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朗読箇所

三位一体後第8主日

旧約 ヨナ書 4:1−11


1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」


新約 ローマの信徒への手紙 11:33−36


33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
34 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
35 だれがまず主に与えて、
その報いを受けるであろうか。」
36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

説教

神は問いかける

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    答えがわかっていることって、
    とても安心すると思います。
    それは、自分は間違えてはいない
    という保証になるからです。
    でも、わたしたちの日常は、
    わかりやすい答えばかりが
    並んでいるわけではありません。
    答えがわからないことの方がたくさんあります。
    どれも答えに見えるし、
    どれも誤りのようにも見えます。
    だからわたしたちは、日常的に、
    答えがわからず、右往左往します。
    そして、だからこそ、そんな日常の中に、
    わかりやすい答えが示されたら、
    ついつい飛びついてしまいたくもなるのです。

    キリスト教会は、いつも
    聖書に記されている言葉に耳を傾けます。
    聖書に記されている言葉が
    読まれ、語られるとき、
    神の聖なる霊がわたしたちの心に働きかけ、
    神が語りかけてくださると信じているからです。
    その意味で、聖書に記されている言葉に
    いつも耳を傾けようとしているわたしたちは、
    神がわたしたちに示す答えを求めて、
    神の言葉に耳を傾けています。

    でも、聖書を通して、
    答えはわかりやすく示されているのでしょうか。
    そんなことありませんね。
    どれだけ聖書を読み込んでも、
    きょうの夕飯はカレーにしましょう、
    などという言葉と出会うことはありません。
    聖書の言葉は、2024年7月に、
    日本の関東地区で生活をしているわたしたちにとって、
    とてもザラザラとした、わかりにくいものです。
    電気や水道が整い、誰もがスマホを持つ現代とは、
    かなり異なる文化の下で聖書は記されました。
    わたしたちは、日本語で
    聖書に記されている言葉を読むことができていますが、
    もともとはヘブライ語、ギリシア語、アラム語で記されています。
    文字として記されたのは、
    古いものでは今から2500年以上も前です。
    巻物に記される前は、たくさんの人びとによって、
    物語られ、語り継がれてきました。
    そんな書物を通して、神がわたしたちに向かって
    語りかけているというのですから、
    それは驚きです。
    いや、驚きでもあると同時に、
    神が自分の思いをわたしたち人間に伝える方法としては、
    とても遠回りなようにも感じますね。
    神の思いを知れるのであれば、
    本当は神によって直接語りかけてほしいですし、
    わかりやすい語りかけがあってほしいものです。
    けれども、神は誰にとってもわかりやすい答えを
    示すことは選びませんでした。
    それは、ヨナ書という書物を読むことを通しても、明らかです。

    一見、ヨナ書はわかりやすい書物です。
    物語の中盤で突然登場する大きな魚は衝撃的です。
    神から使命を与えられているのにもかかわらず、
    まったくやる気を見せないヨナの行動に対して、
    想像以上に好意的に、そして大胆に反応し、
    神に祈り始めるニネベの人びとを描くこの物語は、
    とても劇的な展開ともいえます。
    ですから、ヨナ書はたとえ文化が異なっていたとしても、
    読みやすい物語のように感じます。
    でも、ヨナ書の最後に記されている神の言葉は、
    一度立ち止まって考える必要性があることを
    すべての読者に伝えているかのようです。

    ヨナ書の終わりで
    一体何が起こっているのでしょうか。
    ヨナが神から説得される形で、
    この物語は幕を閉じます。
    古代世界において悪の象徴であり、
    ヨナ自身も大嫌いだったニネベの人たちが
    悪の道から離れた姿を神が見たとき、
    神はニネベに災いを下し、
    その都を滅ぼすことを思い直しました。
    そのことは、ヨナにとって不満でした。
    ヨナはふてくされて、ニネベの都の外へ出て行きました。
    そして、神がまた思い直して、ニネベを滅ぼさないか、
    ニネベの人たちがまた悪さをし始めて、
    神に災いを下されることにならないか、
    そんな期待を抱きながら、
    ニネベを都の外から眺めていました。
    このときヨナは小屋を建てましたが、
    強く照りつける日差しを避けることはできませんでした。
    だから、神からトウゴマを与えられたとき、
    そんな日差しを避けるための
    心地よい陰を手に入れたので、
    ヨナはとても喜びました。
    でも、そのトウゴマはすぐに枯れてしまい、
    ヨナはふたたび太陽に焼かれ、
    熱風にふきつけられ、弱り果てました。
    彼は「生きているより死んだほうがましだ」と、
    不満を口にし始めます。
    そんなヨナを見た神は、ヨナに語りかけました。
    「あなたは自分で労することも育てることもせず、
    ただ一夜にして生じ、
    一夜にして滅びたこのとうごまをさえ惜しんでいる。
    それならば、どうして私が、
    この大いなる都ニネベを
    惜しまずにいられるだろうか。
    そこには、右も左もわきまえない
    十二万以上の人間と、
    おびただしい数の家畜がいるのだから。」(4:10−11)
    ヨナが枯れてしまったトウゴマを惜しみ、悲しむ以上に、
    神はニネベの人びとを惜しみ、悲しんでいます。
    ニネベの人たちを神は愛し、
    憐れみを注ぎたいと願っています。
    ヨナにとってニネベの人たちは
    憎むべき相手でした。
    そうかもしれないけど、
    「神であるわたしが、
    彼らに対して抱く憐れみの思いを
    わかってくれないのか?」
    神がそのように問いかける形で、
    ヨナ書は幕を閉じています。

    けれども、神がヨナに最後に語りかけたこの言葉は、
    ヨナ書がもともと書かれたヘブライ語で読んでみると、
    実は謎が多く、ざらついて、
    一度立ち止まって考えなければいけない
    言葉であることに気付かされます。
    日本語訳の聖書で、神の言葉は、
    「それならば、どうして私が、
    この大いなる都ニネベを
    惜しまずにいられるだろうか」と、
    疑問文として訳されています。
    けれども、この文は、それとはまったく反対の意味で
    訳せる可能性を持っています。
    「私はこの大いなる都ニネベを惜しまない」という、
    単なる否定文としても読めます。
    もしもこのように読む方が正しいのだとしたら、
    最後の最後で、神が手のひらを返しているようにも見えます。
    ニネベの人たちが悪の道を離れたのを見て、
    神は災いを下すことを思い直したのに、
    最後の最後で、いや、やっぱりニネベのことを
    惜しまない、憐れまないと、
    神がヨナに語っていることになるからです。
    ニネベの人たちをはじめ、
    自分の敵を愛せないと感じる人たちは、
    喜んで自分に都合の良い
    読み方をしたくなったかもしれません。

    でも、実際のところ、
    この神の言葉を否定文として
    読むことは出来なかったと思います。
    というのも、古代世界における読書は、
    わたしたちが考える読書とは違っていたからです。
    わたしたちは、読書はプライベートなものと考えています。
    本は黙って読み、感想は個人個人が抱くものです。
    現代社会において、
    本を誰かが朗読し、たくさんの人がそれに耳を傾けるのは、
    学校の国語の授業や絵本の読み聞かせ会くらいです。
    でも、古代世界においては、
    わたしたちにとって当たり前な、
    印刷技術もなく、巻物も高価でした。
    そのため、読み物がとても貴重であったその時代、
    書物は誰かが代表して朗読し、
    たくさんの人がその言葉に耳を傾けました。
    ですから、ヨナ書が読まれるとき、
    否定文として響くヨナ書の終わりの言葉に、
    ヨナ書の物語に耳を傾けていた人たちは
    疑問を抱いたと思います。
    「物語の流れから考えれば、
    否定文で終わるのはおかしいんじゃないの?」
    「読み間違えた?」
    「いいや、そんなことない」。
    「じゃぁ、何で否定文で終わるんだろう?」
    といった具合に、ヨナ書の物語の最後に、
    その場にいるみんなで首をかしげることになります。
    そしてある瞬間、誰かが気づきます。
    「これって、否定文ではなく、
    疑問文として読むべきところなんじゃないの?」
    このように、正しい読み方をめぐる、
    そんなやり取りがなされることになるんじゃないかと、
    わたしは想像してしまいます。
    そんな対話を生み出し、じっくり考えさえ、
    適切な読み方を選ばせるように
    ヨナ書が記されているならば、
    否定文にも、疑問文とも読めるこの終わり方は、
    とても計算された終わり方のように感じます。
    ヨナ書の読者が「ニネベを惜しまない」
    「ニネベの人びとを憐れまない」という言葉と出会った時、
    一度立ち止まって考えさせ、首をかしげさえ、
    最後には読者たち自身の対話を通して、
    その読み方を否定させるのですから。
    神は自分がニネベの人たちに対して、
    憐れみの心を抱いていることをヨナに伝えたいから、
    「ニネベを惜しまない」と語ったのではなく、
    「ニネベを惜しまずにいられようか」と伝えたと、
    読者に確信させる形で、ヨナ書は終わるのです。

    ヨナ書の最後に記された神の言葉からもわかるように、
    神がわたしたちに語りかける言葉は、
    一筋縄ではいかないものばかりです。
    神はわかりやすい答えを示すことばかりを好みません。
    むしろ、聖書が証言し、わたしたちが信じる神は、
    わたしたちに問いかける方です。
    わたしたちが立ち止まり、首をかしげながら、
    神が与えた問いについて、
    神と対話を続けながら、
    考え続けることを神は望んでいます。
    なぜって?
    わたしたちと神の関係は、
    奴隷と主人のような関係でもなければ、
    神がわたしたちを
    ロボットのように扱っているわけでもないからです。
    生き生きとした、血の通った交わりを
    わたしたちとの間に望んでいるから、
    神はわかりきった答えをわたしたちに示しません。
    問いかけ、一緒に答えを探していこうと招いています。
    神はそれを面倒臭がりません。
    むしろ、喜んでわたしたちと対話を続け、
    わたしたちと一緒に歩み続けてくださいます。
    ヨナがどれほど逃げ出しても、どれほど嫌がっても、
    神は諦めませんでした。
    ヨナがどれほど不満を述べても、
    どれほどふてくされても、
    神はヨナに関わり続けました。
    ヨナの心に悪が膨れ上がっても、
    ニネベを見捨てなかったように、
    神はヨナを見捨てませんでした。
    ニネベを憐れんだように、
    神はヨナを憐れみました。
    ヨナが常に正しい答えにたどりつかなくても、
    神はヨナと歩み続けました。
    わたしたちと神との関係も同じです。
    わたしたちは、常に正しい答えを
    選び続ける必要はありません。
    むしろ、正しい答えばかりに気を取られるのではなく、
    わたしたちに問いかけてくださる
    神の言葉に耳を傾けてみましょう。
    ヨナ書の終わりに基づいて考えるならば、
    神はこんな風に問いかけているでしょう。
    誰が憐れみを受けるべきですか。
    わたしたちの周りで、憐れみを受けていないのは誰ですか。
    人間だけでなく、動物たちや植物やこの地球全体に、
    神の憐れみは十分に行き渡っているのでしょうか。

    わたしたちが神の言葉に耳を傾けるならば、
    神はきょうもわたしたちに問いかけるでしょう。
    それは、何が答えであるか、
    何が誤りであるかわからず、
    混乱するわたしたちを
    更に混乱させるかもしれません。
    でも、神はわたしたちを
    更なる混乱の渦に巻き込むために、
    問いかけているのではありません。
    神がわたしたちに問いかける続けるのは、
    どれも正しく見え、
    どれも誤って見え、
    正しい答えも、誤った答えも、
    場所や文化や時代が変われば移り変わってしまう、
    そんな世界の中でわたしたちが生きるからです。
    神はそんな果てしない問いの中に
    わたしたちを投げ込み、
    ただ見放しているのではありません。
    むしろ、わたしたちが、
    何が正しいのかわからない
    不確かな社会の中を歩んでいるからこそ、
    神はわたしたちに問いかけ、
    一緒に考え、語り合い、答えを探し続けようと、
    わたしたちを招いているかのようです。
    今この時、この場所で、
    一体どのようなことが人を愛する行動となるのか。
    一体どのような言葉を紡げば、
    わたしたちの間に平和を築ことができるのか。
    そんな風にいつもわたしたちに問いかけながら、
    わたしたちと向き合い、わたしたちと共に語り合い、
    わたしたちと歩んでくださる神がそばにいてくださいます。
    それは、決まり切ったひとつの答えだけを
    盲目的に信じる歩みとは違います。
    また、常にひとりで道を切り拓いて行き、
    自己責任ですべてが決まる歩みでも決してありません。
    最後までわたしたちの生涯に責任をもち、
    愛と憐れみの中を歩ませてくださる神は、
    わたしたちと共に歩んでくださいます。
    ですから、どうか神の問いかけに喜んで耳を傾けて、
    みなさんがこれからも信仰の旅路を
    神と語り合いながら
    歩み続けることができますように。
    祈りましょう。

    祈り
    わたしたちに問いかけながら、
    わたしたちの信仰の旅路を伴ってくださる神。
    あなたから問いかけを受ける時、
    心から向き合い、信仰の友たちと語り合いながら、
    答えを探り続けることができるよう、
    わたしたちの歩みを支えてください。
    主のみ名によって祈ります、アーメン。

週報より

  • 2024.07.21 週報より抜粋・要約

  • ① 東京基督教大学の学生のみなさんの10日間の滞在が無事に終わりました。
    6日(土)から15日(月)に東京基督教大学の学生のみなさんが教会に滞在し、
    教会の倉庫の整理や子ども集会の開催などをしてくださいました。
    今月発行予定の月報『モレノ』の写真ページを通して、
    学生のみなさんの滞在中の様子などを共有したいと思っています。
    どうぞお楽しみに。

    ② 来週の礼拝後に月報『モレノ』の編集会を行います。
    来月発行予定の『モレノ』9月号の編集と企画について相談する予定です。
    モレノチームのみなさまはよろしくお願いいたします。
    原稿や挿絵や表紙絵などをご寄稿いただける方はお知らせください。
    また、きょうの礼拝後に『モレノ』8月号の製本作業を予定しています。
    ご協力いただけるみなさまは、どうぞよろしくお願いいたします。

    ③ 夏季献金のお願い
    牧師の夏の手当とピアノの調律のための献金です。
    受付テーブルに置いてある献金袋をご利用ください。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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