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朗読箇所

三位一体後第18主日

旧約 出エジプト記 16:1–10

◆マナ
1 イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。
2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。
3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。
5 ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」
6 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、
7 朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。」
8 モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。」
9 モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、
10 アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。


新約 ヨハネによる福音書 6:41–51


41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
48 わたしは命のパンである。
49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

説教

神に向かって叫べ

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    「彼らはぶつぶつ言っていた」。
    きょうのヨハネ福音書の物語は、
    新約聖書がもともと書かれた、
    ギリシア語で読んでみると、
    このように始まっています。
    「ぶつぶつ言う」という意味の単語を
    一番最初に記すことによって、
    イエスさまの前に集まっていた人たちが、
    不平不満をぶつぶつ呟いていた様子を
    ヨハネは強調しています。
    イエスさまが「つぶやき合うのはやめなさい」と
    その場に集まっている人たちに
    向かって語ったことから、
    彼らはイエスさまに直接、
    不平や不満を伝えていたのではなく、
    お互いにイエスさまについての
    不平不満を共有して、
    一緒にぶつぶつ言っていたことがわかります。
    「このイエスという男が、自分のことを
    天から下ってきたパンという理由がわからない」。
    「この人は、自分のことを
    何者だと思っているのだろうか?」
    「え、あの人って、
    ヨセフとマリアの息子だろ?」
    「あのナザレという小さな村から来たやつだぞ?」
    「一体、何を言っているんだ?」
    そんな風に、イエスさまの話を聞いていた人たちは
    お互いにぶつぶつとつぶやき合っていました。

    イエスさまは、誰もが簡単に受け入れ、
    誰もが喜んで聞くようなことばかりを
    いつも話していたわけではありませんでした。
    神殿で商売が行われていることを
    批判したこともありました。
    自分と神を同一視する発言をして、
    他のユダヤ人たちの怒りを
    買うこともありました。
    そしてこのときは、
    「わたしは命のパンである」と、
    意味深なことを語り、
    人びとを混乱させていました。
    ですから、イエスさまの言葉を聞いた人たちが、
    それを聞いて拒絶したり、
    こんな風にぶつぶつと呟くのは、
    割といつも通りの光景だったかもしれません。
    そう考えると、この場で
    ぶつぶつと呟いている人たちは、
    イエスさまにその不満を直接
    ぶつけているわけではないので、
    簡単に無視することだってできたはずです。
    それなのに、イエスさまがこのとき、
    わざわざぶつぶつとお互いに呟き合っている
    彼らの不平不満を拾い、
    彼らに応答しようとしたのはなぜなのでしょうか。

    イエスさまが優しく、誠実な人だったから?
    できる限りたくさんの人と
    イエスさまが向き合おうとしていたから?
    そういった理由もあったかもしれませんね。
    けれども、他にもっと大きな理由がありました。
    パンについての話を始めてから、
    イエスさまは一貫して、
    旧約聖書の時代にイスラエルの民が
    荒野を旅したときの経験を
    思い起こさせようとしています。
    神が与えるいのちのパンの話を
    イエスさまがしたときに、
    お互いにつぶやき合って、
    不平不満を言っている彼らの姿は、
    あの当時のイスラエルの民の姿と
    重なって見えたのでしょう。

    たしかに、旧約聖書の時代、
    荒野をさまようイスラエルの民が
    不満を抱いたのも無理はありません。
    エジプトで労働を強いられ、
    虐げられていたときも、
    飢え渇く心配をすることなく、
    彼らは十分に食べることができたようです。
    でも、エジプトから解放された今、
    自由を手に入れた代わりに、
    食べ物や水を手に入れることに不安が残りました。
    いえ、十分な食料が手に入りません。
    そのため、彼らは荒野で
    飢え死にする危険を感じました。
    だから、お互いに不平不満を共有し、
    彼らは自分たちの指導者であるモーセに
    抗議の声を上げました。
    そんなイスラエルの民に対して
    神はどのように関わったのか、というのが、
    イエスさまが何度か言及している、
    荒野を旅するイスラエルの民に
    神がマナという名のパンを与えたという話です。
    人びとがぶつぶつと不平不満を呟くのを聞いた神は、
    彼らがその不満を言葉にしないように、
    彼らを力でねじ伏せて、
    黙らせたわけではありませんでした。
    不平不満を抱いた人びとが
    ぶつぶつと言っているのを聞いた神は、
    イスラエルの民が置かれているその現状を憐れみ、
    彼らを天からのパンによって養い続けました。
    彼らがお互いに共有していたその不平不満が、
    モーセに伝えた不平不満が
    神に向けられた不満や不満として、
    神に届いたからです。
    同じように、わたしたちの日常的な不平や不満を
    神は聞いて、受け止めてくださいます。
    ですから、神はわたしたちに
    不平不満を言うなとはいいません。
    むしろ、叫び声を上げ、
    その不平や不満を届けてほしいと、
    神は願っておられます。
    愛と憐れみに満ちている神は、
    わたしたちの日々の不満や不満に、
    そして、そこから沸き起こってくる嘆きに
    真剣に耳を傾けてくださるお方だからです。

    だからこそ、イエスさまはこのとき、
    お互いにぶつぶつ言うなと
    人びとに向かって語りかけました。
    イエスさまは、このとき、
    イエスさまの話を聞いた彼らが心に抱いた
    不平や不満、戸惑いや怒りを
    自分や神にぶつけて欲しかったのでしょう。
    他の人たちと不満を共有するけれども、
    イエスさま本人には直接不満を語らない。
    その上、彼らは、イエスさまのことについて、
    表面的なことしか知りません。
    そういった関係性ではなく、
    直接語り合い、向き合って欲しいと
    イエスさまは彼らに対して
    願ったのではないでしょうか。
    実際、イスラエルの民が
    エジプトから解放されたとき、
    その大きなきっかけとなったのは、
    イスラエルの民が神に向かって
    叫んでいたからでした。
    その叫び声を聞いた神は
    イスラエルの民のために動き出し、
    彼らに憐れみを注ぎました。
    ですから、現状に不平や不満があるならば、
    神に向かって叫べば良いのです。
    神の介入を願って、神に叫ぶことこそ、
    神への信頼の証だからです。

    わたしたちは、毎週の礼拝を
    「わたしたちの救いは、
    天と地を造られた主から来る」という、
    ひとつの信仰告白から始めています。
    この言葉は、きょうの礼拝の中で
    一緒に声を合わせて読んだ
    詩編121篇の冒頭の言葉です。
    詩人はこの詩編の中で、
    神への信頼を歌い続けています。
    詩人は、神が昼も夜も、
    変わることなく、わたしたちを
    守ってくださると信頼しています。
    人生のどのような瞬間も、
    神の導きの中にあり、
    どのような状況の中に置かれたとしても、
    神はわたしたちの魂を見守ると、
    この詩人は神を信頼して歌っています。
    だから、わたしたちは不平不満を抱えるとき、
    怒りや不安や葛藤が沸き起こるとき、
    自分や周りの人たちに
    不平不満を言い続けることで、
    すべてを終わらせようとはしません。
    わたしたちの前には、
    神に向かって叫び声を上げる道が
    開かれているからです。
    それは、今の現状について、叫び声を上げ、
    神の介入を望む道です。
    それでも、神がわたしたちと共にいて、
    わたしたちに必要な助けを与えてくださるという
    神への信頼を表明する
    叫び声を上げながら歩んで行ける道です。

    ぶつぶつとお互いに言い合いたくなることは、
    わたしたちにとって、いくらでもあります。
    そんな場所にこそ、
    わたしたちは神の助けが必要です。
    神の養いが必要です。
    いのちが踏みにじられ、
    引き裂かれるような場所に、
    いのちを与え、豊かに生かすキリストが必要です。
    争いが止まらない、
    攻撃の手を止められないこの世界に、
    平和や憐れみを与えるキリストが必要です。
    神は叫び声を上げるわたしたちの声に
    耳を閉ざす方ではありません。
    だから、わたしたちは神を信頼して、
    いつでも、どのような時も、どこにいても、
    神に向かって叫ぶことができます。

    興味深いことに、
    イエスさまは永遠の命の望みについて語る中で、
    ぶつぶつ言うなという言葉を伝えています。
    わたしたちが天の御国へ向かって歩んでいる
    この信仰の旅路の中で、
    ぶつぶつと不平や不満を
    全く言わないなんてこと、ありえません。
    わたしたちは何度も、何度も、
    置かれている現状に対してつぶやくのでしょう。
    ですから、わたしたちが歩む
    天の御国へと向かっていくこの旅路は、
    いつも神に守られ、
    命のパンであるイエスさまによって、
    養われてるからいつでも安心だ、
    という話で済むようなものではないのは確かです。
    むしろ、不公平や不平等と
    出会うことの方がたくさんあるかもしれません。
    不正義や暴力がさまざまなかたちで
    この世界に、わたしたちの生きる社会や
    わたしたちの日常の中に、蔓延っていることに
    どれだけわたしたちは心を痛め、
    悲しみ、疲弊していることでしょうか。
    だからこそ、わたしたちの信仰の旅路において、
    神に向かって叫び続けることが必要です。
    それは、自分のためだけではありません。
    共に生きる誰かのために、
    わたしたちは神に向かって叫び声を上げます。
    この世界のために、
    わたしたちは神に向かって叫び声を上げながら、
    信仰の旅路を歩み続けていきます。
    わたしたちの叫びを聞いてくださる神は、
    わたしたちを遠くの方から
    見守るだけの方ではありません。
    いのちのパンであるイエスさまを
    わたしたちのもとにお送り、
    わたしたちのこの旅路に伴ってくださっています。
    それは、声にもならないわたしたちの叫び声を
    神がわたしたちの傍らで
    聞いてくださっているということです。
    叫び声を上げたイスラエルの民を救い出し、
    天からのパンによって彼らを養い続けた神は、
    叫び声を上げるわたしたちを決して見捨てません。
    最後まで、この旅を導いてくださいます。
    そして、独り子であるイエスさまを
    わたしたちのもとに送ったほどに、
    わたしたちを愛してくださった神は、
    きょうも、わたしたちを愛し、
    わたしたちの叫び声に耳を傾け続け、
    わたしたちに手を差し伸べようとしておられます。
    どうか、いのちのパンを与えてくださる
    天の神に信頼しながら、
    不平や不満が日常に押し寄せてくるときに、
    不安や怒りが心にあふれるときに、
    神に助けを求めて、叫び声を上げながら、
    この信仰の旅路を
    歩み続けていくことができますように。
    そして、そんなみなさんのもとに、
    いのちのパンが必要なときに、
    神がみなさんのもとに
    教会の交わりや周囲の仲間たちの助けを通して、
    時には思いもよらぬ手段を用いて、
    いのちのパンが訪れますように。

週報より

  • 2024.09.29 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後にランチの会、その後に全体会を開催します。
    ランチのメニューはセルフサービスのサンドイッチです。費用は無料です。
    その後の全体会では、今年度後半の行事の確認や
    教会墓地についての話し合いをします。
    みなさま、ご出席をよろしくお願いします。

    ② あすは神学校研修会が午前10時30分よりオンラインで開催されます。
    今回の講師は石田学先生です。
    「⼀つの体(Global Church)の肢体としての⽇本ナザレン教会
    わたしたちの歩むべき道についての提言」という題で講演をしてくださいます。
    出席するみなさんにとって良い学びとなるよう覚えてお祈りください。
    今回の研修会はどなたでも参加可能です。
    出席をご希望の方は基嗣牧師までお知らせください。
    ZOOMのURLをお送りします。

    ③ 来週日曜日は礼拝後に教会役員会を開催します。
    教会役員のみなさま、よろしくお願いします。
    今回は礼拝後に短縮で行う予定です。

    ④ 毎年恒例のピクニックを10月20日(日)の礼拝後、祈りの家で予定しています。
    大体の人数把握のため、現時点で参加をご希望の方は
    受付テーブルに置いてある用紙にお名前をご記入ください。



    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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