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朗読箇所

三位一体後第16主日

旧約 出エジプト記 16:1–5

◆マナ
1 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。
2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。
3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。
5 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」


新約 ヨハネによる福音書 6:26–35


26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

説教

わたしたちのマナ、イエス・キリスト

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    食べることは、誰にとっても、
    生きる上で欠かせない大切なことです。
    食べることによって、
    わたしたちは栄養を身体に取り入れます。
    特にこどもたちにとっては、
    身体の成長に不可欠です。
    大人になっても、その日を生きるのに、
    必要なエネルギーや栄養を
    身体に取り入れるため、
    適度な食事は
    絶対に欠かすことはできません。
    食生活が乱れると、
    少しずつ、身体の不調が目立ってきます。
    ただ、わたしたちは、自分の身体のためだけに
    食べるのではありませんね。
    落ち込んでるときや、身体が疲れているとき、
    温かい食事は、わたしたちの心や身体を
    癒やし、元気づけ、活力を与えてくれます。
    また、友人や家族と一緒に食べることは、
    楽しいひとときを与えてくれます。
    だから、毎月一回、礼拝の後に持たれている、
    教会役員会でも、ピクニックや全体会のときに、
    何を食べるのかは、とても重要な議題です。
    一緒に何かを食べて、同じ時間を過ごすことは、
    教会の交わりを豊かなものにしてくれると、
    わたしたちは強く実感しているからです。
    ですから、身体の健康や成長のためだけでなく、
    心の健康のため、喜びや楽しみ、
    豊かな交わりのために、
    わたしたちは食べ物を食べます。

    このように、食べることは誰にとっても、
    とても大切なことです。
    ですから、イエスさまが群衆に語りかけた言葉に、
    少しばかり不思議な印象を受けます。
    イエスさまは言いました。
    「朽ちる食べ物のためではなく、
    いつまでもとどまって、永遠の命に至る
    食べ物のために働きなさい」(6:27)と。
    わたしたちが日常的に食べる食べ物は、
    食べないままでおいたら、
    腐り果ててしまいます。
    いや、食べても身体に栄養を取り込まれて、
    不必要な分は身体の外に排出されます。
    その意味で、
    わたしたちが日常的に食べるものは、
    イエスさまがここで言う、
    朽ちて、なくなってしまう食べ物なのでしょう。
    でも、わたしたちの普段の働きはやはり、
    食べる物を手に入れるためのものです。
    そもそも、食べ物がなければ、
    誰も生きていくことは出来ませんから、
    朽ちる食べ物は大切です。
    そのため、永遠の命に至る
    食べ物のために働くことと、
    わたしたちが生きるうえで
    決して欠かせない食べ物のために働くことを
    わざわざ比較する必要があるものなのかと、
    疑問を抱いてしまいます。

    そもそも永遠の命に至る食べ物って、
    何なのでしょうか。
    イエスさまは具体的な食べ物を
    示しているわけではありません。
    というのも、イエスさまが語る、
    永遠の命に至る食べ物は、
    比喩表現だからです。
    だって、最終的には、
    「わたしが命のパンである」(6:35)と言った、
    イエスさまご自身を示す言葉として、
    永遠の命に至る食べ物という言葉は、
    使われているわけですから。
    文字通り、イエスさまをパンにして食べてください、
    と言っているわけでは当然ありません。
    パンは、イエスさまが生きた地域で
    暮らす人びとにとって、
    とても日常的なものでした。[a]
    パンは、毎日必要なものです。
    わたしたちの身体が食べ物を
    毎日のように必要とするように、
    イエス・キリストがわたしたちには必要です。
    食べ物を毎日必要とするように、
    神から受ける愛や憐れみが
    わたしたちには必要です。
    神から養われ、神の守りの中を歩むことが、
    わたしたちには必要です。
    どんなときも、神がわたしたちと共に
    歩んでくださることを思い起こすために、
    わたしたちにはイエスさまが必要です。
    だからイエスさまは、
    永遠の命に至る食べ物のために働くことは、
    神が遣わした者を、つまりイエスさまのことを
    信頼することだよと伝えました。

    そう考えると、そもそも
    日常的な食事のために働くことと、
    イエスさまを信頼して歩んでいくことは、
    対立させる必要のないものです。
    だって、わたしたちにとって
    どちらも必要なことなのですから。
    それなのに、イエスさまが
    永遠の命に至る食べ物のために働くようにと、
    実際の食事ではない何かを強調して、
    その場にいた人びとに語りかけたのは、
    なぜなのでしょうか。
    それは、イエスさまと対話をしていた人びとが、
    5つのパンと2匹の魚を用いて、
    五千人以上の人びとを養った
    イエスさまの姿を見ていたことと関係があります。
    わずかな食料を用いて人びとを養うことによって、
    イエスさまは、その場にいた人たちに
    見つめさせたかったものがあったはずです。
    でも、残念ながら、イエスさまの奇跡を見た人たちは、
    大勢の人たちを養うイエスさまの姿を見て、
    イエスさまのことを自分たちの望む王や
    預言者のような存在だと思い込みました。
    実際、彼らにとって、
    大勢の人たちを養う
    奇跡を起こすイエスさまのその姿は、
    まるで、イスラエルの民が
    荒野をさまよい、旅していた時代に、
    イスラエルの民の指導者であった
    モーセのように思えました。
    さきほど読んだ出エジプト記の物語によれば、
    モーセを通して、神はイスラエルの民に
    マナと呼ばれるパンを与えることを伝え、
    大勢のイスラエルの民を養い続けました。
    まさに、そんなモーセの姿と
    イエスさまの姿が
    重なり合うように思えたのでしょう。
    モーセの時代、マナはイスラエルの民に、
    ただ一度だけ与えられたものではありませんでした。
    神は一週間のうち、
    6日間マナを彼らに与え続けました。
    それが、40年もの間、
    イスラエルの民が約束の地にたどり着くまで、
    ずっと続きました。
    だから、彼らはイスラエルの民に
    マナが与えられた出来事を
    引き合いに出しながら、
    イエスさまに尋ねます。
    「あなたを信じることができるように、
    どんなしるしを行ってくださいますか」。
    彼らはそう言って、
    イエスさまにまた同じような奇跡を
    起こしてほしいと願い続けました。
    モーセのように、何度も、
    大勢の人びとを養う姿を見せてほしい、と。
    でも、イエスさまはその場にいた人びとの
    そのような要求には応えませんでした。
    「自分はモーセのような存在だ」だとか、
    「わたしこそが、あなたたちが思い描いている
    理想のメシアだ」といったような形で、
    イエスさまは自分自身のことを
    示そうとはしませんでした。
    イエスさまが自分自身のことを
    人びとに示す方法は、
    モーセのように大勢の人びとを
    養うことではありませんでした。
    そうではなく、神が大勢の人びとを養うために、
    イスラエルの民にマナを与え続けたように、
    すべての人を養い、命を与え続けるのが
    イエスさまご自身でした。
    ですから、イエスさまが言いたいのは、
    イエスさまがすべての人を養う、
    マナを与え続ける、ということではありません。
    むしろ、イエスさま自身がマナとして与えられ、
    すべての人を養うのです。

    イエスさまがマナであるということは、
    一体どういうことを意味するのでしょうか。
    イスラエルの民が荒野で生活をしていたとき、
    マナは6日間、彼らに与えられました。
    それは一週間のうち、
    働いている6日間だけ、
    その労働の対価として、
    神が人びとを養う
    というものではありませんでした。
    働いていない残りの1日の分は、
    6日目に集めました。
    つまり、6日目には2日分のマナを彼らは集め、
    彼らはそれを食べることができました。
    ですから、マナは、イスラエルの民にとって、
    活動的なときも、身体を休めているときも、
    あらゆるどんな時も、
    神が自分たちを見放さないしるしでした。
    そして、神が必ずイスラエルの民を養い、
    約束の地に至るまで、
    彼らの旅を守り導くことを保証するものでした。
    だから、イスラエルの民が荒野を旅していたとき、
    マナは、決して、お腹を満たすためだけのものとして
    与えられたわけではありませんでした。
    マナは、イスラエルの民を
    神との交わりへと導くためのものでした。
    マナは、彼らを神の民へと養い、
    育てるためのものであり、
    神の愛と憐れみのしるしでした。
    マナは、旅を通して、
    この食べ物を与えられたイスラエルの民にとって、
    神への信頼が育まれるためのものでした。

    そうだとすれば、イエスさまが
    自分自身とマナを重ね合わせて
    紹介していることの意味は明らかです。
    マナによってイスラエルの民を養い、
    彼らの旅を最後まで導いたように、
    神はイエスさまを通して、
    わたしたちを養い、
    わたしたちの生涯の旅路を最後まで、
    天の御国に至るまで導こうとしておられます。
    マナが常に彼らの手元にあったように、
    イエスさまは常にわたしたちと共にいてくださいます。
    神がイスラエルの民に対する
    愛と憐れみのしるしとしてマナを与えたように、
    イエスさまを通して、神は愛と憐れみを
    いつもわたしたちに注いでくださっています。

    このように、イエスさまがいつも
    命を与えるマナのように、
    わたしたちの生涯の旅路に
    伴ってくださるというのならば、
    わたしたちは自分たちの生き方を
    ふたつに分ける必要なんてありません。
    それは、朽ちる食べ物のために働くことと、
    永遠の生命に至る食べ物のために働くという、
    ふたつの分け方です。
    だって、イエスさまが伴ってくださる、
    わたしたちの歩む道はすべて、
    天の御国を目指すための道だからです。
    そうであるならば、その旅路を歩むわたしたちの、
    どんな小さな働きも、どんなに些細な行動も、
    永遠の生命に至る食べ物のための
    働きと言えるのではないでしょうか。
    地道に日々の仕事を行うときも、
    畑や庭の手入れをするときも、
    家の家事や買い物をするときも、
    誰かを気遣って連絡をとるときも、
    誰かのために祈るときも、
    どのようなときも、
    天の御国を目指すわたしたちにとって、
    永遠の生命に至る食べ物のための働きです。
    これからも続く、天の御国へと続く旅路において、
    イエスさまはわたしたちのマナとして、
    わたしたちを支え、養い、
    導きを与えてくださいます。
    そして、わたしたちのマナは、
    わたしたちだけのためのマナではありません。
    だからこそ、この世界のすべての人びとにとって、
    マナである、イエス・キリストのもとに
    命と潤い、愛と憐れみ、
    そして赦しと平和があることを
    わたしたちはすこしでも、
    この世界に分かち合いながら、
    これからも信仰の旅路を
    一緒に歩んで行きましょう。

週報より

  • 2024.09.15 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは午後1時半から地区協議会がオンライン開催されます。
    基嗣牧師が出席予定です。

    ② 9月29日(日)に教会全体会を開催いたします。
    教会への要望、取り組みたいこと、将来の夢、ビジョンなど、
    みんなで話し合いたいことがありましたら、牧師にお知らせください。
    当日は全体会の前にランチの会も予定しています。出席をぜひご予定ください。

    ③ 9月は教会教育月間です。
    ナザレン教会の教会教育の働きのための献金にご協力お願いします。
    献金袋は受付テーブルにあります。

    ④ 11日(水)に教会入口の看板が新しくなりました。

    ⑤ 月報『モレノ』の製本を礼拝の後におこないます。
    ご協力いただける方はよろしくお願いいたします。
    また、来週の礼拝後はモレノ編集会を予定しています。
    絵、原稿、写真などを寄稿していただける方はお知らせください。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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