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朗読箇所

三位一体後第5主日

旧約 ヨナ書 2:1−11

◆ヨナの救助
1 さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。
2 ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、
3 言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと
主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると
わたしの声を聞いてくださった。
4 あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み
波また波がわたしの上を越えて行く。
5 わたしは思った
あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
6 大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
7 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み
地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ
あなたは命を
滅びの穴から引き上げてくださった。
8 息絶えようとするとき
わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き
聖なる神殿に達した。
9 偽りの神々に従う者たちが
忠節を捨て去ろうとも
10 わたしは感謝の声をあげ
いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。
11 主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。


新約 コリントの信徒への手紙 二 3:12−18


12 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、
13 モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。
14 しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。
15 このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。
16 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
17 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

説教

わたしたちと向き合い、語り合うことを喜ぶ神

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    こどもの頃、ヨナ書といえば、
    大きな魚が出てきて
    ヨナを飲み込む物語だと思っていました。
    実際、海に投げ込まれたヨナが
    大きな魚に飲み込まれるシーンは印象的です。
    また何よりも、子ども向けにわかりやすく
    聖書の物語を伝える絵本では、
    大きな魚がヨナを飲み込む場面が
    表紙に描かれていることがほとんどですので、
    その影響もあったのでしょう。

    けれども、この大きな魚は
    ヨナ書の中で常に中心的な役割を
    担っているわけではありません。
    魚が登場するのは、さきほど読んだ、
    ヨナ書2章のはじめと終わりのみです。
    まるで、2章で描かれていることを
    表紙と裏表紙で包み込むように、
    魚の姿が1−2節と11節に登場します。

    魚の存在に包みこまれているのは、
    ヨナが神に向かって祈った祈りです。
    わたしはヨナ書を読むたびに、
    ヨナのこの祈りに疑問を抱きます。
    ヨナが急に、神に向き直っているのは
    なぜなのでしょうか。
    海に投げ込まれ、溺れそうになり、
    死を直視したとき、
    恐れのあまり神に祈ったのでしょうか。
    それは1章で描かれているヨナの姿とは、
    矛盾しているようにも感じます。

    というのも、ヨナは1章では、
    死を願っているように見えるからです。
    ヨナは神からひとつの使命を与えられました。
    それは、残酷な人びととして知れ渡っていた、
    アッシリア人のもとに行きなさい、という命令です。
    神が彼らに伝えたいことがあるから、
    ヨナはアッシリアの都であるニネベへ行くようにと、
    神から命じられました。
    でも、ヨナだってアッシリア人が怖いです。
    いや、それ以上に憎いのです。
    ヨナはアッシリア人と出会いたくありません。
    だから、ヨナはひたすらに
    神のもとから逃げ出しました。
    神が嵐を起こし、生命を脅かしても、
    彼は逃げ続けることをやめません。
    ヨナにとっては、ニネベへ行くよりも、
    この嵐で生命を落とした方が幾分かマシでした。
    ヨナの逃亡劇は最終的に、
    彼が海に投げ込まれ、
    嵐が静まることによって終わります。

    死を願っていたヨナが
    実際に海に投げ込まれ、
    死が間近に迫ってきたとき、
    彼は生きることを願ったのでしょうか。
    たしかに、それは有り得そうです。
    けれどもヨナの祈りから明らかなのは、
    自分の生命の危機を感じた以上に、
    神との間に隔たりを感じたことでしょう。
    海に投げ込まれたヨナは、
    海の底へ、底へと、
    深く、深く、沈み込みました。
    ヨナは、このときの自分がいた場所を
    単に「海の中」とは表現しませんでした。
    彼は祈りの中で、
    「陰府の底」「地の底」「滅びの穴」にいて、
    「地の扉に長く閉じ込められた」と言います。
    古代の人びとは、地下に陰府という、
    死者の国があると考えていました。
    旧約聖書を読むと、陰府について、
    ある人は神との交わりを断たれる場所と
    考えていたことがわかります。
    ヨナは逃げて逃げて逃げ続けました。
    でも、彼は神を信じる人でした。
    だから、神との交わりが
    失われていくことを恐れました。
    死の間際になり、陰府の世界に自分が移されると悟ったとき、
    彼はようやく神と向き合い、祈りました。

    ヨナが神と向き合うまでに
    かなりの時間がかかったと感じさせられます。
    けれども、驚くべきことに、神はヨナの声を聞きます。
    ヨナの祈りを受け止めます。
    ヨナが神と向き合うことに
    たくさんの時間が必要だったことに対して、
    神は決して遅いとは言いません。
    神はヨナのことをいつも待っていました。
    神はヨナのことをいつでも受け入れる準備が出来ていました。
    そして何よりも、彼がどこにいても、
    海に居ても、地の底にいても、
    死者の世界である陰府にいたとしても、
    どんな場所にいても、神はヨナの祈りに耳を傾けました。
    神の憐れみの中で、ヨナの祈りは神に届きました。

    そんなヨナの祈りですが、
    不自然に感じるのはわたしだけでしょうか?
    聖書学者たちは、ヨナのこの祈りを
    神に救い出されたことに対する、
    感謝の祈りであると分類しています。
    確かに、溺れて生命を落とす寸前であったヨナは、
    神が用意した大きな魚によって、
    その生命を救われました。
    ですから、神に感謝を伝えるのは当然のように見えます。
    けれども、ヨナ書のこれまでの物語において、
    ヨナは徹底的に神の言葉を拒絶し、
    神のもとから逃げてきました。
    神と適切に向き合うことが出来ていなかったヨナは、
    本来、もっと祈るべき言葉があったとは思わないでしょうか。
    神に背を向けていた自分の過ちについて、
    ヨナは神にごめんなさいと言って、
    赦しを乞うべきだったのではないでしょうか。

    わたしたちは礼拝のはじめに、
    いつも罪の悔い改めの祈りを祈っています。
    誰もが、神に対しても、
    一緒に生きる人たちに対しても、
    そしてこの世界に対しても、
    罪を犯して生きているからです。
    わたしたちは決して完全な存在ではありません。
    誰もが欠けを持ち合わせています。
    誰もが過ちを犯してしまいます。
    誰もが予期せぬ形で、
    愛する人たちを傷つけてしまいます。
    だからこそ、わたしたちは神と真実に向き合い、
    神が願う、神と人とを愛する道を
    選び取って生きていくことを願って、
    わたしたちの罪を神に伝え、
    神の赦しを願い続けます。
    主イエスにあって、神はわたしたちを赦し、
    わたしたちを神の子どもとして
    受け止めてくださっていると、
    わたしたちは信じ、その事実を喜んで、
    きょうも神を礼拝しています。

    ヨナはどうだったでしょうか?
    ヨナは祈りの中で、悔い改めていません。
    罪を告白していません。
    ヨナに、神との関係に誤りがあったことは、
    ヨナ書を読むわたしたちの目には明白です。
    けれども、彼は決して自らの過ちを認めず、
    ただ神に感謝をするだけでした。
    ヨナは神に選ばれた預言者だから、
    罪の悔い改めの祈りなど
    必要がなかったわけではありません。
    ヨナは逃げ続けた自分の姿勢は
    決して誤りではなかったと、
    今でも考えているのかもしれません。

    その意味で、ヨナの祈りは不完全でした。
    でも、驚くべきことに、
    ヨナの祈りは神のもとに届いています。
    神は祈りを選り好みする方ではないからです。
    たとえわたしたちの心の状態が不完全であっても、
    喜ばれる動機を抱いてなかったとしても、
    言葉が稚拙であったとしても、
    神はわたしたちが神と向き合うことを喜ばれます。
    不完全なままでも、
    わたしたちが神と向き合うことを神は喜ばれます。

    なぜって?
    わたしたちが神に向かって祈れるのは、
    ただ一度きりではないからです。
    神はわたしたちと日曜日の1時間だけ、
    向き合いたいと願っているのではありません。
    朝の忙しい時間帯の3分間だけ、
    真剣に向き合いたいと願っているのではありません。
    神は、わたしたちの生涯を通して、
    わたしたちひとりひとりと向き合い、
    そして語り合いたいと願っています。
    だから神は、今このときは、
    不完全な祈りしかできないわたしたちを
    喜んで受け止めてくださいます。
    神が求めるのは完璧な祈りではないと思います。
    それよりも、ゆっくりと、ゆっくりと時間をかけて
    わたしたちが神と向き合い、語り合って、
    信仰の旅路を歩んでいくことこそ、
    神が願っておられることです。

    その意味で、ヨナの祈りは神に喜ばれました。
    彼の祈りが完全なものだったからではありません。
    時間はかかったけれども、
    ヨナが神と向き合い、
    ヨナと神との間の関係がまた再び始まったからです。
    もちろん、ヨナが抱えている問題は変わっていません。
    罪の告白や嘆きのない、
    頑固なままでいるヨナの態度に
    神が目を反らしているわけでもありません。
    神は決して急ぎません。
    ヨナと語り合いながら、
    ヨナが抱えている問題と向き合おうとされています。

    それは、ヨナだけでなく、
    わたしたちに対しても同じです。
    わたしたちにだって、色々な課題があります。
    いつも愛情深くいられるわけではありません。
    どんな人に対しても憐れみ深く、
    平和を願って生きているわけでもありません。
    この世界で溢れる、
    さまざまな価値観に染まって生きています。
    そんなわたしたちに、神はすぐさま変われとは言いません。
    すぐさま完全な信仰者として生きなさいとは言いません。
    神が望んでおられるのは、
    わたしたちが神と向き合って生きることです。
    わたしたちが神と向き合って生きる中で、
    神によってわたしたちの心が、行動が、言葉が、
    そして生き様が変えられていくことです。
    それは決して、わたしたちの個性が殺されることではありません。
    わたしたちひとりひとりの持つ、
    ユニークな性格が否定されることでもありません。
    神がわたしたちと向き合い、語り合ってくださる中で、
    わたしたちの中で愛や憐れみ、
    正義や平和の思いが培われていく。
    そういった変化です。
    神がわたしたちと語り合い、向き合ってくださる中で、
    わたしたちにそのような変化が起こってくるなんて、
    何だかわくわくしませんか?

週報より

  • 2024.06.30 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に、メディアチームで集まります。
    オンライン献金の検討とホームページについての話し合いをする予定です。
    メディアチームのみなさま、よろしくお願いいたします。
    内容に興味がある方、今回のみの参加の方も大歓迎です。

    ② 7月6日(土)より東京基督教大学(TCU)の学生さんが教会に滞在されます。
    10日間の滞在を通して、小山教会の働きをお手伝いしてくださる予定です。
    来週の日曜日は、礼拝後にランチの会を開催します。メニューはカレーです。

    ③ 夏季献金のお願い
    牧師の夏の手当とピアノの調律のための献金です。
    受付テーブルに置いてある献金袋をご利用ください。

    ④ あすは神学校教授会と地区牧師会がZOOMで開催されます。
    基嗣牧師が出席予定です。

    ⑤ こども一日キャンプのお知らせ
    7月13日(土)は、10時からこども一日キャンプを予定しています。
    TCU生のみなさんが、楽しいイベントを準備してくださっています。
    どうぞお楽しみに。たくさんの子どもたちの参加をまっています。
    親子での参加も、お手伝いをしてくださる大人も大歓迎です!
    準備にご協力いただける方は、牧師までお知らせください。

    ⑥ 礼拝後、メディアチームの集まりの前に臨時役員会をおこないます。
    教会役員のみなさま、よろしくお願いいたします。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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