
    ここにいるみんなにお話してみようかなと思っています。
    子ども向けのお話が終わったら、
    いつもどおり、こどものみなさんを祝福するけど、
    よかったら、子ども向けのお話が終わった後も、
    お話を聞いてみてくださいね。

    さて、聖書の最初のページには、
    この世界のはじまりのことが書かれています。
    でも、学校で教えられることと、
    ちょっと違ったことが書いてあるんだね。
    学校の教科書では、どんな風に、
    宇宙が出来たって書いてあるか知ってる?

    ビッグバンっていう、
    大きな爆発があったと多くの科学者は考えています。
    はじめ、宇宙は小さい点で、
    とっても大きなエネルギーがその小さな点の中にあったんだって。
    で、ある時、爆発して、大きく膨らんで、
    少しずつ時間をかけて出来上がったのが、
    今のこの世界なんだって。
    ぼくは専門家ではないので、
    これ以上は説明できないんだけど、
    この世界、この宇宙のはじまりは、
    大きな爆発だったって、多くの人たちは考えています。
    ぼくも、専門家の人たちの言葉を聴いて、
    そうなんだろうなって思っています。

    でも、聖書はちょっと違う見方を
    僕たちに与えています。
    それは、この世界は、
    神さまが語りかけることによって
    造られたんだっていう考え方です。
    これはね、学校の教科書で書いてあることと、
    まったく違うことを言っているわけじゃないと思います。
    ビックバンという考え方は、
    昔の人達がわからないことをたくさん調べて、
    いっぱい考えて、今のところわかっていることです。
    そして、聖書が伝えていることは、
    神さまを信じている人たちが
    どんな風にこの世界を見たのかという考え方です。
    神さまが色々と話しかけながら、
    出来上がったのが、この世界です。
    実際に起こったのは、大きな爆発なのでしょう。
    でも、世界が造られていく、
    そのひとつひとつの過程がどんなものであっても、
    神さまがこの世界とそこに住む、ぼくたちみんなを愛しておられ、
    大切にしてくださっていることは絶対に変わらないことです。
    この世界は、神さまが
    語りかけてくださったことから、始まった世界です。
    だから、この世界は、神さまがみんなを愛して、
    とっても大切にしてくれている証拠なんだね。
    それはとっても嬉しいことですね。
    来てくれてありがとう。
    こどもたちには、イエスさまの祝福がありますように、アーメン。

    ––––––––––––––––––––
    さて、みなさん。
    わたしたちにとって、
    目に見える象徴やシンボルはとても大切なものです。
    わたしたちが信じているものや、
    頼りにしているものが何であるのかを
    目に見える形で示してくれるからです。
    キリスト教会において、
    すぐに思いつく象徴といえば、十字架でしょう。
    十字架を見つめることを通して、
    わたしたちは、わたしたちの罪のために
    主イエスが十字架にかけられたことと、
    主イエスにあって、わたしたちの罪が赦されていることを
    何度も何度も思い起こします。

    礼拝堂の中には、他にもたくさんの象徴やシンボルがあります。
    わたしが肩に掛けている、このストールは、
    教会の暦が今、どのような時期であるかを教えてくれます。
    季節ごとに入れ替わるこの色を目にしながら、
    わたしたちは毎週、この場所で礼拝を捧げます。
    きょう、わたしが白いストールを付けているのは、
    イースター(復活祭)から始まった復活節の季節を
    今、わたしたちが過ごしているためです。
    白いストールは、わたしたちが今、希望に溢れる季節を
    過ごしていることをわたしたちに伝えます。
    この白いストールは、
    わたしたちの命がこの地上で終わるものではなく、
    神が復活の命を与えてくださり、
    天の御国で生きる希望を
    わたしたちに与えてくださっていることを
    わたしたちに教えるシンボルです。

    この場所にわたしたちが集まって、
    神を礼拝することもまた、象徴的なことです。
    教会という、キリストの名の下に集まる信仰者の群れは、
    目に見えないことが多い集まりです。
    だって、日曜日の午前中以外は、
    この場所にいる誰もが違った場所で
    生活を送っているわけですから。
    教会は、何度も何度も、
    この世界で散り散り、バラバラになります。
    そして、日曜日の朝ごとに、
    主イエスの名の下で集まることを通して、
    何度も何度も、新しく造られていきます。
    わたしたちはここに集まることを通して、
    教会が何であるのかを
    お互いに示し合っています。
    そして、この場所に集まるごとに、
    信仰者の交わりとは、決して孤独に
    この世を旅するものではないことを
    神は、ここに集う教会の交わりを通して、
    象徴的にわたしたちに伝え続けています。
    このように、さまざまな象徴やシンボルに
    わたしたちは囲まれて、神を礼拝し、
    信仰の旅路を歩んでいます。
    目に見えるさまざまなものを用いて、
    きょうも神はわたしたちの信仰を
    養ってくださっています。

    けれども、さきほど読んだ
    ヨハネ福音書の物語に記録されている、
    イエスさまの言葉に目を移してみると、
    イエスさまが象徴やシンボルに対して、
    どこか批判的な姿勢を持っていたのではないか
    と感じてしまうかもしれません。
    というのも、瀕死の状態にあった
    自分の息子を癒やしてほしいと、
    イエスさまにお願いしに来た役人に対して、
    「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、
    決して信じない」(48節)とイエスさまは語っているのに、
    この役人の目の前で不思議な業や奇跡を
    行わなかったからです。

    イエスさまが、何度も不思議な業を行ったのを
    わたしたちは福音書を通して知っています。
    当時の人びとも、
    イエスさまが不思議な業や奇跡を行うのを
    何度も見聞きしました。
    イエスさまは病人を癒やし、
    水をぶどう酒に変え、
    湖の上を歩きました。
    また、5,000人もの人びとと僅かな食事を
    イエスさまは分かち合い、彼らは満腹になりました。
    でも、イエスさまが行った
    このような不思議な業や奇跡を見たからといって、
    誰もがイエスさまの弟子となったわけではありませんでした。
    誰もがイエスさまを通して神と出会い、
    神の言葉に耳を傾けたわけではありませんでした。
    むしろ、イエスさまが「預言者は、
    自分の故郷では敬われないものだ」(44節)と嘆いたように、
    イエスさまと対話を重ねた人びとは、
    ひとり、またひとりと、
    イエスさまのもとから去っていくばかりでした。
    イエスさまが与えたしるしや、
    イエスさまが行った不思議な業が
    いつも人びとを信仰へと導いたわけではありませんでした。
    人びとはイエスさまの不思議な業や奇跡を見て、
    驚き、騒ぎはしました。
    けれども、イエスさまがその不思議な業を通して
    伝えたかったことに対して、
    彼らは見向きもしませんでした。

    イエスさまが不思議な業や奇跡を行った大きな理由は、
    人びとが神と出会い、神を見つめるためでした。
    けれども、イエスさまが与えるしるしや、
    イエスさまが行う不思議な業を見た彼らの目は、
    そのしるしや不思議そのものに留まったままで、
    神に目を向けることには繋がりませんでした。
    そのため、イエスさまはこのとき、
    ご自分のもとを訪れた役人に、確かなしるしを与えたり、
    彼と一緒に彼の子どものもとへ行って、
    その子を癒す不思議な業を見せる
    などといったことはしませんでした。
    イエスさまは、この役人に
    イエスさまが語りかける言葉を
    信じるようにと、励ましました。
    「あなたの息子は生きている」という、
    決して目には見えない、
    ある意味で、とても不確かな約束の言葉を
    真実なものとして受け止めるようにと、
    イエスさまは彼を励ましました。
    たしかに、目に見えるものは、
    確かな頼りとなるように思えます。
    けれども、目に見えるしるしが信仰を生み出さず、
    神との出会いへと人びとを導くものとならないならば、
    イエスさまにとっては、しるしや不思議もまた、
    不確かなものとなり得たのでしょう。

    実際、この役人自身も、
    彼の目に見えるものや、
    彼にとって頼りになるものに対して、
    限界を感じていました。
    というのも、王の役人と紹介されている彼は、
    財産も権力も人脈も十分に持つ人であったからです。
    社会的に高い地位を持つ彼ならば、
    この当時の文化で病を癒すために、考えられていた手段を
    いくらでも試すことができました。
    けれど、彼はイエスさまのもとに来ました。
    それは、彼が自分の力で頼りになると思える、
    目に見えるものすべてに、
    頼り切った後だったのかもしれません。
    けれども、彼にとって、
    自分が積み重ねてきたものは
    何の頼りにもなりませんでした。
    病の力と死の恐怖が子どもを襲い続けています。
    だから、噂で耳にするようになったイエスさまの存在が、
    彼にとって最後の頼みの綱となったのかもしれません。

    けれども、イエスさまのもとに来たとき、
    彼は目に見える、信頼できる保証を
    イエスさまから受け取ることは出来ませんでした。
    彼にとって、最後の頼るべきものとして与えられたのは、
    「あなたの息子は生きている」(50節)と自分に告げる、
    イエスさまの言葉でした。
    それは、何と頼りないものに思えたことでしょうか。
    何の目に見える保証もなく、
    ただイエスさまの口から
    彼に向かって語られたこの一言を
    彼は最後に頼るべきものとして信じ、受け止め、
    自分の家へと帰って行きました。

    不確かに思える約束の言葉を信じて、
    家へ向かう途中、彼は自分のしもべと出会い、
    自分の息子が良くなった
    という知らせを受け取りました。
    「あなたの息子は生きている」という、
    イエスさまのあの言葉が真実なものであったと、
    そのとき、彼は知りました。
    不確かに思えたイエスさまの言葉が、
    他の何よりも確かなものであることを
    彼は知ることになりました。

    このように、イエスさまが彼の目の前で
    奇跡や不思議な業を行うことを拒否したのは、
    イエスさまの言葉が確かなものであることを
    この役人に伝えるためでした。
    象徴やしるし、不思議なわざなどの目に見えるものは、
    確かに頼りになります。
    でも、そういったものが神との出会いを促さないならば、
    それは、単なる物体であり、
    単なる不思議な体験に留まるものです。
    言葉というものは、目に見えるものに比べたら、
    不確かなものに感じられます。
    だって、簡単に忘れてしまいますし、
    その言葉が確かなものだと確信できるまでに、
    時間や労力が必要なこともあるからです。
    けれども、それにもかかわらず、
    神はわたしたちに言葉を用いて語りかけておられます。
    それは、不確かなものだけれども、
    神が語るからこそ、確かな言葉です。

    その意味で、この役人が
    家へ向かって歩んだ旅路はまるで、
    わたしたちの信仰の旅路のようです。
    彼はイエスさまの確かな言葉を信じながらも、
    その言葉や将来に対する不確かさを抱きながら、
    家に向かって歩んでいるからです。
    神はわたしたちの生涯を通じて、
    わたしたちに何度も語りかけてくださる方です。
    聖書を通じて、友人たちの言葉を通じて、
    礼拝や教会での交わりを通して、
    わたしたちは神からの語りかけを
    何度も何度も耳にするでしょう。
    神の語りかける声は、わたしたちに罪の赦しを宣言します。
    わたしたちがどれほど過ちを犯して生きても、
    どれほどわたしたちが自分を赦せなかったとしても、
    あなたは神に愛され、神に赦されていると、
    神はわたしたちに語り続けています。
    また、神が語りかける声は、
    わたしたちの人生の終着点は、
    死ではないと伝えます。
    死を迎えたわたしたちに、
    神がいのちの息を吹きかけてくださいます。
    将来、天の御国に招かれて、
    神と共に、愛する人たちと共に生きることになる。
    そんな希望の言葉を神は語りかけてくださっています。

    このような神の約束の言葉を信じ、受け止めながら、
    わたしたちはきょうも、信仰の旅路を歩んでいます。
    人の語る言葉として受け止めるならば、
    それはとても不確かな旅路といえるでしょう。
    でも、神がわたしたちに語り続けてくださるから、
    わたしたちが受け止めるその言葉には命があり、
    わたしたちを生かし、励まし、希望をもたらします。
    闇の中に、「光あれ」と語りかけることから、
    この世界を造り、わたしたちを造ってくださった神が、
    きょうも確かな言葉を語り続けてくださっています。
    ですから、安心して、
    神が語りかけてくださるいのちの言葉を握りしめて、
    これからも信仰の旅路を共に歩んで行きましょう。

週報より

  • 2024.05.12 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後、ティータイムのあとに月例教会役員会をおこないます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いいたします。

    ② きょうの礼拝から『交読詩編』の使用を始めます。
    「しへんこうどく(詩編交読)」のときに使用する交読詩編は、
    緑の歌集と一緒に、座席ポケットに入れておきます。
    礼拝が終わったら、座席のポケットにお戻しください。

    ③ 5月は神学校月間です。
    ナザレン神学校のためにお祈りと献金をお願いします。
    献金袋は受付テーブルの上に置いてあります。

    ④ モレノチームからのお知らせ
    きょうは月報『モレノ』の原稿、写真、表紙の絵、挿絵の締め切り日です。
    原稿は、モレノチームの方や基嗣牧師への手渡し、
    またはメール(moreno.oyama@gmail.com)で受け付けています。
    いつでも、何でもご寄稿ください。

    ⑤ あすは関東地区の牧師会がZOOMで開催されます。基嗣牧師が出席予定です。

    ⑥ 来週は礼拝後に、ビューティー・チームの集まりを持つ予定です。
    5月26日のクリーンアップ・デイの相談をします。どなたでもご参加ください。
    また、12時30分頃から、オンライン献金と教会ホームページについて、
    メディア・チームで話し合いをする予定です。

    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・ナザレン教会を通じてボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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