説教者 稲葉基嗣牧師
イエスさまについての物語を読むと
イエスさまは大勢の人びとに
囲まれていた印象を受けます。
病気を癒やし、たくさんの奇跡を起こし、
多くの人を驚かせる教えを語る。
そんなイエスさまに会うために、
たくさんの人たちが
イエスさまのもとにやって来たことを
福音書記者たちは報告しています。
でも、そんなイエスさまの言葉が
いつも喜ばれていたわけでもなければ、
イエスさまのもとに
常にたくさんの人たちが
残ったわけでもなかったことを
ヨハネ福音書は書いています。
イエスさまが5つのパンと2匹の魚を用いて、
五千人以上のたくさんの人たちを養ったとき、
人びとはその出来事に驚き、
そしてイエスさまのことを喜んで歓迎しました。
翌日、一部の人たちはイエスさまを探して、
今回の出来事について、
イエスさまから直接、話を聞きます。
イエスさまの言葉に戸惑いながらも
イエスさまと対話を続ける彼らについて、
ヨハネ福音書は彼らの呼び方を
群衆から、ユダヤ人、そして弟子たちへと
変化させていきました。
それはまるで、イエスさまと
対話を続けたこの人たちが
イエスさまのことを徐々に
受け入れていったようにも見えます。
でも、ひとり、またひとりと
イエスさまのそばを離れていき、
最終的にその場所に残ったのは、
12人の弟子たちだけでした。
「これはひどい話だ。
誰が、こんなことを聞いていられようか」(60節)。
そう吐き捨てながら、
イエスさまの話を聞いた人たちは、
イエスさまのもとを去って行きました。
イエスさまが語る話は、
そんなにもひどい話だったのでしょうか?
そして、どれほど彼らにとって、
受け入れ難いものだったのでしょうか?
たしかに、命を得るために、
自分の肉を食べ、
血を飲むようにと語る
イエスさまのその話は、
多くの人にとって受け入れ難いものでした。
イエスさまの言葉を文字通り受け取るならば、
人肉を食べるという話になってしまうので、
それはとても実践できるものではありません。
文字通り受け取らなかったとしても、
肉と血という言葉の組み合わせは、
神へ捧げるいけにえを連想させます。
イエスさまの肉が引き裂かれ、
血が流されることを通して、
この世界が命を得る。
そんなことまで想像できたかもしれません。
そうであったとしても、
自分の存在を大きく見せ、
現実離れしたことを
伝えているように聞こえたと思います。
でも、新約聖書が伝えている
イエス・キリストの物語の、
その終わりまでを知るならば、
それは不自然な表現には聞こえません。
だって、神の子であるイエスさまは、
苦しみ、心も身体も傷つきながら、
すべての人への愛と憐れみを示したからです。
文字通り、肉体を傷つけられ、血を流して、
十字架の死と復活を通して、
イエスさまはその命を
この世界に差し出しました。
それは、すべての人が神からの赦しを得て、
命を得るためです。
でも、どれだけ言葉の限りを尽くしても、
イエスさまを通して命を得るということは、
イエスさまの言葉を聞いていた人たちにとって、
理解し難いことでした。
そのため、多くの人たちは
イエスさまの言葉を理解できず、受け止めきれず、
イエスさまのもとを去って行きました。
周りからの理解を得ることができず、
人びとが自分のもとから去って行くとき、
イエスさまはきっと
淋しい思いをしただろうなと想像します。
そんなとき、多くの人はきっと、
何とかして残った人びとを
繋ぎ止める方法を考えるかもしれません。
語る言葉をほんの少し和らげたり、
できる限りたくさんの人が受け止めやすい話へと
話題を変えようとするかもしれません。
けれども、イエスさまは
そのような対応はしませんでした。
むしろ、去って行く人びとは、
去って行くがままにしました。
イエスさまは彼らの意思や思いを尊重して、
彼らを去らせています。
何よりも、自分のもとに残った
12人の弟子たちに向かっても、
「あなたがたも去ろうとするのか」と言って、
彼らの意思を尊重する姿勢を示しています。
自分のもとに決して縛り付けず、
イエスさまと一緒にいることを
彼らが自由に選び取る機会を
イエスさまは彼らに与えました。
そのような自由を与えられているのは、
このときにイエスさまのそばにいた
人たちだけではありません。
イエスさまの言葉を受け止めるのか、
それとも拒絶するかの自由を
わたしたちは与えられています。
たしかに思い返してみると、
旧約聖書の時代から、
神はそのような形で人間に関わる方でした。
預言者ヨナが神の言葉を拒絶したとき、
神はヨナに逃げる自由を与えていました。
強制的に服従させることは信仰ではありません。
神はそのような関係を
わたしたちと築こうとは願っていません。
また、イエスさまもそのような関係を
わたしたちと築こうとは願っていません。
イエスさまを信じることも、
イエスさまと共に歩むことも、
決して押し付けられて始まるものではありません。
イエスさまを信じることも、
イエスさまと共に歩むことも、
わたしたちが自由に選び取ることができるものです。
そんな自由をわたしたちに確かに保障しながら、
イエスさまはわたしたちをいつも招いておられます。
それは、わたしたちが
イエスさまと一緒に歩む道を喜んで選び取り、
この信仰の旅路を歩んで行けるようにするためです。
そのために、イエスさまはいつも自由な選択を
わたしたちの前に用意してくださっています。
でも、そんなイエスさまの姿勢は、
時に放任主義や無責任のように
感じられるかもしれません。
「わたしは命のパンである」と語るイエスさまは、
この世界に命をもたらしたいと願っています。
それにもかかわらず、
自分を受け止めてもらえないならば
それはそれで良いといった諦め半分の姿勢で
イエスさまはいるのでしょうか。
もちろん、そうではありません。
イエスさまは決して、
自由を与えることによって、
わたしたちを見放そうとしている
わけではありません。
だって、神の子であるイエスさまは、
わたしたちのもとに来て、
人間として生活する必要など、
本来はなかったのですから。
人となって生活しなければ、
苦しみも、悲しみも
味わうことはありませんでした。
無視され、裏切られ、
暴力に晒されることもありませんでした。
それなのに、神の子であるイエスさまは、
人となってわたしたちと共に生きることを
選んでくださいました。
文字通り、その身を割いて、命を削って、
イエスさまはわたしたちと
共にいることを選んでくださいました。
それは、わたしたちが自由の選択の結果、
イエスさまに背を向けたとしても、
それでも、イエスさまは見放さず、
決して諦めずに、わたしたちのそばに
共にいようとしてくださっているということです。
イエスさまは拒絶されるのも十分覚悟の上で、
わたしたちのもとに来てくださっています。
それでも、わたしたちを見捨てず、決して見放さず、
いつも手を差し伸べ、
わたしたちにその命を分かち合いたいと
願っておられます。
そのようにして、イエスさまは
いつもわたしたちと
共にあろうとしてくださっています。
イエスさまがそのような方だからこそ、
12人の弟子たちの中に
イスカリオテのユダがその仲間として
一緒に居続けたのではないでしょうか。
ユダは、イエスさまを最終的に
裏切ることになる人物として
よく知られていますね。
日本語訳の聖書で、イエスさまはユダに対して、
「悪魔だ」と言っていることには驚きます。
でも、ここでイエスさまは、
ユダが救いようもない、悪魔的な存在で、
滅びて当然の人間だといったような意味で
このように言っているわけではありません。
ここでは、「告発する者」という意味で
言っているのでしょう。
実際に、ユダがイエスさまを
十字架刑へと導くことになる
裁判の場に引き渡すわけですから。
イエスさまは、12人のうちの一人が、
自分を裏切ろうとしていると
わかっていたとしても、
彼らと共にあろうとしました。
いえ、ユダにばかり目が行きがちですが、
実際のところ、最後の最後には、
誰もがイエスさまを見放して、逃げて行きました。
そのようなことを十分わかった上で、
イエスさまは弟子たち一人一人と
共にいることを選んでくださいました。
それは、イエスさまが彼ら一人一人を
決して諦めていなかったからです。
ですから、同じように、
わたしたちがどこへ行こうとも、
何をしようとも、そして過ちを犯そうとも、
イエスさまは決してわたしたちを見捨てずに、
わたしたちと共にあろうとしてくださいます。
そのようなイエスさまの姿は、
信仰の旅路を歩み続けるわたしたちの歩みを
勇気づけ、励ましてくれるかのようです。
だって、わたしたちはいつも、
何が正しくて、何が過ちなのかが
わかっているわけではないからです。
いつも悩みながら、何かを選び取り、
また時には選ばずに、生きています。
でも、そのような中においても、
確かにイエスさまはわたしたちと
共にあろうとしてくださっています。
わたしたちと共に歩んでくださっています。
そんなイエスさまが共にいてくださるのだから、
わたしたちはいつもイエスさまに頼りながら、
歩んで行きたいですね。
悩むときは、導きを与えてくださるように。
過ちを犯してしまうときは、
謝罪する勇気と、
軌道修正をする力を与えてくださるように。
逆境のときは、希望を失わないでいられるように。
助けを必要としている人がそばにいるならば、
憐れみがわたしたちの心に溢れ、
手を伸ばすことができるように、と。
どうか、そんな風に神に対する祈りの心を持ちながら、
わたしたちと共にいてくださるイエスさまと共に、
みなさんがこれからもこの信仰の旅路を
歩み続けて行くことができますように。
祈りましょう。
祈り
主イエスにあって、わたしたちと共にいてくださる神。
どのようなときも、私たちの歩みを
導いてくださっていることを感謝します。
わたしたちの信仰の旅路は、
悩みもあれば、過ちもあります。
どうかいつもあなたの声に耳を傾けながら、
共にいてくださるイエスさまの助けを求めながら、
この信仰の旅路を歩ませてください。
主のみ名によって祈ります、アーメン。