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朗読箇所

三位一体後第14主日

旧約 列王記 下 4:42–44


42 一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、
43 召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」
44 召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。


新約 ヨハネによる福音書 6:1–15

◆五千人に食べ物を与える
1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

説教

挑戦的な食卓

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    5つのパンと2匹の魚によって、
    その場にいるたくさんの人たちの
    お腹が満たされるという、
    イエスさまが起こした奇跡は、
    すべての福音書に収められています。
    イエスさまを知る人たちにとって、
    イエスさまが行った奇跡を語る上で、
    この話は決して欠かせない、
    とても有名な話だったのでしょう。
    ヨハネは、この物語に登場するパンと魚は、
    ひとりの少年が持っていたものだと書いています。
    けれども、イエスさま以外、
    誰もこの少年に期待していません。
    誰もこの少年の手元にある食べ物に
    可能性を見出していません。
    それもそのはずです。
    その場にいるのは、五千人もの人たちです。
    この当時のユダヤ人たちが
    人数を数える際の習慣は、
    男性の数のみを数えることでした。
    ですから、実際にこの場にいた人の数は、
    その倍以上であった可能性さえあります。
    5つのパンと2匹の魚で
    どれだけの人が満足できるのでしょうか。
    それはもう、絶望的です。
    無理な話です。
    この少年の持ち物など、
    これだけの人の数を前にしては、
    ないに等しいものに思えました。
    ですから、食べ物の必要性を訴えるイエスさまに、
    自分たちの手元には
    ほとんど何もないことを伝えるために、
    弟子のひとりであるアンデレは、
    イエスさまとの会話の中で、
    この少年を紹介したのでしょう。
    自分たちが探し出せた食べ物はこれっぽっちです。
    他には何もありません、といったように。

    この少年に目を留める前に、
    弟子たちとイエスさまが
    真っ先に考えた解決策は、
    パンをどこかで買ってくることです。
    でも、すぐにそれは無理な話だと気づきます。
    人数分の食事を手に入れるために、
    少なくとも200デナリオンという金額が必要でした。
    それは、1人の人が半年以上働いて
    ようやく手に入れることのできる金額でした。
    ですので、そのような大金をすぐに用意したり、
    すぐに支出できるはずもありません。
    そもそも1万人分の食料を
    すぐに購入可能な業務用の大型スーパーなど、
    この時代にあるはずもありません。

    それなのに、なぜイエスさまは
    「どこでパンを買ってこようか」と、
    弟子の一人であるフィリポに
    わざわざ問いかけたのでしょうか。
    1万人もの人たちのために、
    十分な食料を手に入れる手段などないことは、
    誰の目にも分かりきっていたことです。
    それなのに、イエスさまはなぜこのようなことを
    フィリポに問いかけたのでしょうか。
    それは、イエスさまがフィリポを
    試みるためだったとヨハネは書いています。
    すべての福音書の中で、試みるという言葉は、
    イエスさまに対する悪意や敵意をもった人たちが、
    イエスさまに問いかけ、
    イエスさまを貶めようとする時に使われています。
    イエスさまは、同じように、
    否定的な感情を抱いて、
    フィリポに問いかけたのでしょうか。
    もちろん、そのようなことはありません。
    何よりも、この状況の中で、
    弟子たちに出来ることは何もないことを
    イエスさまは彼らに気づかせるために、
    フィリポに問いかけたのでしょう。
    フィリポは、この出来事が起こった
    地域に近い場所の出身でした。
    ですから、どこへ行けば食料が手に入るのか、
    彼はその知識を持っていたはずです。
    でも、この時、そのような知識や土地勘は、
    役に立ちませんでした。
    また、経済力は物事を解決するための
    わかりやすい手段かもしれません。
    けれども、十分な持ち合わせもなければ、
    そもそも、そのような経済力さえ
    役に立たないような状況です。
    急に1万人分の食料を売ってくれる場所を
    見つけることだって難しいことです。
    イエスさまのフィリポへのこの問いかけは、
    そんな無理難題な状況の中で、
    フィリポが一体何に頼るのかを
    知るためになされたのでしょう。
    フィリポはこの問いに答えません。
    答えられません。
    一緒にいた弟子たちも、
    解決の方法はないか周りを見渡して、
    考え続けました。
    良いアイディアは、何も見当たりません。

    そんな時に、弟子のひとりである
    アンデレの目に留まったのが、
    五つの大麦パンと二匹の魚を持っている
    少年の姿でした。
    当然、この少年がこの出来事の
    解決の糸口になるなどとは、到底思えません。
    この少年が持っているのは、
    こども1人分のわずかな食事です。
    寧ろ、自分たちの手元には
    わずかこれしかないという、
    事実を突きつけるような、
    諦めと無力さの象徴のように、
    この少年の姿は見えたことでしょう。
    ですから、アンデレはこの少年が
    食べ物を持っていることを
    イエスさまに伝えた後、
    彼はすぐさま自分の言ったことを
    否定し、嘲笑います。
    こんな取るに足りないものが、
    一体何になるのか。
    彼はすぐにこの少年から目を反らしました。

    でも、イエスさまにとって、
    この少年も、少年が持っていた食べ物も
    決して取るに足りない、小さく、僅かな、
    役に立たないものではありませんでした。
    弟子たちから見向きもされず、
    何の役にも立たないと考えられた、
    僅かなパンと魚を持っていた、
    この少年にイエスさまは目を留めました。
    弟子たちは見向きもしなかったのですから、
    イエスさまがこの少年に
    直接お願いをしたのでしょう。
    その場にいる大勢の人たちのために、
    食べ物をどうか譲って貰えないか、と。
    どのようなやり取りが実際なされたのか、
    この福音書は沈黙しているため、
    残念ながら詳細を知ることはできません。
    けれども、この少年はパンと魚を差し出し、
    イエスさまはその食べ物を用いました。
    少年からパンと魚を受け取ったイエスさまは、
    感謝の祈りをささげ、
    それらを人びとに配りました。

    最後には、どうなったのでしょうか。
    その僅かなパンと魚によって、
    1万人もの人びとは、誰もが満足しました。
    そして、集められた残りのパンは、
    最初の数よりも多くの量になっていました。
    そんな不思議な結果が待っていました。
    どうしてこのような出来事が起こったのか、
    わたしたちは色々な可能性を
    思い巡らしてしまいます。
    イエスさまがパンと魚を奇跡によって、
    増やしたのでしょうか。
    それとも、実は、
    他にも食べ物を持っていた人がいて、
    そのような人たちは、自分が食べない分を
    籠に置いていったのかもしれません。
    色々な解釈が可能ですので、
    正しい解釈はこれだと
    決めるのは難しいでしょう。
    むしろ、どのようにしてパンと魚が増えたのか、
    どのようにイエスさまの奇跡が行われたのか、
    ということに注目するよりも、
    この出来事のきっかけは何であったのかを
    思い起こすことの方が大切です。

    なぜすべての人が満腹になったのでしょうか。
    それは、弟子たちの努力の結果でもなければ、
    弟子たちが持ち合わせていた
    お金の力でもありませんでした。
    人脈やその土地についての
    知識によるものでもありません。
    この物語が大きく動くきっかけとなったのは、
    一人の少年の存在でした。
    誰の目にも留まらなかった、
    この少年がパンと魚を
    差し出したことが大きなきっかけとなりました。
    彼の持っていたパンは、大麦パンで、
    貧しい人たちが食べる食べ物でした。
    ですので、この出来事は、
    何の力もない子どもが
    イエスさまによって用いられた
    ということ以上の意味を持つでしょう。
    貧しく、力もない、希望も感じられない、
    社会的にとても小さな存在である、
    この少年がイエスさまに差し出したものが、
    この少年の命だけでなく、
    1万人以上もの人びとの命を
    支えることに用いられました。

    このように、少年の持っていた
    わずかな食べ物が
    1万人以上の人たちに
    分かち合われることによって、
    山の草原でこの大きな食事の交わりが始まりました。
    この食卓は、現代に生きるわたしたちにとって、
    とても挑戦的なものです。
    というのも、わたしたちが目を留め続け、
    価値を認め続けるものは、
    力があり、頼りになるものだからです。
    それはお金かもしれないし、
    能力や発言力、権力や知識、
    経験や積み重ねてきた業績かもしれません。
    たしかに、それらひとつひとつは大切なものです。
    だからこそ、そういったものを手にしているのならば、
    賢く、謙虚に、まわりの人たちへの愛情をもって、
    用いていきたいものです。
    けれども、そういった
    誰もが価値を認めるものを
    大切にすることは
    多くの人が簡単にできることです。
    でも、イエスさまがわたしたちを招く食卓が
    わたしたちに挑戦的である理由は、
    わたしたちが目を留めないものに、
    わたしたちが価値を見出だせず、無視をしてしまうものに、
    イエスさまが目を留め続けているからです。
    そして、わたしたちが
    取るに足りないものと考えるものを
    イエスさまは大きなものとして扱われるからです。
    むしろ、この少年を用いたように、
    わたしたちが諦め、期待しないものを
    イエスさまは良いことのために、
    誰かの命を豊かにするために、
    用いたいと願っています。

    それは言い換えれば、
    誰もが、神に用いられ、
    神の働きに加わっているということです。
    どれだけ能力を持っているかなど、
    イエスさまの前では関係ありません。
    どれだけ聖書を知っているのか、
    どれだけ人脈があるのか、
    どれだけこの社会を知っているのか、
    どれだけの資産を持っているのか、
    どれだけ人格的に成熟しているのか。
    そういった様々な基準で、
    わたしたちは自分自身や
    他人を測ってしまいがちです。
    でも、イエスさまは、
    わたしたちが持つそういった基準を無視して、
    ひとりの少年を用いたではありませんか。
    ですから、わたしたちは、
    役に立つか、役に立たないかといった基準で
    人を見つめません。
    わたしたちの勝手な価値判断で築かれる基準で
    自分や人のことを判断しません。
    誰もが神に用いられる、素敵な人だからです。
    ですから、イエスさまが招いてくださっている、
    教会という交わりにとって、
    小さな、ひとりの少年に目が留められ、
    僅かなパンと魚が用いられることは、
    とても自然なことです。
    それが、イエスさまの望むやり方であり、
    イエスさまの望む交わりの作り方だからです。
    どうかイエスさまの望むやり方や
    イエスさまの望む交わりの作り方こそが、
    これからも、わたしたちの交わりの
    中心であり続けますように。

週報より

  • 2024.09.01 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後、ティータイムの後にメディアチームで集まります。
    オンライン献金とホームページのことについて話し合う予定です。
    内容に興味のある方の参加も大歓迎です。

    ② 7日(土)にいのちのことば社の訪問販売を教会駐車場で予定しています。
    キリスト教関連の書籍・CD・グッズなどの購入が可能です。
    時間は、12時から午後1時までを予定しています。

    ③ 来週の礼拝後に月例教会役員会をおこないます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いします。
    おもな議題は、9月の教会全体会と10月の教会ピクニックについてです。
    役員会で話し合ってほしいことがある方は、
    牧師または役員までお知らせください。

    ④ 教会全体会、開催のお知らせ
    教会への要望、取り組みたいこと、将来の夢、ビジョンなど、
    みんなで話し合いたいことがありましたら、牧師にお知らせください。
    当日はランチの会も予定しています。出席をぜひご予定ください。

    ⑤ 9月は教会教育月間です。
    ナザレン教会の教会教育の働きのための献金にご協力お願いします。
    献金袋は受付テーブルにあります。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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