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朗読箇所

聖霊降臨祭

旧約 エゼキエル書 37:1−14

◆枯れた骨の復活
1 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。
2 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
4 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。
6 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
7 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。
8 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。
9 主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
10 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
11 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。
12 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。
13 わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
14 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。


新約 使徒言行録 2:1−13

◆聖霊が降る
1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

説教

聖霊はわたしたちに呼応する

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    あるとき、預言者エゼキエルは
    神に見せられた幻の中で、
    おびただしいほど多くの骨が転がる、
    おぞましい光景を見つめました。
    この幻はこの預言者に過去の辛い経験を、
    彼が今でも胸が引き裂かれそうになる経験を
    思い起こさせたのは間違いありません。
    エゼキエルが思い出したのは、
    世界史でバビロン捕囚として知られる出来事です。
    この歴史的な事件が起こったとき、
    エゼキエルはエルサレムにいました。
    当時の世界の支配者であった、
    バビロニア帝国によって、
    エルサレムの都は包囲され、
    攻め取られました。
    同胞たちは殺され、エゼキエルをはじめ、
    国の中枢を担う人びとは、
    バビロンへと強制的に連れて行かれました。
    現代で起こる数々の戦争と同様に、
    エルサレムに攻め込んできた人びとは、
    誰も殺された人びとを葬ろうとはしません。
    戦いの最中に仲間たちを葬る時間だってありません。
    強制的にバビロンへと連れて行かれた
    エゼキエルにとって、仲間たちや愛する家族の死を悲しみ、
    葬る時間など当然あるはずありませんでした。
    彼は、仲間たちの遺体が横たわるそばを歩いて、
    捕囚の地バビロンへと向かっていきました。
    だからこそ、神が見せたこの幻は、
    預言者エゼキエルに過去の辛い経験を
    思い起こさせるに十分なものでした。

    きょう読んだエゼキエル書の物語は、
    そのような幻を神によって見せられたという、
    預言者エゼキエルによる報告の記事です。
    エゼキエルが最初に目を向けるようにと促すのは、
    彼の目の前に広がっていた骨の多さと、
    その骨が徹底的に枯れていたことです。
    そう、そこにいのちの息吹は感じられませんでした。
    神はこの絶望の象徴ともいえる、
    辺り一面に広がる枯れ果てた骨について、
    「イスラエルの家のすべて」と伝えました。
    もちろん、バビロニア帝国によって
    国が滅ぼされても、
    生き残った人びとは当然いました。
    バビロンやその周辺に移り住んだ人びともいれば、
    エジプトへ逃れていった人びとも、
    また、エルサレムに残った人びともいました。
    たしかに国は滅びてしまいました。
    けれども、実際に生き延びた人たちはいました。
    生き延びた人びとは、自分たちが置かれたその現状を
    嘆き悲しみ、将来に希望を持てずにいました。
    「我々の骨は枯れ、
    我々の望みはうせ、
    我々は滅びる」という、
    人びとの嘆きの言葉が引用されています。
    彼らは自分たちが頼りにしていたものを
    徹底的に奪われてしまったから、
    希望を失い、悲しみ、嘆き続けました。
    神から与えられたと信じていた大切な土地を
    彼らは暴力的に奪われました。
    神によって与えられた、王さまも奪われました。
    そして、神を礼拝する場所である
    神殿までも壊されてしまいました。
    仲間たちの命を奪われただけでなく、
    自分たちにとって大切な一部をことごとく奪われ、
    破壊され、踏みにじられてしまいました。
    ですから、幻の中で、
    エゼキエルの目の前に広がっていたあの枯れた骨は、
    まさに自分たちの今の現実を象徴するものだと、
    エゼキエルには思えたことでしょう。

    枯れた骨を見つめて悲しみ、嘆き、
    そして将来に対して完全に諦めの声を上げるしかない、
    預言者エゼキエルに、神は問いかけます。
    「この骨は生き返ることができるか」(3節)。
    エゼキエルにとって答えは明らかです。
    そんなの無理な話です。
    けれども、エゼキエルは
    「はい」とも「いいえ」とも言いません。
    ただ、神のみがその答えを知っていると伝えます。
    たしかに、それは信仰者の取ることが可能な、
    ひとつの態度を示しているように思えます。
    わたしたちにとってわからないことは数多くあります。
    わたしたちがコントロールできないことは数多くあります。
    ただ、神が望むならば、
    神が望んで行動してくださるならば、
    わたしたちが不可能だと思えても、可能となる。
    神に信頼することを通して、
    わたしたちはそのような答えを持つことがあります。
    神に答えたエゼキエルの言葉は、
    まさにそのようなものでした。

    幻の中で、神はエゼキエルに、
    骨が生き返る光景を見せました。
    神が望むならばそれが起こる。
    わたしたちが、そのように信じることを
    ただ促そうとするならば、
    ここから神の独壇場で、
    エゼキエルはただ神が行うことを
    見つめるだけで良いでしょう。
    でも、エゼキエルはこの幻において、
    神の行動をただ見ていただけではありませんでした。
    神はエゼキエルにひとつの命令を与えます。
    それは、「これらの骨に向かって
    預言しなさい」(4節)というものでした。
    神は、エゼキエルがただ見ているだけの
    傍観者となることを望みませんでした。
    神がこれから行うことに、
    エゼキエル自身にも加わって欲しいと願ったようです。
    一見、エゼキエルなしでも、
    この骨が復活するという幻は
    成立したように見えます。
    けれども、エゼキエルが関わることは、
    神にとって決して欠けてはならないことであるように見えます。
    というのも、「骨に向かって預言せよ」と
    神から命じられたエゼキエルが、
    実際に枯れた骨に向かって語りかけることから、
    骨がいのちを取り戻し始めるのですから。
    それはまるで、エゼキエルが積極的に関わらなかったならば、
    枯れた骨はそこに転がったままであるかのようです。
    エゼキエルが枯れた骨を見て、完全に諦めて、
    神の命令をあざ笑い、
    何もしないでいたならば、
    いのちが息吹くことはありませんでした。
    それはまるで、神がこの世界に手を伸ばすためには、
    わたしたちの働きが必要であることを
    伝えているかのようです。
    わたしたちが諦めてしまうほどに
    完全に枯れてしまって、
    いのちをまったく感じられない場所に、
    神は命の息吹を吹きかけようとしています。
    でも、驚いたことに、
    それは決して神ひとりの働きなのではなく、
    わたしたちも関わることが出来ることであり、
    何よりも神はわたしたちが関わることを喜んでくださる。
    エゼキエルに対する神の関わりは、
    わたしたちにそのような呼びかけを与えています。
    神が、いのちの息を吹きかけようとしている場所に、
    一緒に出て行かないかと、神はエゼキエルの幻を通して、
    わたしたちに呼びかけ、招いているかのようです。

    そのような神の呼びかけを受けたエゼキエルは、
    神に命じられたとおりに、
    枯れた骨に向かって預言をしました。
    預言者エゼキエルが預言したとき、
    地響きが起こり、骨と骨がくっつき、
    筋や出来上がり、肉や皮膚が骨を覆いました。
    けれど、その身体は命を吹き返しませんでした。
    「その中に霊がなかった」(8節)からだと、
    その理由について説明されています。
    旧約聖書の最初の書物である「創世記」の中で、
    人間が造られたとき、
    神が人に命の息を吹きかけ、
    神が人に霊を与えたという描写があります(創2:7)。
    この説明はまるで、人間に命の息を吹きかける、
    創世記のあの記述を
    思い起こさせようとしているかのようです。
    その意味で、この幻にとって、
    人の命において重要なのは、
    神から命の息が吹きかけられることなのでしょう。
    そのため、エゼキエルは
    もう一度預言をする必要がありました。
    彼は、神の霊に向かって語りかけました。
    そのとき、神の霊によって四方から風が吹き、
    エゼキエルの目の前に横たわっていたたくさんの身体に、
    命の息が吹き込まれ、彼らは生き返りました。
    エゼキエルの言葉に、神の霊が応え、
    いのちの風が吹き入れられることによって、
    枯れた骨に再び命が与えられました。

    この幻が描く出来事は、とても象徴的に、
    わたしたちと神との関係を伝えています。
    神がいのちの息を吹きかけ、
    霊を与えてくださっているのは、
    エゼキエルの幻の中で
    いのちを失っていた人びとだけではありません。
    神はすべての人に命の息を吹きかけています。
    そして、神の聖なる霊を与えてくださっています。
    聖霊によって、わたしたちは神の息吹を感じ、
    神によっていのちを与えられ、神と共に歩みます。
    エゼキエルが神の命令に従って語りかけたとき、
    神の霊は彼の言葉や行動に呼応しました。
    あらゆる方向から風が吹き、
    命を感じられなかった枯れた骨が溢れていたあの場所に、
    溢れるほどの命を与えました。
    死で溢れる場所が、いのちに溢れる場所に変えられました。
    「聖霊」とわたしたちが呼ぶ、神の霊が
    わたしたちの歩みにいつも伴ってくださるのならば、
    預言者エゼキエルを通して起こったことは、
    わたしたちにも起こるはずです。
    それは、わたしたちが枯れた骨を
    生き返らせることができる
    という意味ではありません。
    枯れた骨が生き返るという幻は、
    いのちを感じられず、
    わたしたちが諦めてしまうような場所に、
    神がわたしたちを通して
    働きかけてくださることの象徴です。
    それは、神がわたしたちに与えてくださった、
    聖霊によって引き起こされます。
    わたしたちの語る言葉や行動に
    応えるように、呼応するように、
    聖霊は命の息吹を引き起こしてくださることを
    エゼキエルの幻はわたしたちに伝えています。

    きょう、わたしたちは
    聖霊降臨祭、ペンテコステの礼拝を通して、
    神がわたしたちひとりひとりに、そして教会に、
    わたしたちを助け、慰めてくださる方として、
    聖霊を与えてくださったことをお祝いしています。
    神が聖なる霊を与えてくださったことを
    喜んで受け止める日ですが、
    どうやらわたしたちに与えられている聖霊は、
    わたしたちが聖霊を喜んで受け止めるだけでは、
    どうやら満足しないようです。
    預言者エゼキエルを通して語られた言葉は、
    わたしたちがいつも、どんなときでも、
    受動的でいて良いとは言いません。
    死の力が広がり、わたしたちが諦めてしまうときにこそ、
    神は聖霊によってわたしたちの歩みに伴い、
    命の息をこの世界に吹きかけてくださることを
    信じ、受け止め、言葉を紡ぎ、
    行動を起こすことがわたしたちには出来ると、
    この預言者が見た幻はわたしたちに語りかけています。

    本当は、受動的である方が遥かに楽です。
    でも、それは時として、
    この世界に広がる暴力や不正義に対して、
    押し黙ることにもなってしまいます。
    きょうも変わらずに、暴力や虐殺が繰り返され、
    人の尊厳が傷つけられ、
    命が奪われている現実に、
    わたしたちは諦めそうになります。
    民主主義がうまく機能しない、
    この国の政治に言葉を失ってしまいそうになります。
    わたしたちはうまく言葉を紡げないかもしれません。
    影響力のある行動を起こすことなど、簡単には出来ません。
    けれど、いのちが傷つけられているとき、
    暴力がはびこるとき、
    不正義が横行するとき、
    誰かが小さな言葉を紡ぎ、
    小さな行動を起こさなければ、
    聖霊が呼応し、神の霊がいのちの息吹を
    この世界に吹き込むことはありません。
    誰かが涙を流すとき、
    誰かが助けを求めるとき、
    もしもその場を通り過ぎていくだけならば、
    聖霊がいのちの息吹を
    その人の世界に吹き込むことはありません。
    けれども、わたしたちが行動を起こすならば、
    言葉を紡ぐならば、
    聖霊はわたしたちに応え、
    いのちの息を吹きかけてくださる。
    預言者エゼキエルの見た幻は、
    そのような自由で、大胆な神の霊の働きを
    わたしたちに証言し続けています。
    ですから、ペンテコステのきょう、わたしたちは願います。
    神が手を伸ばしたい場所に、
    わたしたちを連れて行ってください。
    神が聖霊によって命の息吹を届けたいところで、
    どうかわたしたちを用いてください、と。

週報より

  • 2024.05.19 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。
    イエス・キリストが天に昇られた後、主イエスによって約束された通り、
    聖霊が弟子たちに与えられました。
    聖霊はわたしたちとキリストをつなぐきずなです。
    きょうは、助け主であり、慰め主である聖霊が
    わたしたちに与えられていることを喜び祝う日です。

    ② 先週の礼拝から『交読詩編』の使用を始めました。
    「しへんこうどく(詩編交読)」のときに使用する交読詩編は、
    緑の歌集と一緒に、座席ポケットに入れておきます。
    礼拝が終わったら、座席のポケットにお戻しください。

    ③ 来週は礼拝後にランチの会とクリーンアップデイを予定しています。
    ランチの会は、セルフサービスのサンドイッチの予定です。
    ランチの後に、教会の清掃や片付けをします。
    みなさまのご協力よろしくお願いいたします。

    ④ きょうは礼拝後に、来週のクリーンアップ・デイの相談をします。
    今回、重点的に掃除や整理をしたい場所などを事前に相談します。
    ビューティーチームのみなさま、ご協力いただける方は、
    ティータイムの後に横の部屋にお集まりください。
    また、12時30分頃から、オンライン献金と教会ホームページについて、
    メディア・チームで話し合いをする予定です。どなたでもご参加ください。

    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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