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朗読箇所

三位一体後第4主日

旧約 ヨナ書 1:1−16

◆ヨナの逃亡
1 主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
2 「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」
3 しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
4 主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。
5 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。
6 船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」
7 さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。
8 人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。
9 ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」
10 人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。
11 彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」海は荒れる一方だった。
12 ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」
13 乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。
14 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」
15 彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。
16 人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。


新約 ペトロの手紙 一 2:1−10

◆生きた石、聖なる国民
1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、
「家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった」のであり、
8 また、
「つまずきの石、
妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
10 あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」のです。

説教

嵐の中で明かされた神の思い

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    現代に生きるわたしたちにとって、
    海はさまざまなものを象徴します。
    海にはたくさんの生き物が暮らし、
    わたしたちは塩や魚、貝や海藻など、
    たくさんの食物や資源をそこから得ています。
    直接、海水を飲料水にすることはできませんが、
    自然のプロセスの中で、海の水は蒸発し、雨となり、
    川や地下水となって、飲める水として届きます。
    このように、海は、
    わたしたちの生活を支えるいのちの源であり、
    いのちの象徴です。
    また、海のあるその風景は、美しさを象徴します。
    絵画や写真などの作品を通して、
    わたしたちはその美しさに心奪われます。
    漫画や映画、アニメや小説などの作品では、
    海は新しい冒険が始まる舞台です。
    自由や挑戦といった前向きなイメージを
    わたしたちは海から抱きます。
    けれども、それと同時に、
    海に危険があるのをわたしたちはよく知っています。
    毎年のように、海で水の事故は起こりますし、
    大きな地震が起こると津波の心配をします。
    ですから、海はいのちの象徴であると同時に、
    死や危険の象徴でもあります。

    このように、わたしたちに豊かなイメージを与える海ですが、
    古代の人びとにとってはどうだったでしょうか。
    きっとわたしたちと同じように、
    海の存在を通して、いのちの豊かさを実感し、
    その風景から美しさを感じたことでしょう。
    けれども、古代の人びとは恐らくわたしたち以上に、
    海に対して死や危険を実感していたと思います。
    天気が荒れ、嵐が起こる時、
    海の上を浮かぶ船に乗る人びとは、
    常に命の危険を感じていました。
    ですから、古代の人びとにとって海は、
    命を象徴すると同時に、
    混沌や無秩序を象徴する場所でした。
    海が荒れて、猛威を振るう時、
    自分たちの力では決して抵抗することができない力が、
    そこには広がっていると彼らは理解していました。

    さきほど読んだヨナ書において、
    海の混沌の力はまさに猛威を振るい、
    船に乗る人びとの命を危険に晒しました。
    誰もが自分にできる限りのことをして、
    この嵐を乗り切ろうとします。
    彼らは自分たちの信じる神々に向かって祈り、
    積み荷を海に投げ捨てます。
    船に乗る自分たちが助かるために、
    彼らは協力して自分たちにできる
    精一杯のことに取り組みます。
    それでも、一向に状況が良くならないため、
    彼らはくじを引いて、この嵐の原因を探ることにしました。
    このような命の危険が伴う嵐にあうのは、
    誰かが神の怒りを引き起こしている
    可能性があるからだと考えたからです。
    このような考え方は、
    古代の人びとにとってとても自然なことでした。
    彼らがこの時に行ったくじは、
    くじの結果が直接、嵐の原因をもたらした人を
    特定するものではありませんでした。
    犯人を特定するためというよりは、
    彼らが自分の素性を明かす順番を
    決めるためのくじだったのでしょう。

    一番最初にくじが当たったのはヨナでした。
    もちろん、ヨナ書の読者であるわたしたちは、
    ヨナこそがこの嵐の原因であることを知っています。
    神の命令を拒否して、神の前から逃げ出してこの船に乗った、
    ヨナという人物を神が何とかして呼び戻そうとしているから、
    この嵐が起こっていることをわたしたちは知っています。
    けれども、この物語に登場する人びとは、
    ヨナの素性や彼がこの船に乗っている
    その事情を当然知りませんでした。
    ですから、彼らはヨナについて知ろうと、
    矢継ぎ早に彼に質問をしました。
    「あなたの仕事は何ですか。
    出身はどこで、
    どの民族の人なのですか」という具合に。

    彼らのこのような質問に対して、
    ヨナは、自分はヘブライ人だと答えています。
    ヘブライ人という言い方は、
    イスラエル人とそれ以外の人びとを
    明確に区別する際に使われる表現です。
    その意味で、ヨナが船に乗るほかの人たちと
    イスラエル人である自分とを
    明確に区別していることがよくわかります。
    ヨナ書で描かれているヨナという人物は、
    イスラエルの民が神に選ばれた民であると
    過剰に強調する民族主義者です。
    外国人であるあなたたちと自分は違うという、
    彼の考え方がこの発言から透けて見えます。
    そのように考えるヨナだからこそ、
    彼は誇りを持って自分たちが信じる、
    イスラエルの神ヤハウェを紹介します。
    「わたしは海と陸とを造られた
    天の神、主を畏れる者です」(9節)と。
    ヨナは聞かれてもいない質問に答えているように見えます。
    けれど、出自を問うことは、
    自分の民族がどの神を信じているのかを
    答えることでもありました。
    ですから、ヨナは自分が
    ヘブライ人であることを明かすと同時に、
    海と陸を造った、ヤハウェという名の神を信じていると、
    彼らの質問に対して答えたのでした。

    ヨナの信じる神が海と陸を造った神であるということは、
    この船に乗っている人たちにとって、
    まさに嵐の原因のように思えました。
    ヨナと神の間に何かがあったから、
    この嵐が起こっているのではないかと、
    人びとは考えるようになります。
    ヨナから話を詳しく聞いてみると、
    案の定、彼がこの嵐の原因のようです。
    ヨナが神から逃げてきたから、
    海と陸を造ったヨナの神が
    ヨナを連れ戻そうとして、
    嵐を起こしたことに違いないと、
    人びとは確信するようになりました。

    自分の信じる神のことならば、
    この状況で何をすれば良いのかわかったことでしょう。
    でも、彼らはこの嵐を引き起こしている、
    ヨナが信じる神を知らないため、
    どうすれば良いのかわかりません。
    ですから、この嵐から助かる方法を知るために、
    彼らはヨナにこの荒れ狂う海を鎮める方法を聞きました。
    ヨナの回答は、何とも人任せです。
    自分を担いで、海に投げ込めば、
    荒れ狂う海は静まり、嵐は止むと、
    ヨナは彼らに伝えます(11節)。
    果たして、本当にそれは、
    ヨナが知る最善の解決策だったのでしょうか?
    本当にそれは、
    ヨナがすべき唯一のことだったのでしょうか?
    ヨナひとりが命を投げ出せば、助かるだなんて。
    神は本当にそのようなことを願っていたのでしょうか?

    そんなはずないでしょう。
    自分のもとから逃げ続けるヨナが、
    神の方をまた再び向いて、
    神がヨナに託したい使命を
    ヨナが受け取ることを
    神は望んでいたのですから。
    ヨナが命を投げ出すことは、
    神の望みではありません。
    寧ろ、それはヨナ自身の望みなのかもしれません。
    神は、ヨナにニネベへ行けと言いました。
    古代世界においてその残虐さが知れ渡っていた、
    アッシリアという帝国の都ニネベへ行って、
    神のメッセージを伝えるなど、
    根っからの民族主義者であるヨナには、
    到底受け入れられるものではありませんでした。
    神がヨナに伝えたことは、現代においては、
    ガザやラファに住む人びとに、
    イスラエルへ行って、
    神の愛を伝えるようにと言うことです。
    ウクライナの人たちが、ロシアに行って、
    神の赦しを伝えるようにと言うことです。
    恐ろしさと憎しみと赦せない思い。
    色々な感情が沸き起こってくるような言葉です。
    だから、ヨナは逃げ続けました。
    神の言葉も、神の思いも拒絶し続けました。
    そして、最後には死を願いました。
    ニネベへ行くことは、
    死ぬことよりも嫌だったからです。

    そんなヨナに対して、
    嵐に巻き込まれたこの船の上で
    神が示すのは、ヨナにとって外国人であった
    他の人びとの敬虔な姿でした。
    ヨナは、自分のことを
    ヤハウェを畏れる者と口では言いました。
    でも、彼は神から逃げ続け、
    船底でぐっすりと眠り続けていました。
    自分の神に祈るように促されても、祈りません。
    自分に原因があることが明るみになっても、
    神と向き合おうともしません。
    もう自分の身を海に投げ捨てれば、
    神は諦めるだろうと思い、
    自分の命を捨てる提案をするほどです。
    ヨナのその行動は決して、
    神を畏れる者ではありませんでした。

    そんな彼のために、
    船に乗った人びとは、何をしたでしょうか。
    彼らは、ヨナの命を救うために、
    ギリギリまで努力をします。
    彼らは、自分たちの生命が助かるためには、
    ヨナだけが犠牲になれば良いとは考えませんでした。
    また、自分の命を犠牲にすれば良いとヨナから聞いても、
    彼らはすぐさまヨナの提案を実行しませんでした。
    全員の命が助かる道を模索して、
    彼らは荒れ狂う海をかき分けるように、
    陸に向かって船を進めようとしました。
    けれども、嵐が止むことはありませんでした。

    もう自分たちが助かる道は
    他には残されていないと気づいたとき、
    彼らはヨナが信じる神に祈ります。
    「ああ、主よ」と訳されていますが、
    彼らは神の名であるヤハウェと呼びかけて、
    神に向かって祈っています。
    はじめに彼らが嵐の中で祈ったとき、
    彼らは自分たちが信じる神々に祈っていました。
    けれども、この時、彼らはヨナが信じる神に呼びかけました。
    このように、外国人たちがヤハウェの名を呼んで祈る姿は、
    ヨナが見たくない光景であったようにも思います。
    それは、自分たちイスラエルの民だけでなく、
    すべての人に対して
    神が救いの道を開いていることを
    証言するような光景でした。
    それは、ヨナが目を背き続けている現実でもありました。

    このようにしてヨナ書を読んでみると、
    少なくともヨナ書の最初の章で、
    主人公ヨナは決して模範的な人物としては描かれていない、
    ということに気付かされます。
    寧ろ、イスラエル人ではない人びとこそが、
    ヨナへの皮肉たっぷりに、
    模範的な信仰者として描かれてます。
    イスラエル人であるヨナは、
    口ではヤハウェを畏れていると言います。
    でも、行動で神への敬虔さを示すことはありません。
    神よりも、自分が大切にしたい、
    自分が神によって選ばれた民であるという民族的な誇りや、
    決してアッシリアの人びとを赦せないという憎しみ、
    もしくは外国人への偏見や差別意識といったものが、
    この時の彼の心を占めていました。
    この時、本当にイスラエルの神を畏れていたのは、
    イスラエルの神を知らなかった
    同じ船に乗っていた外国人たちです。
    彼らこそがイスラエルの神ヤハウェを心から畏れ、
    神を礼拝するようになっていきます。
    このような光景をヨナに見せることを通して、
    神は誰が神に愛されているのかをヨナに示しました。
    ヨナだけでなく、イスラエルの民だけでもなく、
    ヨナが憎み、嫌うアッシリアの人びとも含めた、
    世界中のすべての人びとこそが、
    神の愛が注がれている対象です。
    彼らにもまた、神を信じて生きる道が、
    同じ神の民として生きる道が開かれている。
    ヨナに、そのことに気づいてほしいから、
    神はヨナに関わり続けました。
    神は決してヨナを諦めず、彼を追いかけ続けました。
    ヨナが何度失敗しても、何度過ちを犯しても、
    神はヨナがニネベの方へ
    顔を向けるようになるのを諦めませんでした。

    ヨナに対する神のこのような姿から明らかなように、
    神は徹底的にわたしたちと向き合いたいと願っています。
    ただ神と向き合ったその結果、
    単に、わたしたちが神を信じ、信頼するようになることが
    神の願いではありません。
    わたしたちが罪の赦しを実感するようになることが
    神の願いでもありません。
    また、わたしたちが復活の望みと
    天の国で生きる希望を得ることだけが、
    神の願いでもありません。
    ヨナに対する神の関わりから明らかなのは、
    神がヨナ個人にだけでなく、
    この世界に対して抱いている
    願いや希望があるということです。
    そのような神の思いに、
    わたしたちが耳を傾け、
    神の思いを受け止めて生きることこそ、
    神がわたしたちに願っておられることです。
    ヨナにとってそれは、
    彼が神の救いからほど遠いた考えていた人びとに、
    神のメッセージを伝えに行くことでした。

    わたしたちはどうでしょうか?
    争い合い、憎しみ合うのではなく、
    手を取り合って相手を信頼して築き上げる平和を
    神は願っています。
    不正ではなく、公正さが
    この社会で積み重ねられていくことを神は願っています。
    誰かを切り捨てて利益を得ることでしか
    生きられない窮屈な社会ではなく、
    すべての人の存在が喜ばれる社会が築かれていくことを
    憐れみに満ちておられる神は願っています。
    わたしたちは神のそのような願いを知っています。
    正直、ひとりで取り組むにはとてもじゃないけれど、
    難しいことばかりです。
    けれども、神はきょうもわたしたちと真剣に、
    徹底的に向き合って、
    わたしたちに語りかけ、
    この世界に平和と正義、
    憐れみと愛、
    罪の赦しと和解、
    神と共にあることの希望がわたしたちを通して
    広がっていくことを願っておられます。
    どうかみなさんが神の願いに気づくとき、
    一歩足を踏み出していくことができますように。

週報より

  • 2024.06.23 週報より抜粋・要約

  • ① 月報『モレノ』7月号が完成しました。
    ご協力くださったみなさま、ありがとうございます。
    きょうは礼拝後に、来月発行予定の8月号についての編集会を行います。
    モレノチームのみなさま、よろしくお願いいたします。

    ② 30日(日)の礼拝後に、メディアチームで集まります。
    オンライン献金の検討とホームページについての話し合いをする予定です。
    メディアチームのみなさま、よろしくお願いいたします。
    内容に興味がある方、今回のみの参加の方も大歓迎です。

    ③ 夏季献金のお願い
    牧師の夏の手当とピアノの調律のための献金です。
    受付テーブルに置いてある献金袋をご利用ください。

    ④ ご協力の感謝
    7月6日(土)から15日(月)に教会に宿泊予定の学生の方々のために、
    寝具貸し出しのお願いをさせていただきましたが、6名分の準備が整いました。
    申し出てくださったみなさま、ありがとうございました。
    8月24(土)−25日(日)に、開催予定のこどもキャンプの準備についても、
    近々お願いすることがあると思います。
    その際は、どうぞご協力よろしくお願いいたします。
    また、イベントチームとして準備に加わってくださる方も募集中です。
    ご協力いただける方は、牧師または教会役員までお知らせください。

    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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