説教者 稲葉基嗣牧師
聖書に登場する人びとに、
「預言者」という肩書きが付いているのを見ると、
とても熱心な信仰者である印象を受けます。
神の声を真剣に受け止めて、神と語り合い、
神の思いを人びとに伝えようとする。
そのような人びとの姿を
預言者という言葉から想像します。
けれども、ヨナ書に登場する、このヨナという預言者は、
模範的な行動を取っているとは思えません。
寧ろ彼は神に語りかけられたとき、
神の思いに抵抗し、背を向けて、逃げ続けた人でした。
その意味で、彼は模範的な信仰者とは言えません。
けれども、わたしたちにとっては、とても人間臭く、
親近感を持てるような人物のように見えます。
この物語のはじめに、
そんなヨナが神から命じられた言葉には、
3つの動詞が使われています(2節参照)。
「立ちなさい」。「行きなさい」。
そして、「呼びかけなさい」です。
このような神からの語りかけに対して、
ヨナはどのような行動を取ったでしょうか?
「立ちなさい」と言われたヨナは、立ち上がりました。
でも、そこからは正反対の行動を
彼は取り始めます。
ヨナは逃げ出します。
神が示した、ニネベの都のある方角とは
正反対の方向に向かって、西へ向かって、
ヨナは逃げ出しました。
その際、ひとつの動詞が印象的に繰り返されています。
「下る」という動詞です。
ヨナは港町ヤッファへ下っていきます。
そして、船に乗り込みます。
この時、ヨナ書が書かれたヘブライ語では、
船の中に下るという表現で記されています。
そして、ヨナを追いかけるように、
神が嵐を起こすと、ヨナは船底へと下っていき、
横になり、眠りにつきます。
神の思い、神の願いから逃げ続け、
ヨナは下へ下へと下り続けました。
嵐によって船がその進行を拒まれているとき、
神のもとから逃げ出す自分を
神が止めようとしているとヨナは悟ったのでしょう。
物理的にはもう逃げ切れないと感じつつも、
それでも、彼は更に下へ下へと逃げ続けます。
そして、しまいには現実逃避でもするかのように、
彼は船底で横になり、眠りにつきました。
それは、とても深い眠りであったことが、
ここで使用されている単語から知ることができます。
外は船が沈みそうになるほどの嵐です。
船は大きく揺れ、雨風の音が激しく響きます。
船が沈まないように、人びとは
自分たちが信じる神々に向かって祈り始めました。
彼らは船が沈まないように、
積荷を海に捨てて、船を軽くします。
そのようにして、誰もが自分にできる
精一杯の行動をしていました。
ヨナはこの危機に対して、一体何をしたのでしょうか。
彼はおそらく原因が自分にあることに気づいています。
でも、何もしません。
命の危機を感じても、
同じ船に乗る他の人たちが危険にさらされても、
彼は神から逃げることをやめません。
ヨナは神と向き合うことを拒絶し続け、
眠り続けることを選びます。
そんな彼の眠りは、嵐や人びとの騒がしさによって
妨げられることはありませんでした。
けれども、彼の深い眠りは、
この船の船長がヨナのもとを訪れることによって、
妨げられることになります。
誰もが自分の信じる神々に祈り、
荷物を海に投げ入れて、
何とかして助かろうと試みている中、
誰かがヨナがいないことに気づいたのでしょう。
船長は、船に乗る人びとを代表して、ヨナを探しに来ました。
眠っているヨナを見つけた船長は、ヨナに近づいて、
「なぜ寝ているのか」と声を掛けます。
ヨナの行動が信じられなかったのでしょう。
こんなにも激しい嵐の中なのに、
雨風の大きな音を聞き、
波で船が激しく揺れる中で、
なぜそんなにも熟睡できるのか。
命の危険を感じるこの状況の中で、
他の人たちが自分たちの信じる
神々に向かって祈っているのに、
なぜあなたは自分の信じる神に
祈ることさえせずにいるのか。
このような状況で、あなたはなぜ寝ていられるのか。
眠っているとは、一体どういうことなのですか。
そういった意味合いを込めて、
船長はヨナに向かって語りかけています。
そして、船長が続けてヨナに語った言葉は、
とても印象的なものでした。
ヘブライ語のニュアンスがわかる形で、
日本語の訳文を少し変更してみると、こうなります。
「さあ立ちなさい。
あなたの神に呼びかけなさい。
もしかしたら、その神は
我々のことを顧みるかもしれません。
そうすれば、我々は
滅びないかもしれない。」(6節)
船長がヨナに語りかけた言葉は、
神がヨナに語りかけた時に用いた
ふたつの動詞から始まっています。
「立ちなさい」「呼びかけなさい」。
それはまるで、ヨナが拒絶した神のあの言葉が、
ヨナのもとにやって来た船長を通して、
再び語りかけられているかのようです。
本人が意図しない形で、
船長の言葉は神がヨナに語りかけた言葉と重なり合いました。
立ち上がって、あなたが拒絶していた神に呼びかけ、
まずは神と向き合いなさい。
ヨナが船に乗った経緯やヨナの素性など、
何も知らないこの船長の存在を通して、
ヨナにそのような語りかけがなされました。
その上、ヨナのもとに来たこの船長は、
明らかに、ヨナと同じ神を信じている人ではありません。
もしもヨナと同じように、
イスラエルの神ヤハウェを信じているならば、
「わたしたちの神に呼びかけなさい」と言ったことでしょう。
ですから、この船長は、
ヨナと同じ神を信じる信仰を
持っているわけではありません。
けれども、この船長こそが、
ヨナにとって本当に必要なことを
教える存在となりました。
「立ちなさい」「呼びかけなさい」と、
神ともう一度出会うようにとヨナに呼びかけたのは、
ヨナの同胞たちではありませんでした。
ヨナにとっては、外国人であり、他の神々を信じるこの人が、
イスラエルの神ヤハウェに呼びかけるようにと、
ヨナに声を掛けたのです。
これは、何とも皮肉な状況です。
というのも、ヨナが拒絶した神の言葉は、
ニネベという他の国の人びとに、
神の言葉を伝えるようにと促すものだったからです。
イスラエルの神を信じる人たちではなく、
他の国の神々を信じる人びとのもとへ、
それも極悪非道として知られる
ニネベの人びとのもとへ行き、
イスラエルの神の言葉を伝えることを
ヨナは望まず、神の呼びかけを拒絶しました。
そんなイスラエル以外の人びとに
神の愛や憐れみを伝えることを拒絶したヨナに、
イスラエル人ではない船長が、
あなたの神に、イスラエルの神に呼びかけなさいと、
ヨナを説得してきたのです。
この船長本人に、そのような意図は
もちろんなかったでしょう。
けれども、神はこの船長を通して、
ヨナに語りかけることを選びました。
ヨナにとってはとても皮肉なことですが、
ヨナにとって外国人であるこの船長を通して、
神はヨナに語りかけ、
ヨナを預言者としての使命に
呼び戻そうとされました。
ヨナに対する、神のこのような働きかけを見つめる時、
神がわたしたちに語りかけてくる方法は、
何も聖書に記されている言葉や
毎週の礼拝に制限されているわけではない
ということに気付かされます。
神は実に、さまざまな方法でわたしたちに語りかけ、
わたしたちと出会ってくださる方です。
それは、家族や友人、教会のメンバーとの
何気ない会話の中で起こる出会いかもしれません。
ヨナに対する船長のように、
同じ信仰を持たない人との関わりの中に、
神からの語りかけがあることもあるでしょう。
長いキリスト教の歴史の中で、
家の外で遊ぶ子どもたちが
「取りて読め。取りて読め」と言っている声に促され、
聖書を手にとって開いたところ、
神と出会い、信仰を持つ決心をした
というような経験を持つ神学者もいました。
このように、この世界で起こるさまざまな出来事や、
この世界で共に生きる、
神に造られたすべての生き物、
そして、この世界のあらゆるものを用いて、
神はわたしたちに語りかけ、
わたしたちと出会うことの出来る方です。
それは、神がわたしたち人間に注ぐ恵みの、
驚くべきひとつの形です。
神を信じていなかったとしても、
神と出会っていなかったとしても、
神を拒絶していたとしても、
それでも、神はさまざまな方法を用いて、
わたしたちに語りかけ、
わたしたちと出会おうとしてくださっているのですから。
わたしたちが自覚するその前から、
わたしたちの歩みを支えるように、
神は恵みを注ぎ続け、
さまざまなものを通して語り続けてくださっています。
神がそのような形でわたしたちと出会い、
わたしたちに語りかけてくださる方であるならば、
神はわたしたちを通して、
この世界の人びとに語りかけ、
わたしたちの周囲にいる人びとと
出会おうとしているとも言えるでしょう。
イスラエルの神を知らない船長を通して、
神がヨナに語りかけ、
ヨナと出会おうとしたならば、なおさらです。
神と出会い、神を知るわたしたちを通して、
わたしたちと一緒に生きる人たちが、
そして、この世界が神と出会うことが
出来ないはずはありません。
寧ろ、神がわたしたちに注ぎ続けてくださっている恵みに、
自覚的であるわたしたちは尚更、
神の恵みをこの世界により自覚的に、
より目に見える形で分かち合うことができるはずです。
何よりもわたしたちが携えるべき神の恵みは、
イエス・キリストを通して、すべての人に
注がれている神の恵みでしょう。
イエスさまを通して神はこの世界に、
罪の赦しを宣言されています。
それは、何をしても罪が赦されるから、
どんなことをしても良いというお墨付きを
神がわたしたちに与えているわけではありません。
イエスさまを通して与えられた罪の赦しは、
お互いを理解し合えず、傷つけ合うこととばかり選んでしまい、
傷つき損なわれた関係性ばかりを持っているわたしたちの世界に、
和解と平和への希望を与えるものです。
神に赦されているという事実に基づいて、
お互いに受け入れ合い、平和を求めて生きようという希望を
イエスさまはわたしたちに与えてくださっています。
わたしたちに与えられている恵みとは、そのようなものです。
神が傷ついたこの世界に働きかけて、
和解と平和をもたらしてくださる。
そのような希望をわたしたちは神の恵みを通して受け取り、
神の恵みを携えて、この場所から
出かけていくようにと招かれています。
神はたしかに、様々なものを通して、この世界に語りかけ、
すべての人びとと出会おうとしています。
でも、すでに神に恵みを受け止めたわたしたちを通して、
更に、その恵みをより具体的な形で、よりわかりやすい形で、
わたしたちの周囲に広げていきたいと願っておられます。
そのようにして、わたしたち自身も、
わたしたちの周りで生きる誰かのために、
神によって用いられる者とされていくのです。
どうか、神の恵みがみなさんと共にありますように。