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朗読箇所

三位一体の主日

旧約 イザヤ書 6:1−8

◆イザヤの召命
1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は
王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」


新約 ローマの信徒への手紙 8:14−17


14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

説教

三位一体って何?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    キリスト教会は1700年以上もの間、このように信じています。
    「わたしたちの信じる神は、三位一体の神である」と。
    ただ正直、三位一体の神といわれても、
    何だかよくわからない印象を覚えます。
    一人の神を信じているにも関わらず、
    神は父であり、子であり、聖霊であるなんて、
    ますます神が理解し難い存在のように思えてきます。
    そういった意味で、
    神は、わたしたち人間の理解を
    超えた方であることを思い知らされます。
    神は人間の手のひらの上で、
    人間の思い通りに動く存在ではない。
    人間が、神のことを
    すべて理解し切ることはできない。
    そのような謙虚さを常に教えてくれるのが、
    三位一体の神という言葉とも言えるかもしれません。

    でも、果たして、それだけなのでしょうか?
    一体、わたしたちにとって、
    父、子、聖霊がひとりの神であるということとは、
    どのような意味を持つのでしょうか。
    この世界を造られた神だけでなく、
    救い主であるイエスさまも、
    わたしたちと共におられる聖霊も
    すべて大切な存在だから、それらすべてを神と呼び、
    でも、昔の人たちが唯一神教という立場を守るために、
    三位一体という言葉を作り出しただけなのでしょうか。
    「父も、子も、聖霊も神だけど、
    神は三人ではなく、ひとりの神だから、
    キリスト教は多神教じゃないよ」というように。
    もしも三位一体という言葉が
    単にそのようなものであるならば、
    それ以上のことを語ることが出来ないならば、
    それはただの知的な遊びの枠から出ないでしょう。

    それにも関わらず、
    教会は神が三位一体の神であるということに、
    大きな意味を見出してきました。
    だからこそ、教会は年に一度、
    聖霊降臨祭(ペンテコステ)の次の週に
    「三位一体の主日」を祝い、
    そしてこれから半年もの間、
    三位一体節と呼ばれる期間を過ごします。
    なぜ、それほどまでに教会は
    この考えにこだわるのでしょうか。

    そんな疑問を抱くわたしたちに向けて、
    神は聖書を通して、
    ご自分がどのような存在であるかを
    様々な方法を通して、示しておられます。
    きょう開かれた聖書の言葉を通して、
    わたしが今日みなさんに分かち合いたいことは、
    「神は、理解しきれない孤高の存在であるにも関わらず、
    決して孤独を好まず、交わりを求める方である」ということです。
    父と子と聖霊である神は、
    神ご自身の間ですでに交わりを持っています。
    そこに、父と子と聖霊の間に既に、
    愛にあふれた関係性があります。
    そのような愛にあふれた交わりの中へと、
    神はわたしたちを招いています。
    交わりを喜び、交わりを求め続ける神は、
    わたしたちとも共に生きたい。
    わたしたちとも語り合いたいと、
    強く願っておられます。

    きょうは新約聖書から、
    ローマの信徒への手紙を開きました。
    わたしたちが招かれている神との交わりについて、
    使徒パウロは3つのことを書いています。
    まず、わたしたちは聖霊を通して、
    神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけることができると、
    パウロは書いています。
    聖霊は、わたしたちと神とをつなぐ絆です。
    つまり、父と子と聖霊の間で既にある豊かな交わりは、
    神の間だけで終わるものではありません。
    神は、この交わりの中へと
    わたしたち人間を招きたいと強く願いました。
    だからこそ、神はわたしたちに聖霊を与え、
    わたしたちと共に交わり、
    わたしたちと共に生きることを選んでくださいました。
    わたしたちがどのような時を過ごしていても、
    どのような場所にいても、
    わたしたちは神に向かって
    「わたしたちの父よ」と叫ぶことができます。
    苦しみの中にあるときも、
    悲しみの中にあるときも、
    超えられない壁にぶち当たるときも、です。
    神の助けや励まし、慰めや導きを求めて、
    わたしたちは神に祈ることができます。
    わたしたちが抱える今の苦しみや悲しみは、
    わたしたちが一人で抱える必要はないものです。
    神が一緒にそれらを背負ってくださいます。
    神がわたしたちの声を聞き、
    一緒に悩み、一緒に乗り越えようとしてくださいます。
    そのような交わりを求める神に、
    わたしたちは「アッバ、父よ」と祈ることが出来ると、
    パウロはわたしたちに伝えています。

    そして、2つ目の点は、わたしたちが神に向かって
    「父よ」と祈ることが出来ることと関係があります。
    「アッバ、父よ」と神に呼びかける
    聖霊を与えられているわたしたちは、
    神の子どもとされています。
    それは、わたしたちが
    神に絶対に服従しなければいけないというような、
    主従関係や奴隷と主人の関係とは違います。
    神にとって、子であるわたしたちは
    無条件に愛される存在です。
    そして、子であるわたしたちにとって、
    神は、絶対的に信頼できる方です。
    そのような関係性を
    わたしたちは神との間に築くことが出来ます。
    それは、神がわたしたちに聖霊を与え、
    神がこのような関係へと
    わたしたち一人ひとりを招いておられるからです。

    わたしたちが神の子どもであることは、
    わたしたちが神に愛されている存在であることを
    単に証言するものではありません。
    それ以上のものだと、パウロは17節に記しています。
    パウロはこう言います。

    子どもであれば、相続人でもあります。
    神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。
    キリストと共に苦しむなら、共に栄光をも受けるからです。
    (ローマ 8:17)

    わたしは今回、この礼拝の準備をしていて、
    パウロがわたしたちと神との関係性について、
    3つ目のこととして語っていることに、
    改めて驚きを覚えました。
    というのも、わたしたちは、自分と神との関係について、
    しばしばこのように考えています。
    神が、わたしたちの苦しみや悩みを背負ってくださる。
    神が、わたしたちに良いものを与えてくださる、と。
    もちろん、パウロもそのように理解していたとは思います。
    でも、パウロはここで、
    わたしたちは「キリストと共同の相続人である」と言うとき、
    わたしたちが、キリストの苦しみを共に苦しむ
    という意味で書いています。
    これには驚きです。
    神がご自分の悲しみや苦しみを
    わたしたちに分かち合ってくださるというのですから。
    ですから、三位一体の神との交わりへと招かれるということは、
    わたしたちに神が良いものを分かち合ってくださったり、
    わたしたちの悩みや苦しみを
    神が聞いてくださること、以上のものです。
    神がわたしたちの苦しみを共に苦しむだけでなく、
    わたしたちも神が抱く苦しみを、神と共に苦しむ。
    神がわたしたちとの間に、
    そのような関係を築いてくださるというのですから、
    本当に驚きです。

    このことは、なぜ神が旧約聖書の時代に、
    預言者をイスラエルの人びとのもとへと
    遣わしたのかを説明します。
    神は、預言者たちを通して、
    希望の言葉を語るよりも、
    裁きの言葉を何度も語りました。
    一体なぜなのでしょうか。
    それは、神ご自身が苦しんでいたからです。
    人びとが神を見捨てて生きる姿を
    神は何度見てきたことでしょうか。
    人びとが互いに愛し合えず、
    経済的な搾取や政治的な腐敗が起こり続ける現実を見て、
    神は苦しみ、悲しんでおられました。
    だから、神が愛してやまない人間たちが、
    傷つけ合うそんな姿を見て、
    神はイスラエルの民を憐れみました。
    だから、神は預言者たちを遣わして、
    人びとが神のもとへと立ち返って欲しいという願いを込めて、
    預言者たちを通して、厳しい言葉を語りかけました。

    そうです、預言者たちは神の悲しみを知り、
    神の思いを人びとに告げました。
    このような預言者の姿を見つめるとき、
    神と交わりを持つということは、
    決して内面的な経験ではないと気付かされます。
    神との交わりを持つということは、
    祈りや礼拝の中でのみ完結することではありません。
    神の悲しみを知ったとき、
    わたしたちに何が出来るのかと考え、
    行動へと移すこともまた、神との交わりです。
    神は預言者イザヤに問いかけました。

    「誰を遣わそうか。
    誰が私たちのために行ってくれるだろうか。」(イザヤ 6:8)

    神は決して、イザヤに強要はしませんでした。
    けれども、神はイザヤに
    ご自分が抱えるその苦しみや悲しみを
    一緒に担ってほしいと願いました。
    このような神の思いに寄り添って、
    イザヤはイスラエルの人びとのもとへと出て行きました。
    「ここに私がおります。
    私を遣わしてください」と、神に応えて。

    現代に生きるわたしたちは、
    預言者のように、直接神の声を聞くことはありません。
    でも、聖書が開かれるとき、
    神の声を聞き、神の思いを知ることができます。
    ですから、わたしたちにとって、
    聖書を真剣に読み、
    聖書の言葉に耳を傾けようとすることは、
    常に危険が伴うことです。
    神がわたしたちに語りかける言葉を通して、
    わたしたちが神の思いに
    気づいてしまうことがあるからです。
    長年抱いてきた思い込みを過ちと認めて、
    方向転換をする必要があるかもしれないからです。

    預言者イザヤもこのとき、危険を冒しました。
    「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
    万軍の主」と歌う、セラフィムのあの歌声を聞いたとき、
    イザヤは神を恐れ、自分は滅びるべきだと思いました。
    自分もまた、神を悲しませている民のひとりだと、
    イザヤは気づいてしまったのです。
    このときにイザヤが発した
    「わたしは滅ぼされるべきだ」という言葉は、
    「わたしは黙るべきだ」という意味を持っています。
    イザヤが耳にしたセラフィムの歌声は、神をたたえるものでした。
    ですから、本来、イザヤも歌うようにと招かれている歌です。
    でもこの時、イザヤは黙りました。
    セラフィムの歌を
    一緒に歌うことを拒否しようとしました。
    自分の唇が汚れていると気付いたイザヤにとって、
    この招きはとても危険なものだったからです。
    自分の言葉は神をたたえるのにふさわしくない、
    神のために語ることなど、自分にはふさわしくない、と。
    でも、神は彼の唇を清めて、
    彼を歌へと、新しい歩みへと招きました。
    イザヤが危険な一歩を踏み出すことを神は喜ばれました。

    このように、神の招きに応えるということは、
    理想の自分に向かって研鑽することでは決してありません。
    また、それは孤独な作業でも決してありません。
    神との交わりの中で、わたしたちは変えられていくからです。
    いや、神との交わりを通して、神の苦しみを知り、
    わたしたちの側が変えられてしまうため、危険が伴います。
    ですから、イザヤにとって、
    たしかに神の招きは危険なものでした。
    人びとに神の裁きは避けられない
    と語る必要があったからです。
    当然、預言者のメッセージは、
    人びとの反感を買うことは避けられなかったでしょう。
    でも、最終的に彼が見つめたものは希望です。
    きょうは開きませんでしたが、
    イザヤ書11章に、その希望が記されています。

    狼は小羊と共に宿り
    豹は子山羊と共に伏す。
    子牛と若獅子は共に草を食み
    小さな子どもがそれを導く。
    (イザヤ 11:6)

    子羊が命の危険を感じることなく、狼と同じ場所にいる。
    想像してみると、何と不思議な情景でしょうか。
    通常ならば、狼は子羊を食べ、
    子羊は狼から逃げ出すはずです。
    でも、イザヤが希望として待ち望む未来は、
    そのようなことが起こらない未来です。
    狼と羊は、決して一緒に生きることはできない。
    越えられない壁のある関係です。
    でも、神がイザヤに与えた希望の未来は、
    そのような越えられない壁を越えていく交わりを
    わたしたち人間が目指すことができるというものでした。
    わたしたちは、あまりにも多くのものに
    線引きをしてしまっています。
    既に存在する違いを、次々とカテゴリー分けしていきます。
    性別、種族、言語、国境、越えられない壁をいくつも作リ出し、
    敵や味方の構図を自分の都合に合わせて生み出しています。
    残念ながら、それらが神の創造の豊かさや多様性を
    喜ぶきっかけとなることはほとんどありません。
    むしろ、線引きやカテゴリー分けの結果、
    お互いの違いを認めない。喜べない。
    わたしたちはそのような世界で生きています。
    でも、イザヤが提示するのは、
    そのような壁がますます頑丈になる未来ではありません。
    わたしたちがお互いの違いを乗り越えて、
    その違いを持ちながら出会い、
    違いを喜び、一緒に暮らすことができる交わりを、
    そのような平和な未来を、イザヤは望み見ています。

    三位一体の神の交わりの中に、
    既にこのような理想が示されていると、
    キリスト教会はこれまで信じてきました。
    父と子と聖霊。
    それぞれの働きは違います。
    けれど、豊かな愛に溢れるひとつの交わりを、
    関係性を父と子と聖霊なる神は、持っています。
    だから、わたしたちは、神が三位一体であることを喜びます。
    三位一体の神との交わりの中へと、
    わたしたちも積極的に加わりたいと望み続けています。
    ですから、「三位一体って何?」という問いに、
    わたしたちはこのように答えることができるでしょう。
    「それは、わたしたちが
    お互いの違いを乗り越えて出会えるという希望を
    神がわたしたちに教えてくれる、という言葉だよ。
    そう、そこには平和への希望が込められているんだよ」と。
    きょう、みなさんは、神との平和の交わりに招かれています。

週報より

  • 2024.05.19 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に、ランチの会とクリーンアップデイを予定しています。
    ランチの会のメニューは、セルフサービスのサンドイッチです。
    費用は無料ですので、掃除に参加できない方も、どうぞお楽しみください。
    ランチ会への自由献金は、受付テーブルの上の献金箱で受け付けています。
    ランチの会を終えた後、教会の清掃をおこないます。
    ご協力よろしくお願いいたします。
    今回清掃・整理が必要な箇所をリストアップして壁に貼っておきました。
    清掃や整理を終えたら印をつけてください。

    ② 来週の礼拝後、ティータイムのあとに月例役員会をおこないます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いいたします。
    おもな議題は、7〜8月の行事予定についてです。
    役員会で話し合ってほしいことがある方は、
    牧師または役員までお知らせください。

    ③ 火曜日に、公開講座と懇談会が教団本部で予定しています。
    今週、ナザレン教会のアジア太平洋地域の会議が日本で開催されます。
    会議期間中に、公開講座と懇談会が開かれることになりました。
    基嗣牧師が通訳のため出席予定です。祈りに覚えていただけたら嬉しいです。

    ④ 月報 『モレノ』 6月号が完成しました。ご協力ありがとうございました。

    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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