説教者 稲葉基嗣牧師
わたしたちは、それぞれに色々な意見を持っています。
政治的なこと、仕事のやり方、
時間やお金の使い方、
物事の何を優先するかなど、
すべてのことにおいて
まったく同じ意見を持つ人はいないでしょう。
同じような環境で育ったとしても、
家族や親戚であったとしても、
同じ言語を用いていたとしても、
同じ宗教を信じていたとしても、
わたしたちは必ず異なる意見を持っています。
だから、わたしたちはお互いに語り合い、
お互いの意見を理解したいと努めます。
自分とは異なる意見と出会うとき、
わたしたちが必要とするのは、
その根拠となる証拠です。
もちろん、自分の意見に
共感や同意をしてもらう必要がないなら、
根拠や証拠を出す必要などないでしょう。
明確な理由はないけども、
自分がこうしたいから、このようにしている。
そういったことは、
わたしたちの日常にはいくらでもあります。
でも、自分の意見を理解してもらったり、
共感や同意を得たいならば、
相手にとって納得のいく説明が
必要となるでしょう。
「わたしがこう考えるから、
この意見は正しいんです」
なんて言われても、
誰も納得してくれません。
自分以外の誰かが、自分以外の何かが、
わたしの語ることの証拠となる必要があります。
イエスさまにとっても、それは同じでした。
いくらイエスさまが、自分と神の関係は、
父親とその子どものように
親密で特別なものであり、
イエスさまが神と同じように、
人に命を与える存在であると伝えたとしても、
イエスさまの言葉だけでは、
誰も信じることはできませんでした。
イエスさまがそのように主張するだけでは、
周りの人にとってそれは、単なる妄想です。
また、自分を神と等しい者として語る、
神への冒涜でした。
そのため、わたしたちと同じように、
イエスさまも証拠や証人を立てて、
自分の主張が真実であることを
伝える必要がありました。
ユダヤ人たちにとって、
誰かの証言が真実であることを示すためには、
同じことを証言をしてくれる
2、3人の人が必要でした(申命記19:15参照)。
このとき、イエスさまが
自分の主張の証人として、最初に挙げたのは、
洗礼者ヨハネでした。
洗礼者ヨハネは、
イエスさまが人びとの前に現れる前に、
イエスさまがこの世界の光として
訪れることを伝えた人でした。
ですから、洗礼者ヨハネは、
イエスさまの言葉や行いが
真実なものであることを
人びとに伝える重要な証人でした。
そして、イエスさまは、
もうひとりの証人として、神の名を挙げました。
神が一体、イエスさまについて
どのようにして証言しているのでしょうか。
それを説明するために、
イエスさまは自分の行いは、
自分をこの世界に遣わした
神の願いと一致していると言います。
神がイエスさまの証人であるならば、
イエスさまの言動が真実であると
受け止められることは確実です。
けれども、神がイエスさまの証人であることは、
誰の目にも明らかなことではありません。
いや、むしろ、神の姿を直接見ることはできず、
神の声を直接聞くことはできないのですから、
そもそも神が証人であると伝えることに、
無理があるように思えてなりません。
だからこそイエスさまは、
旧約聖書が自分について
証言していると伝えました。
神がさまざまな人びとを用い、
イスラエルの民の長い歴史を通して伝えた言葉が、
イエスさまについて証言しているのだと、伝えました。
このようにして、イエスさまは、
自分と神の関係について語っていることが
真実なことであると人びとに伝えました。
ただ、よくよく考えてみると、
イエスさまにとっても、神にとっても、
そもそも自分たちの関係を
わざわざ証拠立てて説明する必要などありません。
彼らにとって、それは自明なことだからです。
それなのに、イエスさまの主張することに
誰かの証言が必要とされたときに、
イエスさまは証人を立てました。
それは、イエスさまが
誰かの証言が必要であったというよりも、
その場にいる人たちが
イエスさまについて理解するために、
証人が必要だったためでした。
ある意味でそれは、
イエスさまが自分のために
証人を立てたこととは違います。
むしろ、イエスさまは、
わたしたち人間の側に寄り添い、
わたしたち人間のやり方に合わせて、
ご自分の証言が真実であることを
伝えようとしたのでしょう。
イエスさまのこのような姿勢は、
神がどのような方であるのかを
わたしたちによく示しています。
イエスさまは自分の主張が真実なものだと、
強引に人びとに同意させることはしません。
1世紀のユダヤ人たちと共に生き、
彼らの文化を理解し、彼らに寄り添って、
神と自分の関係を伝えようとしました。
何よりも、神の子であるイエスさまが、
人となってわたしたちの間で生きたことこそ、
神が愛と憐れみをもって、
わたしたちに寄り添ってくださったという証しです。
天の神は、遠くの方から、
わたしたちを眺めることでは満足しませんでした。
わたしたち人間と共に生きることを神は望み、
わたしたち人間と共に交わりを持つことを
神は喜ばれました。
だから、神は、神の子であるイエスさまを
わたしたちのもとに遣わしました。
そんなイエスさまが寄り添って生きようとしたのは、
ユダヤの宗教指導者たちだけではありません。
イエスさまが心から寄り添おうとしたのは、むしろ、
当時の社会や文化の中で苦しんでいる人たちでした。
罪人とレッテルを貼られている人たちと
イエスさまは一緒に食事をして交わりを持ち、
彼らに罪はもう赦されていると伝えました。
男性中心の社会で疲弊し、心を塞いでいる、
サマリアの女性とイエスさまは出会い、
いのちの水を与えると約束しました。
長年病気で苦しんでいる人をイエスさまは癒やし、
立ち上がって歩むように伝え、
生きる喜びを新たに与えました。
現代日本に生きるわたしたちにとって、
それは、今から2000年ほど前の
遠いパレスチナの地で起こった出来事です。
でも、だからといって、
わたしたちにまったく関係のない話ではありません。
だって、イエスさまは
今も、わたしたちと共にいてくださる神だからです。
イエスさまは、わたしたちの生活や文化を知り、
わたしたちの心に寄り添い、
わたしたちの人生に豊かな命を注ぎ、
わたしたちと共に生きてくださる方です。
そのような方である、イエス・キリストが、
わたしたちの信仰の旅路に
常に、寄り添ってくださっています。
だからわたしたちは、どのようなときも、
安心して、天の御国を目指して歩むことができます。
それは、単なる精神的なサポートが
神から与えられているという話ではありません。
神がイエスさまを通して
わたしたちに寄り添ったことには、
大きな目的がありました。
それは、イエスさまを通して、
わたしたちに命を与えるという目的です。
それは、天の御国で生きる命だけを意味しません。
現に今、わたしたちは神から
命を与えられて、生きています。
でも、誰かの言葉や行動によって、
その命が傷つき、
歪められることがあります。
社会の構造や文化的な慣習によって抑圧を受け、
喜びや楽しみを奪われることがあります。
人としての尊厳を傷つけられることがあります。
いや、反対に、わたしたちが誰かを
傷つける側にまわることだってあります。
そんな風に、自分たちのいのちのあり方を
お互いに傷つけ合ってしまうわたしたちがいます。
だから、そんなわたしたちの間に
いのちの息吹が取り戻されるために、
イエスさまはわたしたちのもとに来てくださいました。
わたしたちの間の歪んでしまった関係を修復し、
いのちの豊かさを取り戻すために、
イエスさまはわたしたちに寄り添い、
わたしたちに命を与えながら、
共に歩んでくださいます。
そんな風に、イエスさまは
今も、そしてこれからも、
わたしたちに寄り添ってくださいます。
ところで、イエスさまが命を与えることについて、
ヨハネによる福音書は
水のイメージを好んで用いています。
イエスさまによって水が注がれ続け、
命が与えられるというイメージです。
わたしたちに寄り添ってくださるイエスさまが、
わたしたちに命の水を注ぎ続けてくださるならば、
どうなるでしょうか。
単にわたしたちの身体が
潤い続けるだけでは終わりません。
いつか、その水はわたしたちの内側から
溢れることになるでしょう。
ということは、わたしたちに与えられた命の水は、
わたしたち自身を潤すためだけに
注がれているわけではないのでしょう。
つまり、イエスさまはわたしたちを助けるためだけに、
わたしたちに寄り添い、
わたしたちに命を与えているわけではありません。
むしろ、イエスさまが寄り添ってくださったように、
わたしたちも誰かに寄り添っていく。
そして、イエスさまによって命の水を注がれ、
潤いを得たわたしたちが、
共に生きる人たちに
その水を分かち合っていく。
そんな歩みを始めることが、
わたしたちに寄り添ってくださっている神が
わたしたちに願っていることです。
ですから、どうか日々の歩みの中で出会う人びとに
神から与えられる命を
分かち合い、寄り添いながら、
みなさんが信仰の旅路を
歩んで行くことができますように。
でも、神がわたしたちに寄り添い、
神からいのちを
与えられていると信じていたとしても、
わたしたちは常に順調な生活を
送れるわけではありません。
誰かに寄り添ってもらう必要のあるとき、
命の水を分かち合ってもらう必要があるときがあります。
でも、そのような時が来たとしても、
どうか安心してください。
教会という群れは、
寄り添い、お互いに命を分かち合うことを学びながら、
天の御国を目指して歩んでいく共同体です。
必要なときに、必要とする人たちのもとに、
わたしたちは寄り添い、
命の水を分かち合うことを忘れません。
忘れたくありません。
わたしたちに寄り添ってくださる神の助けを受けて、
わたしも、みなさんも、この教会という共同体も、
どうかそのような歩みを続けていくことができますように。
イエスさまを通して、神が寄り添ってくださったように、
わたしたちも互いに寄り添い、助け合って、
天の御国を目指す旅を
これからも歩み続けていきましょう。