説教者 稲葉基嗣牧師
多くの人にとって、週1回または週2回の休みは、
現代社会で受け入れられている生活スタイルです。
ただ休みを取るタイミングは決して同じではありません。
どんな仕事や活動を普段しているかによって、
その休みのタイミングはバラバラです。
わたしたちが生きる現代社会は、
みんなで「せーの」で声を合わせて、
誰もが土日に休みを取れるような
社会構造ではありません。
もしも現代の日本社会でそんなことしたならば、
社会が破綻することは目に見えています。
ですから、現代に生きるわたしたちの目から見ると、
聖書が紹介する「安息日」という制度は、
とても異質なものに見えてきます。
全員が一斉に仕事の手を止めて、丸一日休むという、
わたしたちの社会では到底不可能なことをするようにと、
安息日の規定は求めてくるからです。
わたしたちにとって異質な安息日という制度ですが、
イエスさまの時代に生きたユダヤ人たちにとっては、
当たり前の、守るべき制度でした。
彼らにとって、7日に一度のリズムで
仕事の手を止めて休むことは、
身体と心を休めることを目的とした
リフレッシュのための日ではありませんでした。
むしろ、彼らが安息日を守るその動機付けは、
神が、この日に立ち止まるように命じたからでした。
そのため、彼らにとって、
安息日を守り、7日に一度立ち止まることは、
自分たちが神の民であることの証でした。
それは特に、神を礼拝する場所である神殿を失い、
世界各地に自分たちが散っていった時に、
大きな意味を持ちました。
神に命じられた7日に一度立ち止まることは、
礼拝する場所を失ったときも、
世界中のどんな場所にいても、
守ることが出来ます。
ですから、安息日を守ることを通して、
彼らは神への信仰を明らかにしました。
そのようにして、7日に一度立ち止まることを通して、
彼らは自分たちが何者であるのかを確認したのです。
そのような事情もあり、
イエスさまが生きた時代において、
安息日を守ることはユダヤ人にとって、
とても重要な生活スタイルであり、文化でした。
ですから福音書を開いて読むとき、
イエスさまが安息日に適した行いをしなかったという理由で、
イエスさまに非難の言葉が向けられる場面を
わたしたちはたびたび目にします。
ヨハネが紹介するきょうの物語も、
そのうちのひとつです。
安息日に、38年もの長い間病気であった人を
イエスさまが癒やしたことと、
病気が癒やされたその人に向かって、
イエスさまが「床を担いで歩きなさい」と言ったことが
どうやら問題となったようです。
安息日の規定が定める、
働くとは一体どういうことなのか。
ここからそういった議論が始まりそうです。
けれども、イエスさまは、安息日における労働について、
その定義付けのための議論を始めませんでした。
イエスさまはむしろ、
この問題に関心を寄せていた人びとの視点を
まったく違う方向に向けました。
それは、誰が安息日に働いているかです。
ユダヤ人たちにとって、
答えは明らかに、神が働いている、でした。
その日、人間は働きません。
神にすべてのことを委ねる日だからです。
わたしたちが普段行っているすべてのことを
わたしたちは手放すことができる。
わたしたちの配慮がなくても、
この世界を造った神が
すべてのことを配慮してくださる。
わたしたちが責任を持たなくても、
神がすべてのことに責任を持ち、
すべてのことを守ってくださる。
安息日は、神がわたしたちの日常のその背後で、
いつも働いてくださることを確認する
とても良い機会でした。
でも、イエスさまは一言付け加えました。
「だから、私も働くのだ」(17節)と。
イエスさまのこの発言はとても危険なものでした。
というのも、神が安息日に働いているように、
自分も安息日に働くということは、
イエスさまが自分自身を人間の側ではなく、
神の側に置いている発言だからです。
ですから、イエスさまのこの発言は、ユダヤ人たちに
神への冒涜として受け取られました。
キリスト教会は、イエス・キリストは
神であると信じています。
ですから、わたしたちにとって、
イエスさまの発言は特に問題とはなりません。
むしろ、わたしたちが
自分の抱えている問題や物事を一度脇に置き、
立ち止まり、休むときに、
神がその背後で働いてくださっていることの意味を
より深く理解するための助けとなるでしょう。
神がわたしたちの背後で働いてくださるということは、
遠くの方から神が絶妙なタイミングで
物事を動かしてくださっているということではありません。
だって、イエスさまが同じように働いているというのですから。
イエスさまが安息日に働いておられるということは、
人となり、わたしたちと共に生き、
わたしたちの友となってくださった方が、
わたしたちのすぐ近くで、すぐそばで、
わたしたちの心で抱えている思いを知りながら、
働いてくださっているということです。
わたしたちが何か良いものを生み出さず、
わたしたちが意味のある行動を起こさず、
ただただ立ち止まり、休む時、
イエスさまはわたしたちと共にいて、
わたしたちの存在を喜んでくださいます。
ありのままのわたしたちを見つめて、
それで良いと言ってくださり、
わたしたちが手放したものを
イエスさまが保ってくださいます。
わたしたちを愛し、わたしたちをよく知り、
わたしたちの人生を導いておられるイエスさまが、
わたしたちの存在を大切に守り、
わたしたちの歩みのすべてに心配らせながら、
わたしたちが手放し、
力を注ぐことを一時的にやめていることに、
手を伸ばして働いてくださっています。
わたしたちが責任を持つことを
一時的にやめていることに、
イエスさまが責任をもっていてくださいます。
ですから、神が働くように、
安息日にわたしも働くと語ったイエスさまの言葉は、
わたしたちにとって大きな慰めと希望を
与えるものと言えるでしょう。
でも、ひとつだけ疑問が残ります。
イエスさまはなぜ、安息日に、
「床を担ぎなさい」と伝えたのでしょうか。
そんな風に言わなければ、
癒やされた人が他の人から責められることも、
安息日についての論争が起きることもなかったでしょう。
また、イエスさまが神と同じように、
安息日において働いていることを伝えたいがために、
この人の癒やしを用いたのであれば、
何だか病気を癒やされた人は
イエスさまが周りの人に伝えたいことがあったために、
イエスさまによって都合よく
利用されているようにも感じてしまいます。
そうでないならば、
イエスさまはなぜ、癒やされたこの人に、
安息日であるこの日に、
「床を担ぎなさい」と伝えたのでしょうか。
それはきっと、
文字通り立ち止まり続けることだけが、
安息日の本質ではないと
イエスさまが考えていたからでしょう。
安息日は、立ち止まることを通して、
わたしがわたしであることを喜べる日です。
立ち止まることを通して、
何もしないでも良いと言ってもらえる、
存在のありのままを喜べる日です。
立ち止まることを通して、
この世界がわたしたちに下してくる、
様々な評価から解放される日です。
でも、ずっと立ち止まっていた人にとっては
どうなのでしょうか。
まさに、病気を癒やされたこの人にとって、
安息日に立ち止まることは、
これまでと変わらない生活を続けることのようでした。
むしろ、自分の存在を喜ぶことなどできません。
今このとき、この人が自分の存在を喜ぶためには、
病気であったときのように立ち止まり続けるのではなく、
病気が治った者らしく、動き出す必要がありました。
いや、動けるようになったその喜びを抑え込んで、
立ち止まっていることは、
癒やされたこの人にとって、
ふさわしくないことでした。
だからイエスさまはこの時、
文字通りのルールをこの人に守らせることに
こだわりを持たなかったのでしょう。
むしろ、目の前の人がありままの自分の命を喜んで、
生き生きと生きられることを望んで、
イエスさまは病を癒やされた人に
関わったのではないでしょうか。
それはまさに、安息日が本来持っている精神を
一人の人の人生にイエスさまが届けた瞬間でした。
このような意味で、安息日を文字通り守って生きるよりも、
安息日の持つ精神を受け止めて、
わたしたちが生きることを
イエスさまが願っていたことは明らかです。
ですからわたしたちも、同じように、
神が求める安息のあり方を
現代のこの社会の中で受け止めたいと思うのです。
わたしたちは自分の生活を窮屈に縛り付け、
ルールの中で生きなければ非難されるような形で
休んだり、神を礼拝することはしません。
でも、わたしたちは忙しない日常の中で、
意識的に立ち止まることを選び取っていきます。
それは、わたしたちが心と身体の疲れを癒やし、
次の仕事を効率よくこなすためではありません。
もちろんそれも重要です。
でも、それはわたしたちが立ち止まる、
最も重要な理由ではありません。
わたしたちが立ち止まるのは、
わたしたちが、自分自身の命の大切さに気づくためです。
共に生きる家族や友人たちの存在を喜び、
神に感謝するためです。
神に造られた、この世界のすべての被造物を
喜び、楽しむためです。
立ち止まらなければ、
わたしたちは過剰に消費してしまいます。
立ち止まることを選ばなければ、
わたしたちはいのちを蔑ろにしてしまいます。
立ち止まることを選ばなければ、
争いの手を止めることだってできません。
ですから、どんなときも、わたしたちに必要なのは、
定期的に立ち止まるリズムの中に生き、
そのリズムを保ち続けることなのでしょう。
福音書の物語を通して、
イエスさまはいつもわたしたちに教えてくださいます。
安心して立ち止まって良いんだよ。
安心して手を止めて良いんだよ。
わたしがその背後で働いているから。
イエスさまがそんな風にわたしたちに伝え続けてくださるから、
たとえそれが非効率的に見えても、
わたしたちは立ち止まることを忘れません。
イエスさまが生きた時代と形は違ったとしても、
安息日がわたしたちに伝え、わたしたちを促す、
定期的に立ち止まることは、
わたしたちにとってとても大切な、
安息を生み出すいのちのリズムだからです。