朗読箇所
三位一体後第19主日
旧約 レビ記 17:10–14
◆血を飲むな
10 イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。
11 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。
12 それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。
13 イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。
14 すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。
新約 ヨハネによる福音書 6:51–59
◆
51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
説教
主イエスはわたしたちの内にとどまっている
-
説教者 稲葉基嗣牧師
イエスさまが自分のことについて、
「わたしは命のパンである」と語ったとき、
それを聞いた人たちは混乱しました。
イエスさまが命のパンを与えると語るだけならば、
その言葉を受け止めやすかったと思います。
イエスさまを通して、いのちのパンを受け取り、
毎日養われて生きていく。
神によって遣わされたイエスさまが
自分たちに良いものを分けてくれる。
イエスさまが命のパンを与えると語るならば、
そんなイエスさまの姿を
人びとはイメージすることができたことでしょう。
でも、イエスさまは何と言ったでしょうか。
イエスさまが分け与えるパンとは、
自分自身のことだとイエスさまは伝えました。
イエスさま自身が神のもとから訪れて、
この世界に永遠のいのちを与える
パンそのものなんですよ、と。
イエスさまのこの発言を
一体どれだけの人が
受け止めきれたのでしょうか。
その場にいた人たちは
イエスさまの言葉の真意を掴めず、
混乱し、つぶやき合っていました。
このようにイエスさまの語る言葉は
周囲の人たちから十分に理解を得られず、
むしろ混乱を生み出しているのですから、
この辺で話を切り上げて、
後日改めて議論した方が
最適なようにも思えます。
でも、それなのに、
イエスさまは更に話を続けます。
イエスさまは「私が与えるパンは、
世を生かすために与える
私の肉である」(51節)と言います。
なんとも、生々しく、
そして、おどろおどろしい表現でしょうか。
比喩的な表現であるとわかっていたとしても、
イエスさまの血や肉を食べるような、
そんなあり得ない想像をさせられてしまいます。
これには、その場にいた人々も
ギョッとさせられました。
現代に生きるわたしたちにとっても、
それはあり得ない表現です。
けれども、当時のユダヤ人たちにとって、
自分の肉を食べ、血を飲むことを
促しているイエスさまの言葉は、
わたしたちが感じる以上に
あり得ない表現でした。
というのも、ユダヤ人たちにとって、
肉と血を一緒に食べることは、
律法の言葉が禁じていることだったからです。
彼らにとって、血は命そのものでした。
食べるため、またはいけにえとして捧げられるために、
動物が人間の手によって殺される時、
ユダヤ人たちは血抜きを確実におこない、
その肉に血を含まないようにしました。
いのちである血と一緒に
肉を食べてはいけないからです。
そのように血を食べないことを
徹底することを通して、
また、動物から血が流される時、
その命である血を見つめることを通して、
彼らは命の尊さを学んだことだと思います。
そんな彼らに対して、
自分はいのちのパンであり、
自分が人びとに与えるパンとは、
自分の肉と血であると
イエスさまは伝えているわけです。
なぜユダヤ人たちが食べることを
禁止されているものを
イエスさまはわざわざ
彼らに提示しているのでしょうか。
それは、まさにイエスさまが自分自身の存在を
わたしたちに与えていることを伝えるためでした。
イエスさまは自分が持っている良いものを
単に分け与えるためだけに、
わたしたちのもとに
やって来たわけではありません。
自分は何も失わず、まったく傷つかない。
そんな方法で、イエスさまは
わたしたちに関わっているわけではありません。
むしろ、わたしの肉を食べ、
わたしの血を飲むようにと伝える、
イエスさまの言葉からは、
イエスさまが自分自身の命のすべてを
注ぎ出していることが伝わってきます。
遠いところからわたしたちに必要なものを送って、
わたしたちを支援するといった方法ではなく、
イエスさまは天から下り、
わたしたちのそばで生きて、
わたしたちのために命を注いで、
この世界に、そしてわたしたち一人ひとりに
関わってくださっています。
あなたが命を得るために、
あなたが命に喜びを見出すために、
わたしはあなたのもとにやって来た。
あなたが永遠の命を得て、
神との交わりに生きるために、
あなたが復活の命を得て、
天の御国に希望を見出すために、
わたしはあなたのもとにやって来たと、
イエスさまは語りかけておられます。
このことを伝えるためには、
パンという比喩だけでは不十分でした。
肉と血によって、
まさに自分の全存在を注ぎ出すことによって、
イエスさまはわたしたちを愛し、
わたしたちに関わろうとしておられます。
そんなイエスさまは、わたしたちに
イエスさまの肉を食べ、
その血を飲むようにと招いておられます。
もちろん、それは文字通りのことを
行うことではありません。
食べて、飲むことは、
その食材や飲み物が
自分にとって良いものだと信じて、
受け止めることです。
また、食べて、飲むことは、
食べたものや飲んだものが、
わたしたちの身体の中を行きめぐり、
わたしたちの身体を養い、
わたしたちの身体の一部となっていくことです。
イエスさまが、ご自分の肉を食べ、
血を飲むようにと語ることを通して、
わたしたちに伝えたいことは、
そういったことです。
わたしたちはイエスさまが
わたしたちと共に生き、
わたしたちの日常を
共に歩んでくださっていると信じています。
けれども、それは単に、
イエスさまがそばにいるという話ではありません。
イエスさまはもっと近くに、
わたしたちの確かな霊的な現実として、
わたしたちの内にいてくださっています。
パンや肉によって身体を整えられ、
生かされ、元気づけられるように、
イエスさまはわたしたちの全存在を
養おうとされています。
それは単に、イエスさまが
わたしたちの身体に元気を与え、
心に充足感や安心を与える
という意味ではありません。
イエスさまは、すべての人に、
特に、誰の目にも留まらず、無視され、
蔑まれてきた人たちに憐れみを注ぎました。
そのような憐れみ深いイエスさまが、
わたしたちの内にとどまり、
憐れみに生きる方法を教えてくださいます。
自分と共に生きる人たちやこの世界に対して、
憐れみを抱いて生きることがわたしたちにとって、
最も自然な方法となるように、
血となり、肉となって、
わたしたちの一部となるように、
イエスさまが少しずつ働きかけてくださっています。
イエスさまは暴力や権力によって
人を支配するのではなく、
自分がへりくだることを通して、
力ではなく、弱さによって、
平和を築いていく道を模索されました。
そのためにイエスさまは命を注がれました。
そんなイエスさまがわたしたちの内にとどまり、
わたしたちに平和を作る道を
教えてくださっています。
ですから、イエスさまの肉と血を食べて、
つまり、イエスさまを心の内に受け止めて、
わたしたちの全存在でイエスさまを受け止めて、
イエスさまがわたしたちの内にとどまるということは、
イエスさまの平和への望みや、愛や憐れみ、
それをわたしたちの周りで実現していくための
祈りや行動、生き方が
わたしたちの一部となっていくということです。
イエスさまがご自分のすべてを注いで、
わたしたちに関わってくださっているからこそ、
イエスさまは、わたしたちの内に
とどまってくださっています。
そして、そんなイエスさまによって、
わたしたちは今も少しずつ、変えられています。
イエスさまは、わたしたちの内に
とどまることを通して、
わたしたちの内に愛や憐れみの心を育み、
平和と正義を愛する思いを
養ってくださっています。
それはとても驚くべきことですね。
ところで、イエスさまは
五千人以上の人たちを
わずかなパンと魚によって養った物語の後に
この話を語りました。
ですから、命のパンについて語ったイエスさまは、
この食事を決して
プライベートなものとしては考えてはいません。
むしろ、たくさんの人たちが
一緒に味わうものだと考えています。
命のパンであり、
命を注ぐ肉であり血であるイエスさまを
わたしたちはたった一人で独占し、
味わうわけではありません。
わたしたちは教会に集う、友たちと一緒に、
この命のパンを分かち合い、味わいます。
一緒に、イエスさまを受け入れ合い、
イエスさまがわたしたちの人生に
一体何をしてくださっているのか、
何を教えてくださっているのかを味わい、
お互いにその喜びや
受けた恵みを分かち合います。
わたしたちが生きるこの社会において、
一体わたしたちはどのようにしてキリストの愛を表し、
憐れみをもって生きることができるのかを
分かち合い、お互いの声を受け止め合いながら、
キリストの愛と憐れみを
自分たちのものとして受け止め、
自分たちの一部にしていきます。
そして、わたしたちが生きるこの世界において、
どのように正義を願い、
どのようにわたしたちの周囲で
平和を築いていくのかを分かち合いながら、
わたしたちはキリストの平和を
受け止めて歩んでいきます。
どのようにしてキリストの平和を
わたしたちの心や行動に根付かせるのかを
わたしたちは一緒に考え、探っていきます。
自分たちの日常生活や
関わり合う人たちとの関係の中に、
キリストの平和をどのように花開かせていくのかを
わたしたちはお互いに模索します。
そして、わたしたちはお互いに
キリストにある平和を分かち合いながら、
キリストの平和を自分自身の、
そしてわたしたち教会の一部としていきます。
そのようにして、これからも、
イエスさまを心の内に宿しながら、
わたしたちは信仰の旅路を
一緒に歩んで行きましょう。
週報より
- 2024.10.06 週報より抜粋・要約
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① 先週の日曜日は、教会全体会を開催しました。
小山祈りの家にある教会墓地について、新しく一区画、永代使用権を取得し、
墓石を追加で一基購入することについての確認をしました。
教会のこれからのことについても意見交換をすることができました。
詳しくは、全体会の報告書をご覧ください。
ご出席くださったみなさま、ありがとうございました。
② 来週日曜日は礼拝後に教会役員会を開催します。
教会役員のみなさま、よろしくお願いします。
今回は礼拝後に短縮で行う予定です。
③ 今週土曜日から、ナザレン次世代キャンプが目黒教会で開催されます
韓国、台湾、日本のナザレン教会の部会に所属する、青年向けのキャンプで、
今回は日本のナザレン教会がホストとなって開催されます。
小山教会からは3名の方が参加予定です。
参加する青年の方たちにとって良い時間となるよう、覚えてお祈りください。
飛び入りでの参加も可能でしょうから、
興味のある方はぜひ、目黒教会まで足をお運びください。
詳細を知りたい方は、稲葉奈々さんにお尋ねください。
④ 毎年恒例のピクニックを10月20日(日)の礼拝後、祈りの家で予定しています。
大体の人数把握のため、現時点で参加をご希望の方は
受付テーブルに置いてある用紙にお名前をご記入ください。
・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
・書き損じ・出し忘れのはがきをください
(アジア学院に寄付)
・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
牧師にお知らせください。
小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
詳しくは牧師にお尋ねください。
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以上