説教者 稲葉基嗣牧師
他の人から良い評価を受けたり、
認められ、褒められ、
また感謝をされたりすることは、
喜ばしく、そして誇らしいものです。
もしそれが、自分が心を注いできた
事柄や作品に対するものであったならば、
なおさら嬉しいものです。
多かれ少なかれ、
そういった評価や賞賛を受けることは、
わたしたちにとって必要なことです。
もしも何をしても評価されず、
無視をされたりするならば、
寂しい思いを抱くこともあるでしょう。
また、どれだけ頑張っても、
どれだけ良い行いをしても、
見向きもされないならば、
自分自身はまったく価値がない、
取るに足りない存在だと
感じてしまうことだってあるでしょう。
現代社会において、
人からの評価は
誰の目にも見えるようになってしまいました。
Facebook、Instagram、TikTokなど、
ソーシャルメディアを開けば、
「いいね」の数や閲覧数やフォロアーの数などで、
どの投稿や誰の発言が、
どれだけ注目されているのかが
簡単にわかってしまいます。
そのため、ソーシャルメディアを通して
知ることができる、
そうした評価やコメントなどが、
自分の価値を決定づけるもののように
錯覚してしまうことがあります。
もちろん、そのようなものは、
わたしという人間の絶対的な価値を
決めるものではありません。
文化や時代が変われば、
価値基準など簡単に移り変わっていくものです。
そんなこと、頭ではわかっているはずです。
でも、今このとき、
わたしたちはそれを勘違いしてしまいやすい
時代に生きています。
まるでソーシャルメディアでのコメントやいいねの数が
わたしたちの存在の価値を決めるかのように、
錯覚してしまうのです。
ただそれは、ソーシャルメディアがなかったとしても、
わたしたちが人と関わる限り、
あまり変わらないのかもしれません。
というのも、場所を変え、関わる人を変えて、
職場や学校、家族や友人との関係の中において、
誰もが人からの評価に晒され、
様々なところからわたしたちに向けられた
コメントが飛んでくるからです。
そのような時代と文化の流れの中で
生きているわたしたちにとって、
きょう開いたヨハネによる福音書に記されている、
イエスさまの言葉には、とても不思議な印象を受けます。
「私は、人からの栄光を受けない」と
イエスさまは語られたからです(41節)。
わたしにとって、イエスさまのこの発言が
何よりも不思議に思えるのは、
イエスさまが神の子であるためです。
わたしたちは礼拝の中で、
何度も栄光という言葉を用います。
主の祈りでは、「国と力と栄光は、
永遠に神のものです」と祈ります。
また、さきほど一緒に歌った賛美歌では、
「栄光あれ」という意味のラテン語、
「グロリア」を繰り返し、口にしました。
わたしたちが礼拝を通して
言い表すその栄光の対象は、
父、子、聖霊である、三位一体の神です。
つまり、イエスさまこそ
礼拝の中で栄光あれと言われる対象です。
それなのに、イエスさまご自身は
「私は、人からの栄光を受けない」と
語るのは一体なぜなのでしょうか。
わたしたちが礼拝の中で、イエスさまに対して、
栄光あれと言うことが間違っているのでしょうか。
イエスさまが、人間からの栄光を拒否することは、
わたしたちからの礼拝を
拒絶しているというわけでも、
「栄光、主イエスにあれ!」と声を上げて歌う、
わたしたちの賛美を
否定しているわけでもありません。
そうではなく、イエスさまは、
わたしたち人間の価値基準に合う形で、
栄光を受け取らないということなのでしょう。
イエスさまは、人びとの尊敬や評価の声を集めて、
自分の栄光を得ることはしませんでした。
社会的な地位を手に入れて、
人よりも能力や知識があることを
周囲の人びとに見せることによって、
イエスさまはご自分の栄光を
示そうともしませんでした。
誰よりも良い結果を出し、
誰よりも優れた業績を持っているから、
イエスさまに栄光があるのでもありません。
そういったわたしたち人間のやり方で栄光を求め、
自分の栄光を示すことを
イエスさまは選びませんでした。
また、そのような形で
自分のもとに称賛の声が集まることなど
イエスさまは望みませんでした。
イエスさまが望んだことは、むしろ、
人びとの間に愛が
見出されるようになることでした。
イエスさまは、自分は人からの栄光を
受けないと告げた直後に、
人びとの間に神への愛を
見出だせないことを嘆いています。
ここで、イエスさまが語る
「神への愛」という言葉は、
日本語訳の聖書では、
神に対する愛として、
明確に表現されています。
でも、新約聖書が記された
ギリシア語からイエスさまの言葉を
直訳してみると、「神の愛」という
少し曖昧な表現をしていることがわかります。
イエスさまが神に対する愛を
「神の愛」と表現するのは、
わたしたちが誰かを愛することのその出発点は、
神がすべての人に注いでいる愛だからです。
わたしたち人間は、神によって造られ、
神から命を与えられています。
そのため、神がわたしたちに
命を注いでくださっていることそのものが、
神の愛の現れです。
神からいのちを与えられているすべての人は、
神の愛情を受けて、生かされています、
誰一人として、神の愛の中に
置かれていない人はいません。
そこに性別や人種は関係ありません。
生まれや育ちも、話す言語も、肌の色も、
政治的な信念も、信じる宗教も、関係ありません。
すべての人が等しく、神の愛のゆえに、
いのちを与えられています。
ですから、神の愛を受けて
今、生かされているわたしたちにとって、
愛は何よりもまず、神のもとから訪れます。
神に愛されることによって、
神の愛が一体どのようなものなのかを
わたしたちは知り、学びます。
神に愛されていることによって、
どのように神からの愛を
受け止めるのかを知り、体験します。
神に愛され、神の愛を受け止めることを通して、
わたしたちは神を愛する方法を知り、
神を愛する方法を学びます。
そして、神に愛されることによって、
神に愛されているように、
他の人やこの世界の他の被造物を
愛し、慈しむ方法を知り、
行動に移していきます。
ですから、神に愛されている事実は、
わたしたちにとって、神を愛し、人を愛する上で、
とても大切な愛の出発点です。
そんな愛の出発点である神の愛は、
命あるすべての人に注がれているはずです。
そこに加えられていない人など、
誰一人としていないはずです。
それなのに、イエスさまはなぜ憤り、
ユダヤの宗教指導者たちに対して、
神の愛が欠けていると批判しているのでしょうか。
もちろん、彼らが神に愛されていないからではありません。
彼らは神に愛され、神の愛のうちに生かされています。
その意味で、愛の出発点に立っています。
でも、彼らの愛情は、
自分の外側へ向かっていきませんでした。
イエスさまは、彼らがお互いに
相手から受け取る栄光を
受け入れ合っているのにもかかわらず、
神からの栄光を求めていないと、批判しました。
言い換えるならば、
イエスさまが批判しているのは、
人びとが自己愛から抜け出せずにいる姿です。
称賛や高い評価など、
彼らは自分に向けられる愛情ならば、
喜んで受け取りました。
でも、神がすべての人に注いでいる愛情は、
そんな自己完結するものではありません。
たしかに、わたしたちが自分自身を愛するのは、
神がわたしたちを愛してくださったからです。
でも、神の愛は決して、
内向きで終わるものでもなければ、
わたしたちの内側で
留め続けるべきものでもありません。
神の愛は、外側へ、他の人びとのもとへ、
この世界へと向かっていく愛です。
まさに、それが神の栄光を求める生き方だと、
イエスさま自身が教えてくださっています。
イエスさまは、人びとからの称賛や、
尊敬の眼差しや、高い評価など、求めませんでした。
イエスさまは、自分自身を分け与えに、
わたしたちのもとに来てくださいました。
天から下り、人となり、
どこまでも自分を差し出して、
わたしたちに愛情を示してくださったのが、
神の子であるイエスさまです。
孤独を抱える人や病を抱える人たちの友となり、
苦しむ人びとに手を差し伸べることを通して、
神の愛を分かち合ったのが、イエスさまでした。
そんなイエスさまを
神はわたしたちに救い主として
与えてくださいました。
イエスさまは、わたしたちの信仰の旅路に伴い、
わたしたちに神の愛を分かち合う生き方を
いつも教えてくださっています。
それは、自分の評価を高め、
称賛を得ることを目的とした歩みではなく、
自分を必要とする人たちに
愛情を分かち合っていく歩みです。
それは競争が当たり前の
この世界のやり方に反することもあれば、
わたしたちにとって楽な方法とは
異なる場合もあります。
そのため、わたしたちは、
何が出発点であったかを
忘れてしまうことがあります。
自分のみを愛し、自分さえよければ良いといった
出発点に書き換えてしまう方が、
遥かに自分にとって都合が良さそうです。
でも、わたしたちは何度でも、何度でも、
思い起こしします。
わたしたちの出発点は、
神がわたしを愛してくださった
ということにあります。
イエスさまがそうであったように、
神が愛してくださったように、
わたしたちも共に生きる人たちを
この世界を愛そう。
これがわたしたちにとって、
自然な出発点であることを
神や、ここに集う仲間たちとの交わりを通して、
わたしたちはいつも思い起こしながら、
神の愛に促されて、信仰の旅路を続けていきましょう。