説教者 稲葉基嗣牧師
怒りは、人間が抱く基本的な感情のひとつです。
個人差はあれど、年齢を問わず、
誰もが怒りを抱くでしょう。
自分の思い通りにならないとき、
自分のまわりの環境に怒りを抱きます。
自分の過去の失敗を思い出すとき、
自分自身に怒りを覚えることだって
あるかもしれません。
道を歩いているとき、
車にひかれそうになったならば、
恐怖のあまり怒りを覚えます。
ひどいことを言われたり、
嫌がらせを受けたりしたならば、
その相手に怒りを覚えます。
また、自分のことだけでなく、
大切な友人や家族が
傷つけられたことを知ったら、
その原因をつくった人たちに
怒りを覚えるでしょう。
このように、わたしたちは
実にさまざまな形で
怒りを覚えています。
わたしたちが心に抱くことが自然な、
そんな怒りについて、
わたしたちはどのように
考えているでしょうか。
できれば怒りは抱きたくない。
きっとそれが多くの人たちが
考えていることでしょう。
怒りに心が支配されると、
冷静さを失い、判断力が鈍ります。
周りが見えなくなり、
必要以上に目の前の相手を
傷つけてしまいます。
友人や家族との関係を
悪くしてしまうこともあるでしょう。
また、長い時間をかけて心に抱く怒りは、
わたしたちの心に
憎しみを育んでしまいます。
怒りをうまく処理できない自分に苛立ち、
ストレスを溜め込むことだってあるかもしれません。
このように、怒りによって、
あまり喜ばしくない結果が
自分や周囲にもたらされることは
簡単に想像できます。
だからわたしたちにとって、
怒りというものは厄介な存在です。
きょう読んだヤコブの手紙の著者が、
「怒るに遅くあるべきです」(ヤコブ1:19)
と書いているのも納得です。
でもその一方で、怒りはわたしたちにとって、
どうしても必要な感情です。
大切なものを傷つけられて怒りを覚えるからこそ、
わたしたちは自分や周りの人たちにとって、
何が大切なのかを知ることができます。
何よりも、現代社会にとって、
怒りは社会を動かすための火種となることがあります。
5年前、#KuToo(ハッシュタグ・クートゥ)が
ソーシャル・メディアで話題になりました。
職場でハイヒールを履くことを義務付けられる、
女性たちの怒りや叫び、それに対する共感が、
大きな社会運動を生み出しました。
このインターネット上での運動を通して、
同じ職場なのに、性別によって許される服装が
違うことへの違和感や、
実際に健康が損なわれているのに、
ハイヒールを履くことがマナーである
というような価値観の方が
優先されることへ反対する抗議の声が
日本社会で共有されました。
怒りが良い火種となったケースですね。
ただ、いつも怒りがこのように、
良い火種となり、良い結果を
この社会やわたしたちの周囲に
招くわけではないことを
わたしたちは知っています。
特定のグループへの偏見を煽り、
怒りによって分断や差別や争いが
広がる例だってあります。
いや、もしかしたら、
そのような悪い火種となることの方が
多いのかもしれません。
きょうは、旧約聖書から「ヨナ書」を読みました。
この物語の中で神に向かって
感情を露わにしているヨナの怒りに、
わたしたちはどのように向き合えば良いのでしょうか。
ヨナが怒りを抱いたその理由は、
神がニネベの人びとの悪を
見過ごしたからです。
ニネベを都とするアッシリア帝国の人たちが
悪の象徴であるということは、
古代世界において
多くの人たちに記憶されていました。
彼らは圧倒的な暴力と残酷さで
たくさんの国を抑圧していました。
そんな彼らがヨナの言葉を聞いたとき、
ニネベの都に住む人びとは悪の道を離れ、
神に向かって祈り続けました。
そして、そんな彼らの姿を見て、
神は、彼らに災いを下すことを思い直しました。
ヨナにとっては、それが気に入りませんでした。
ヨナが望んだ神の姿は、
過ちを犯したニネベの人たちが
悪の道を離れて、赦しを願ったときに、
彼らを受け入れる神ではありませんでした。
あくまでも、神が悪に対して
裁きを与える方であることを、
徹底的に、正義の神であることを
ヨナは神に対して願いました。
ニネベの人たちは赦されるべきではない、
神の裁きが下るべきだと
ヨナは思い続けていました。
でも、神は、ヨナの願い通りに
行動する神ではありませんでした。
いや、ヨナはそもそもわかっていました。
神がすべての人に恵みを与え、
すべての人を憐れんでおられる方だと。
イスラエルの人びとだけでなく、
悪の道を歩むアッシリアの人びとだって、
神の恵みと憐れみを受ける存在だということは、
ヨナもわかってはいました。
でも、ヨナには、その事実が
受け入れられませんでした。
だから、ヨナの心に、
次第に怒りが湧き起こり、
その怒りは大きく燃え上がりました。
そんなヨナに神は
どのように関わったのでしょうか。
ヨナを無視したのでしょうか。
いいからこの事実を受け入れなさいと、
ヨナを強く諭したのでしょうか。
いいえ。
そうではなく、神は
ヨナと語り合うことを選びました。
ヨナと語り合い、
ヨナに問いかけることを
神は選びました。
「あなたは怒っているが、
それは正しいことか」(4:4)と、
神はヨナに問いかけ、
ヨナが抱いているその怒りを
一度自分で見つめ直すようにと、促しました。
興味深いことに、
神は怒りそのものを否定はしていません。
自分が思う何か大切なことが傷つけられ、
危険を感じ、揺るがされているから、
ヨナは怒りを覚えているのです。
その怒りの結果、
ヨナにとって何が揺るがされてしまったのでしょうか。
ヨナの何が危険に晒されているのでしょうか。
わたしたちの目から見れば、
ヨナの怒りが正しいものではないことは、明らかです。
どれほど多くの罪を積み重ねていたとしても、
わたしたちは神が主キリストにあって、
赦しを与えてくださっていると信じています。
どれほど神から遠く離れた歩みをしていたとしても、
すべての人が、神に愛されている存在であると、
わたしたちは信じています。
ですから、ニネベの人たちの滅びを願い続けて、
怒りを抱いたヨナのその怒りが、
わたしたちの目から見て、
誤りであることは、
正しいものではないことは、明らかです。
でも、その一方で、
ヨナの怒りは、ヨナ書を読んだ、
古代イスラエルの人びとにとって、
深い共感を覚えるようなものだったと思います。
古代イスラエルの人たちもまた、
アッシリアに恐怖を抱き、
彼らを悪と考えていたからです。
神に裁かれて、滅びるのが当然と
彼らは考えていました。
でも、神は自分たちイスラエルだけでなく、
あのアッシリアの人びとにも憐れみを注いでしまう。
それは、信じがたく、
そして受け入れ難いことでした。
アッシリアを裁くのではなく、
アッシリアを赦し、愛し、憐れみを注ぐ神の姿など、
考えたくもありません。
でも、実際、神はアッシリアの都
ニネベに憐れみを注ぎました。
ヨナと同じように、心が騒ぎ、
「神よ、それはあってはならないことです!」と叫び、
怒りを覚えた人がどれほどいたことでしょうか。
だからこそ、神はヨナに問いかけました。
いや、ヨナを通して、読者に問いかけました。
「あなたは怒っているが、
それは正しいことか」(4:4)。
神の行いが不平等だから怒っているのですか。
それとも、あなたの理想通りに、
神が行動しないから怒っているのでしょうか。
あなたの願い通りになっていないからでしょう?
アッシリアに滅んでほしいのに、
そうならないからでしょう?
本当に、その怒りは正しい怒りなのですか?
神のヨナに対するこの問いかけは、
怒りを覚えるたびに、
わたしたちが立ち止まる
必要性があることを教えているかのようです。
その怒りは、本当に正しい怒りなのですか?
ただ、怒りについてひとつ疑問を抱くのは、
わたしだけではないと思います。
そもそも、正しい怒りなどあり得るのでしょうか。
いや、たしかにあるのでしょう。
人を突き動かす良い火種になる怒りが現実にはありますし、
この世界の不正義や不平等、争いや諍いに対して、
正義や平等、平和や和解を求めるからこそ、
怒りを抱くことだってあります。
でも、それと同時に、
わたしたちは怒りの用い方を誤り、
人を過剰に傷つけてしまいます。
怒りの表現の仕方を誤り、
過剰な報復をしてしまいます。
だからこそ、わたしたちが心に抱くこの怒りが
どうしたら本当に正しいものであり続けるのか、
わたしたちは常に問いかけ続けなければならないと思います。
神はわたしたちが怒りを抱くたびに、
わたしたちに問いかけています。
その怒りは正しいのか、と。
先月からわたしは、ヨナ書から連続説教をしていますが、
ヨナ書全体を通して、この預言者ヨナは、
模範的な信仰者というよりも、
反面教師のように描かれています。
ヨナ書を読めば読むほど、その確信は強まるばかりです。
ただ、きょう開いた物語にかんしては、
あるひとつの点において、
ヨナは模範的な信仰の姿勢を示しています。
それは、自分が抱いた怒りの矛先を
ニネベの人に向けるのではなく、
神に向けたことです。
ヨナは神に訴え、その怒りを伝えました。
怒りは、わたしたち人間の自然な感情ですが、
時に暴走し、歯止めが効かなくなります。
人に向ければ向けるほど、
その怒りがさらに膨れ上がり、
危険なものになることさえあります。
だからこそ、この怒りをまず神に向けるように、
わたしたちは促されています。
神がわたしたちに問いかけてくださるからです。
その怒りは正しいものなのか、と。
そして、神がその怒りを
わたしたちが望む以上に、
正しく取り扱ってくださるからです。
どうかみなさんが怒りを覚える時、
神がみなさんに語りかけてくださいますように。
その怒りは正しいものなのか、と。
そして必要ならば、みなさんの怒りを収め、
みなさんの心に冷静さを取り戻させてくださるように。
また、みなさんの抱く怒りが正しい怒りならば、
できる限り平和な道を歩んで、
この社会にその怒りを届けることができるように。
何よりも、神がわたしたちの抱く怒りを受け止め、
耳を傾けてくださることをどうか忘れずに、
日々の信仰の旅路を
みなさんが歩んで行くことができますように。