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朗読箇所

三位一体後第17主日

旧約 イザヤ書 55:1–7

◆御言葉の力
1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い
飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば
良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
3 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
4 見よ
かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし
諸国民の指導者、統治者とした。
5 今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は
あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主
あなたに輝きを与えられる
イスラエルの聖なる神のゆえに。
6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
7 神に逆らう者はその道を離れ
悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば
豊かに赦してくださる。


新約 ヨハネによる福音書 6:34–40


34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

説教

復活のいのちを分かち合う

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    みなさんは、自分のことを
    どんな風に紹介するでしょうか。
    初めて会った人たちに対してだったら、
    もちろん、名前を伝えるでしょうね。
    でも、お互いの名前を
    すでに知り合っている場であれば、
    紹介する方法も少し変わってきます。
    できればその場にいる人たちが
    知らない情報を伝えようと
    多くの人は考えるでしょう。
    もしも進行役がその場にいるならば、
    気を利かせて、何か答えられる質問を
    用意してくれるかもしれません。
    「自分を動物にたとえたら、
    何の動物だと思いますか?」といったように。
    ただ、こういった質問って、
    答えるのが難しいものです。
    自分のことをよくわかっている必要があるからです。
    自分は何が好きなのか。
    自分はどういった生活をしているのか。
    どういった行動をするのか。
    どんな性格をしているのか。
    また、そんな自分にぴったりな動物は
    何なのかという知識も必要になりますね。
    そういったことが、自分を動物にたとえる上での
    手がかりになると思います。

    ヨハネによる福音書を読むと、
    イエスさまが何度も自分のことについて
    話していることに気づきます。
    その上、イエスさまは自分から進んで、
    人びとが日常的に親しんでいるものを
    比喩として用いて、
    自分のことを紹介しています。
    きょう開いたヨハネ福音書の言葉によれば、
    イエスさまはパンに自分をたとえています。
    他にもイエスさまは自分のことを
    光、道、門、羊飼い、ぶどうの木にたとえて、
    自分を表現しています。
    イエスさまが語る
    これらひとつひとつのものは、
    特に珍しいものではないので、
    わたしたちも簡単に想像しながら、
    イエスさまの話に耳を傾けることができます。
    比喩を用いた表現は、
    イエスさまの言葉に耳を傾ける
    わたしたちの想像力を膨らませます。
    イエスさまが自分のことをたとえるとき、
    その比喩表現は、いろいろな連想へと
    わたしたちを導きます。

    「わたしは命のパンである」と語る
    イエスさまの言葉を聞いたときから、
    「パンって自分にとってどんなものだろうか」、
    「パンに自分をたとえるイエスさまは、
    一体どんな人なのだろうか」といったことが、
    頭にすぐさま浮かんできます。
    イエスさまが、自分はこういう存在なんだよと、
    はっきりと言わなかったからこそ、
    わたしたちはイエスさまについて思い巡らします。
    イエスさまって、どういう人だったのだろうかと
    「いのちのパンである」という言葉を手がかりにして、
    何度も何度も考え、想像を膨らませます。
    もしもイエスさまが自分のことについて、
    このような比喩を用いないで、簡潔に、
    わかりやすく自分のことを伝えていたならば
    「へー、そうなんだね」と言って、
    わたしたちはイエスさまのことを
    知ったつもりになっていたかもしれません。
    いや、イエスさまのことをもうそれ以上、
    知ろうともしなかったかもしれません。

    パンは、イエスさまの言葉を
    聞いていた人たちにとって、
    どのようなものだったのでしょうか。
    彼らにとって、パンはとても高価で、
    手に入らないもの
    というわけではありませんでした。
    彼らにとって、パンは
    日常的に食べる食べ物でした。
    毎日、手元にあるべきものでした。
    自分の命を支えるため、
    家族や仲間たちの健康を支えるため、
    パンは決して欠かせないものでした。
    ですから、「私はいのちのパンである」という、
    イエスさまの言葉は、
    すべての人にイエスさまが必要であることを
    伝えるような言葉として聞こえてきます。
    パンのように、わたしたちに命を与え、
    パンのように、わたしたちの命を保ってくれる。
    パンのように、わたしたちの生活にあって当たり前。
    イエスさまはわたしたちにとって、
    そのような存在です。
    パンによって身体の力を得るように、
    イエスさまが語りかけてくださる言葉を通して、
    わたしたちの心や魂は力を得ます。
    パンがわたしたちの命を支えるために、
    わたしたちの日常にいつもそばにあるように、
    神の子であるイエスさまは、
    わたしたちといつも一緒にいてくださいます。
    それによって、神はいつもわたしたちの日常に伴い、
    わたしたちはいつも神との交わりの中で
    生きることができます。
    そのような形でわたしたちに
    命を与えてくださるイエスさまは、
    まさに、いのちのパンです。

    このように、イエスさまが
    いのちのパンであるという言葉から、
    わたしたちは色々と思い巡らし、
    イエスさまがわたしたちにとって、
    どのような存在であるのかを
    知ることができます。
    もちろん、イエスさまは
    自分のことを比喩的に表現して、
    あとの解釈は任せたと、
    完全に言いっぱなしで
    終わることはしませんでした。
    「私はいのちのパンである」と語った
    イエスさまの言葉を理解するための
    手がかりを少しばかり残してくれています。
    それは、「終わりの日に復活させる」、
    そして、「永遠の命を得る」といった
    イエスさまの言葉です。
    いのちのパンであるイエスさまは、
    その場かぎりの命のみをわたしたちに
    与えているわけではないみたいですね。
    むしろ、これから先も、
    わたしたち一人ひとりの命が尽きるまで、
    その生涯の終わりに至るまで、
    イエスさまを通して神が
    わたしたちを養ってくださることを
    思い起こさせます。
    いえ、イエスさまが与えるいのちとは、
    それ以上のものです。
    イエスさまは、わたしたちに
    復活のいのちを与えるパンです。
    食べ物がいつも変わらずに
    自分の手元にあったとしても、
    誰にとっても死は決して
    逃れることができないものです。
    けれども、神がイエスさまを通して、
    復活のいのちを与えてくださいます。
    それは、すべての人にとっての
    希望となりうる言葉です。
    だって、イエスさまは誰のことも
    見捨てようなどとはしていないからです。
    すべての人を命に招き、
    すべての人に、復活の命を
    分かち合おうとしておられます。
    その意味で、神が与え続ける
    天からのパンを求めて、
    「そのパンをいつもわたしたちにください」と
    イエスさまにお願いをした人びとに対して、
    イエスさまは彼らが望んでいた以上のものを
    紹介しているといえるでしょう。
    神からの恵みを受けられるのは、
    今この時だけではありません。
    そうではなく、これからも、
    あなたが死を迎えた
    その瞬間も、その後も、
    神はいのちを与えるために、
    復活のいのちを注ぐためのパンを
    わたしたちに与えてくださる。
    イエスさまはそんな風に、
    確かな約束を語っておられます。

    ところで、復活のいのちを
    与えるパンであるイエスさまは、
    いつわたしたちのもとに来たのでしょうか。
    そうですね。
    イエスさまはもう既に、わたしたちのもとに、
    来てくださっています。
    その意味で、わたしたちはもう既に、
    復活のいのちのパンであるイエスさまを
    受け取っているということになります。
    それは、とても不思議なことだと思いませんか。
    だって、神が将来、わたしたちに
    再びいのちを与えるタイミングで、
    死者をよみがえらせるそのタイミングで、
    神がいのちのパンを与える、
    といった言い方だってできたはずです。
    でも、そのような言い回しを
    イエスさまがしなかったのは、
    復活のいのちをわたしたちに与える
    いのちのパンであるイエスさまが、
    既にわたしたちのもとに来て、いのちを注ぎ、
    わたしたちに復活のいのちを
    分かち合ってくださっているからです。
    神は、イエスさまを通して、
    遠い未来ではなく、今、既に、
    わたしたちに対して復活の命を
    分かち合ってくださっています。
    それは、わたしたちが復活の望みを
    今、たしかに持っていることを
    わたしたちが喜ぶためだけではありません。
    すべての命の源である神は、
    将来、命の息を吹きかけるだけでは満足できません。
    いのちのパンであるイエスさまを通して、
    今、この時も、すべてのものを生かし、
    すべてのものに命の息を吹きかけ、
    命を豊かに用いようとしておられます。

    それは、今この時を生きるわたしたちにとって、
    わたしたちの生きるこの世界にとって、
    とても大きな希望です。
    というのも、
    わたしたち個人にも、家庭の中にも、
    職場や学校、この社会のあらゆる場所、
    世界の隅々に至るまでに
    いのちを傷つける出来事が
    溢れているからです。
    わたしたちは悲しいほどに、
    自分の命や生活さえ保てれば、
    他の誰かが傷ついても構わないという、
    自己中心的なかたちで、
    いのちを保とうとしてしまいます。
    受けた暴力をそのまま、
    いやそれ以上のものにして相手を傷つけて、
    自分のいのちを保つような論理で、
    この世界が動いているように思えてなりません。
    また、他の人から過剰に奪って、
    自分たちのいのちを保っていくような
    目に見えない搾取に支えられて、
    社会が成り立っているのが、
    わたしたちの世界の現実です。
    いのちが傷ついているのは、
    わたしたち人間だけではありません。
    気候変動や水質汚染、
    その影響による災害や健康被害を見聞きし、経験し、
    絶滅の危機にある
    動物たちのリストなどを見つめるたびに、
    わたしたち人間がこの世界のいのちを
    傷つけてしまっている事実から、
    目を背けることはできません。
    無意識的に、無自覚に、
    そんな風にお互いのいのちを
    傷つけてしまうわたしたちに、
    今、いのちが損なわれているこの世界に、
    イエスさまは復活の命を与えるパンとして、
    今、すでにわたしたちのもとに来てくださっています。
    イエスさまがいのちのパンとして
    わたしたちのもとに来たのは、
    いのちを傷つけ合う世界のあり方を
    わたしたちがこのまま永遠に
    続けるためではありません。
    むしろ、この世界が、
    この世界で生きるわたしたちが、
    奪い合い、傷つけ合い、憎しみ合い、
    自分よりも弱い人たちを踏みにじり、
    命を蔑ろにすることをやめて、
    お互いのいのちを尊重し、
    いのちを回復する道を歩んでいくためです。
    そのために、イエスさまはいのちのパンとして
    わたしたちのもとに来てくださいました。
    だから、イエスさまは、
    自分がいのちのパンであると
    人びとに伝えるその前に、
    大勢の人たちのために
    パンを分かち合いました。
    イエスさまがパンを分かち合うその姿はまるで、
    わたしたちのお互いのいのちは、
    奪い合い、傷つけ合うためにあるのではなく、
    与え合い、分かち合い、
    支え合うためにあるんだよと、
    伝えているかのようです。

    いのちのパンであるイエスさまを通して、
    わたしたちには今、いのちが注がれています。
    それは、復活の希望に満ちたいのちです。
    どうか、イエスさまから与えられている
    この復活の希望にあふれる命を
    少しずつこの世界に、
    みなさんが分かち合っていくことができますように。

週報より

  • 2024.09.22 週報より抜粋・要約

  • ① 月報 『モレノ』 10月号が完成しました。
    ご協力くださったみなさま、ありがとうございました。

    ② きょうは礼拝後に月報 『モレノ』の編集会をおこないます。
    モレノチームのみなさま、よろしくお願いいたします。
    月報への絵、原稿、写真などの寄稿はいつでも募集しています。
    寄稿をしていただける方は牧師までお知らせください。

    ③ 9月29日(日)に教会全体会を開催いたします。
    教会への要望、取り組みたいこと、将来の夢、ビジョンなど、
    みんなで話し合いたいことがありましたら、牧師にお知らせください。
    当日は全体会の前にランチの会も予定しています。出席をぜひご予定ください。
    教会全体会の資料は週報棚に入れておきましたので、ご確認ください。

    ④ あす23日は、午後1時30分より関東地区秋季聖会が目黒教会で開催されます。
    説教者は、本町教会牧師の森本育子先生です。
    ライブ配信でのご視聴を希望される方は、下記よりご視聴ください。
    https://www.youtube.com/watch?v=EB8cO1WnEtc
    聖会後に、神学校教授会が開催されます。基嗣牧師が出席予定です。

    ⑤ 毎年恒例のピクニックを10月20日(日)の礼拝後、祈りの家で予定しています。
    大体の人数把握のため、現時点で参加をご希望の方は
    受付テーブルに置いてある用紙にお名前をご記入ください。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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