説教者 稲葉基嗣牧師
水はわたしたちの生活に必要不可欠なものです。
身体や衣服、食器などの汚れを落としたり、
料理、お風呂、トイレなど、
一日の様々な場面でわたしたちは水を使います。
雨が降らず、晴れた日ばかりでは、
作物は十分に育たず、食糧不足になってしまいます。
何よりも、3日間水を取らないだけで、
わたしたちの命は危険にさらされます。
生きる限り、わたしたちは
水分を摂り続けなければなりません。
このようにわたしたちの生活に、
命と潤いを与える水ですが、
形が違えば、わたしたちの命を
危険にさらすものになります。
大雨、冠水、決壊した川の水、津波など、
わたしたちの力では決して抑えられない
水の持つ力をわたしたちは
何度も見聞きしています。
このような、水の持つ二面性は、
古代の人びとにとっても、当たり前のものでした。
そのため、彼らにとって、
水は命の象徴であると同時に、
死やカオスの象徴でもありました。
水は良いものであると同時に、
わたしたち人間の力では決して抗うことのできない、
想像も絶する力を持ち、時に荒れ狂い、
この世界に牙を剥くものだと
受け止められていたからです。
そう考えると、イエスさまの弟子たちが、
日が暮れた後に舟に乗り込み、
カファルナウムに向かって移動を始めたことに
疑問を感じてしまいます。
闇に覆われた湖は、いかにも危険な雰囲気です。
実際、彼らを嵐や波が襲います。
舟が転覆してしまえば、
闇に覆われた水の中へと
深く深く沈み込み、飲み込まれてしまいます。
なぜわざわざ、そんな危険を感じるような時間帯に、
彼らは移動を始めたのでしょうか。
その理由として考えられるのは、
何よりもまず、弟子たちが
群衆と離れたかったからでしょう。
きょう読んだ物語の直前に記録されているのは、
イエスさまが5つのパンと2匹の魚を用いて、
五千人以上の人びとに食べ物を与え、
大勢の人たちを養った場面です。
イエスさまが起こした奇跡を
目の当たりにした人びとは、
騒ぎ出しました。
「この人こそ、預言者だ!」
「彼こそが、王となるにふさわしい人だ!」
といったように。
けれども、イエスさまは彼らの願うような、
力のある王さまになることなど望んでいません。
ですから、イエスさまは
群衆のその熱狂に巻き込まれないよう、
彼らから遠く離れていきました。
残された弟子たちだって、
イエスさま本人が望んでいないことに、
イエスさまを巻き込むわけにはいきません。
群衆のその熱狂に
自分たちも加わるわけにもいきません。
ですから、弟子たちもまた、
イエスさまと同じように、
群衆のそばを離れていこうとしたのでしょう。
群衆から離れて行ったイエスさまが、
最終的にどこへ向かうのか、
弟子たちはある程度予想がつきました。
ガリラヤでの活動において、
イエスさまが拠点としていたのは、
カファルナウムという場所でした。
ですから、弟子たちもカファルナウムに向かって、
イエスさまと合流しようとしたのでしょう。
日が沈む頃に移動すれば、
イエスさまとまた会うために、
自分たちに着いてくる人たちは
そう多くはないはずです。
ですから、彼らにとって、
日が暮れる頃は、
群衆から離れる時間帯としては、
ちょうど良い時だったのだと思います。
ただ、それにしても、暗い中での
舟での移動を選ぶことは、
どうしても躊躇してしまいそうです。
それなのに、日が暮れた後、夜の闇の中、
彼らが移動することができたのは、
弟子たちのうち何人かは、
もともとガリラヤ湖で漁師をしていたためです。
そう、彼らにとって、
この場所はよく知っている場所でした。
他の福音書の記述を読む限り、
彼らは夜中に漁をしていたようです。
わたしは釣りはしないので、
魚をとることにかんして詳しくはありません。
ただ、調べてみた限り、
昼夜問わず釣りをすることはできますが、
釣りをする上で、外せない時間帯と言われるのは、
早朝と夕方の薄暗い時間帯みたいです。
つまり、日の出前後や、日の入り前後の時間帯です。
漁師をしていたならば、
そのような知識の積み重ねだって
あったことでしょう。
日が暮れる頃に舟に乗って、
夜になっても舟で移動を続けることがあるのは、
漁師をしていたならば、
十分にあり得たことだったのでしょう。
また、とった魚を人びとの生活時間帯に
新鮮な状態で売りに出そうとするならば、
たしかに、漁は夜中か
明け方にすることになるでしょう。
そう考えると、
元漁師であった弟子たちにとって、
暗い時間にガリラヤ湖で舟に乗ることは、
慣れきったことであったのでしょう。
でも、そんな彼らにとって
慣れきった時間帯の舟での移動中に、
トラブルが訪れます。
ガリラヤ湖に突然、予期せぬ嵐が訪れます。
強い風が吹き、湖は荒れ始めました。
同じ出来事を取り扱っている他の福音書では、
イエスさまの弟子たちは
この嵐に命の危険を感じています。
でも、ヨハネによる福音書は、
弟子たちのそのような様子については、
まったく触れません。
ただただ、嵐が訪れたこと。
闇であったこと。
そして、イエスさまがそばにいなかったこと。
この3つを挙げるだけです。
何も、このときの弟子たちは
まったく恐れてはいなかった、
と言いたいのではないのでしょう。
ヨハネの関心は、弟子たちの恐れではなく、
イエスさまの弟子たちが、
闇の中、嵐に巻き込まれ、
イエスさまがそばにいないように思える。
そんな状況に彼らが置かれていることを
あるがままに、淡々と表現することにありました。
なぜヨハネ福音書は、
弟子たちの嵐に対する恐れを
記録しなかったのでしょうか。
それはきっと、この時の弟子たちの経験は何も、
イエスさまの弟子たちだけが
経験するようなものではないからでしょう。
この福音書を読む人びとに、
自分たち自身を見つめてほしいから、
弟子たちの言動よりも、
彼らが巻き込まれた状況を
描くことにしているのでしょう。
闇の中で、嵐に巻き込まれています。
水は命を与えず、
寧ろ、自分たちに襲いかかってきます。
イエスさまはそばにいないように思えます。
舟は自分で漕ぐことは出来るかもしれないけど、
風や波に翻弄されるばかりで、
思った方向に進むことができません。
あなたにも、こういったことがあるでしょ?
自分の力ではどうにもならないときが。
闇の中を進んでいるように思えるときが。
周りから吹く強い風や大きな波に弄ばれ、
まったく抵抗できないでいるときが。
弟子たちのこのときの声に耳を傾けるのではなく、
あなた自身の声に耳を傾けてほしい。
ヨハネはそのようなスタンスで
この物語を紹介しているかのようです。
そのような嵐に巻き込まれ、闇に覆われる中で、
一体どういった希望があるのかを
ヨハネはわたしたちに
この物語を通して伝えています。
ヨハネ福音書に記されたこの物語で、
弟子たちは、イエスさまのみを
恐れたように書かれています。
実際のところ、嵐や荒れ狂う湖に
彼らは恐れを覚えたでしょう。
でも、弟子たちはイエスさまのみに対して、
恐れを抱いたとヨハネが描くのは、
何よりもイエスさまを見つめることが大切だと、
伝えたいからに他なりません。
弟子たちは、きっと、最初は
水の上を歩くイエスさまを見て、
幽霊のように思えて恐れたのでしょう。
でも、イエスさまが近づいてきたと知ると、
彼らはイエスさまを舟の中へと迎え入れようとします。
嵐の中での、そして闇の中での希望が
イエス・キリストなのだと、
ヨハネはこの物語を通して、
わたしたちに伝えているかのようです。
イエスさまを舟の中へと迎え入れようとしたとき、
何が起こったのでしょうか。
イエスさまの奇跡について語る、
福音書のさまざまな物語を知れば知るほど、
わたしたちは期待してしまいます。
イエスさまを迎え入れれば、
この嵐はやみ、荒れ狂う湖は
平穏な状態におさまるのではないか、と。
でも、この物語は、
わたしたちの期待通りには終わりません。
弟子たちがイエスさまを舟の中へ迎え入れる前に、
不思議なことに、舟は目的地にたどり着きます。
嵐がすぐにおさまったとも、ヨハネは言いません。
波がなくなるとも言いません。
闇がすぐになくなり、光に包まれるとも言いません。
嵐は吹き荒れるし、闇は闇のままです。
でも、イエスさまは弟子たちのもとに訪れ、
不思議なことに、舟は目的地にたどり着くと、
ヨハネはわたしたちに伝えます。
こうやって読んでみると、
ヨハネがわたしたちに伝えるこの物語は、
まさにわたしたちの身にも起こり得ることを
象徴的に伝えているかのようです。
たしかに、ヨハネがこの物語を通して描くように、
嵐が続き、闇で覆われているように感じる時が
わたしたちの人生の中で何度も訪れるからです。
それは病気かもしれないし、
人間関係かもしれません。
挫折を味わう時かもしれません。
家族や仲間たちが苦しんでいるのに、
自分は何も出来ずに
一緒にいることしか出来ない時かもしれません。
ヨハネがわたしたちに紹介する物語は、
そんな嵐や闇の中を抵抗できずに、
舟で旅をするようなわたしたちのもとに、
イエスさまが近づいてくると、
イエスさまの姿を希望として紹介しています。
嵐の中でも、闇の中でも、
わたしたちが無力で、抵抗できないときにも、
イエスさまはいつもわたしたちと
一緒にいようとしてくださいます。
嵐の中でも、闇の中でも、
「私だ。恐れることはない」とわたしたちに語りかけ、
イエスさまはわたしたちに近づいてくださいます。
でも、だからといって、
イエスさまがそばにいさえすれば、
イエスさまを信じてさえいれば、
嵐や闇がすぐに消え去るといった、
楽観的な結末が待っているわけではありません。
この物語で、嵐はやみません。
闇も消え去るわけではありません。
けれども、たしかに舟は目的地に向かっていました。
荒れ狂う風や大雨にさらされ、
波に流されるままでしかなかったこの舟は、
イエスさまを迎え入れようとした時、
目的地にたどり着いています。
それはまるで、
わたしたちの人生に、
どれほど大きな嵐が起こったとしても、
どれほど自分の力では
抵抗できない状況が訪れたとしても、
わたしたちがたどり着くべき場所に、
イエスさまが導いてくださっていることを
証言し、希望として示しているかのようです。
人生の嵐の中で、闇の中で、
抵抗できない波に晒されている中で、
イエスさまはわたしたちに語りかけます。
「私だ。恐れることはない」と。
嵐は何度も訪れるのかもしれません。
闇は闇のまま続くのかもしれません。
これからも抵抗できない波に
晒される日々がやってくるのかもしれません。
でも、たしかなことは、
イエスさまはわたしたちの人生の船旅に、
近づいて、その旅に伴ってくださいます。
そして、確実に、
わたしたちを目的地へと導いてくださいます。
わたしたちの目的地はどこにあるのでしょうか。
それは、成功を積み重ねることではありません。
社会的な地位を築いていくことでもありません。
より良い自分になることでもありません。
世間が幸せと判断し、称賛する価値観を
追求していくことでもありません。
わたしたちが目指す場所は、天の御国です。
天の御国においてこそ、
愛する人たちとの豊かな交わりがあるからです。
天の御国においてこそ、
神との豊かな、
いのちに溢れる交わりがあるからです。
天の御国においてこそ、
この地上を覆う争いが過ぎ去り、
神が与えてくださる愛や平和を
心から喜ぶことができるからです。
きょうも、これからも、わたしたちは
天の御国を目指して船旅を続けていきます。
わたしたちの乗る舟は、
一人乗りじゃありません。
自分の家族だけを乗せる舟でもありません。
わたしたちは、教会の仲間たちと一緒にこの舟に乗り、
天の御国を目指しています。
嵐に巻き込まれ、闇に覆われて、
悲しみ苦しんでいる人たちがいるなら、
ここに招きながら、わたしたちは旅を続けていきます。
大きな波に揺らされ、震える人たちがいるなら、
一緒に励まし合ってこの旅を続けていきます。
天の御国へと向かう船旅を
わたしたちはこれからも続けていきましょう。
嵐の時も、闇に覆われる時も、
大きな波に揺らされ、
不安や恐怖を覚えるような時にも。
「私だ。恐れることはない」と語りかけてくださる、
主イエスの声に耳を傾け、天の御国に希望を抱きながら。