小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  主イエスはかき乱す

朗読箇所

三位一体後第22主日

旧約 イザヤ書 11:1–8

◆平和の王
1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
4 弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
5 正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。
6 狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
7 牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。


新約 ヨハネによる福音書 7:10–24

◆仮庵祭でのイエス
10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。
11 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。
12 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
14 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。
15 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、
16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。
19 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」
20 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」
21 イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。
22 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。
23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。
24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

説教

主イエスはかき乱す

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    わたしたちは、イエス・キリストは
    平和の主であると信じています。
    イエスさまは、当時の社会の中で、
    罪人と呼ばれた人たちや、
    蔑まれ、無視されてきた人たちと関わり、
    彼らを自分の友と呼びました。
    そんな風にして、すべての人の友となることを願った
    イエスさまの姿を見つめることを通して、
    わたしたちは出会う人たちの友となって生きることの
    大切さとその必要性を教えられます。
    どれだけ傷つけられても、
    どれだけ裏切られても、
    わたしたちの友であり続けることを
    決して諦めなかったイエスさまは、
    わたしたちの間に立って、
    いつも平和を願ってくださっています。
    だから、わたしたちも
    お互いのことを受け入れ合いながら、
    できる限り平和のうちに
    生きていけたらと願っています。
    イエスさまがわたしたちの生きるこの社会やこの世界に
    平和を築いていく方法は、
    イエスさまと出会い、
    イエスさまの愛に触れた人たちを通して、
    少しずつその平和が浸透していくことにあります。
    だからこそわたしたちは、福音書で描かれている
    イエスさまの姿を見つめることを通して、
    どんな風にこの世界やわたしたちが生きる社会に、
    平和を築いていくことができるのかを思い巡らします。
    戦争がいつまでも終わらず、
    差別に苦しむ人たちの叫びが
    いつまでも鳴り響いている、
    そんな世界で生きているわたしたちにとって、
    平和を築いていくことは、
    心からの願いだからです。

    けれども、福音書の物語を読み進めてみると、
    大変なことに気付かされます。
    どうやら、イエスさまの生涯は、
    平和で満ちていたわけではありませんでした。
    イエスさまの周りにはいつも論争があり、
    イエスさまはいつも人びとの敵意に晒されていました。
    多くの場合、既に存在する論争や、
    人びとが憎しみ合い、敵対するそのただ中に、
    イエスさまが入り込んで行ったわけではありません。
    驚きなのは、イエスさまの側から
    波風を立て、人びとの日常をかき乱し、
    騒ぎをより大きくしているかのようであったことです。

    さきほど読んだヨハネによる福音書の物語の中には、
    イエスさまに対する評価を巡って
    語り合っていた人びとの言葉が記録されています。
    そのうちの一人は、イエスさまについて
    「群衆を惑わしている」と語っています。
    まさにイエスさまが人びとの日常に
    平穏を与える存在だったというよりは、
    かき乱し、波風を立てる
    存在であったことが伝わってきます。

    イエスさまが祭りに参加するために
    エルサレムへ行った時も、
    イエスさまは騒ぎを起こしました。
    それはもちろん、
    暴力沙汰のような騒ぎではありません。
    それは、律法をどのように解釈するのかを
    巡ってのものでした。
    ヨハネによる福音書は、イエスさまがこの時に
    神殿で具体的に何を教えていたのかについては
    記録していません。
    確かなことは、イエスさまが語るその教えを
    聞いていた人たちが驚いたことと、
    安息日にかんするイエスさまの考えが
    記されていることです。
    人びとが驚いたのも当然です。
    イエスさまは、ユダヤ人たちの教師であるラビの下で、
    聖書について学んだわけではありませんでした。
    それなのに、深い洞察力をもって、
    説得力のある聖書の教えを語るイエスさまの姿は、
    人びとにとって不思議でなりませんでした。
    だからイエスさまは、彼らに自分の教えが
    どこから来ているのかを説明しました。
    自分自身の考えを好き勝手話しているのではなく、
    神が伝えたいと願っていることを
    自分は話しているに過ぎないんですよ、と。
    この後のイエスさまの言葉は、皮肉交じりです。
    神が抱く思いを知って、それを行おうとする人ならば、
    イエスさまが話すことが、神から来ているのか、
    そうでないのかはわかるよね、
    と言っているからです。
    人びとがイエスさまの言葉を
    適切に判断できないと言うならば、
    彼らは神の思いを知っていないと
    伝えているようなものです。
    何とも反応しにくい言葉でしょうか。
    その上、イエスさまは、
    「あなたがたは誰もその律法を守らない」と言って、
    神の思いを知っている人はいないから、
    自分のことを適切に判断することは難しいかもねと、
    伝えているかのようです。
    とても喧嘩腰に思える言葉です。

    なぜイエスさまはこのような強い言い方をして、
    人びとの心をかき乱そうとしたのでしょうか。
    それは、律法に表されている
    神の思いを汲み取って、
    生きることができているのかと、
    人びとに改めて問いかけたかった
    からではないでしょうか。
    イエスさまが引き合いに出すのは、
    7日に一度、仕事の手を止めて、
    完全に休むという、安息日の制度についてです。
    イエスさまの念頭にあるのは、
    安息日に病人を癒すことについてでした。
    それは、イエスさまが実際に行い、
    ユダヤの宗教指導者たちに
    問題視されていたことです。
    イエスさまは、安息日に病を癒すことは、
    安息日に許されることだと伝えようとしています。
    その際、イエスさまが議論に用いているのは、
    安息日と割礼の関係でした。
    割礼は、生まれた子どもがユダヤ人であり、
    神の民であることを身体に刻み込む、
    彼らにとってとても大切なしるしでした。
    律法の規定に従って、
    ユダヤ人たちは、生後8日目に、
    男の子の赤ん坊の男性器の皮を切りました。
    この割礼の儀式が、
    安息日とどのような関係があったのかというと、
    8日目が安息日だった場合、
    割礼を施すことは仕事とみなされたからです。
    安息日も割礼も、どちらも大切なことでしたが、
    ユダヤ人の律法についての議論によれば、
    7日ごとに必ず訪れる安息日よりも、
    人生でただ一度だけ訪れる
    割礼の日が優先されました。
    イエスさまは、この議論を用いて、
    安息日に病を癒すことの正当性を伝えようとしました。
    割礼を施すことによって、身体の一部のために、
    安息日に仕事をすることが許されるならば、
    身体全体が癒やされるために、
    安息日に仕事をすることが許されるのは当然でしょう?
    とここで伝えているのです。
    表面的に律法を守ることではなく、
    そこに込められている神の願いを汲み取りながら、
    判断することが大切なんだよと、
    イエスさまは安息日についての律法を通して、
    その場にいる人たちに伝えました。

    イエスさまのこの議論は、
    もっともらしい結論に導いているように思えます。
    でも、そもそもこの話は、
    イエスさまが安息日に病人を癒すことをしなければ、
    始まることがないものでした。
    イエスさまが安息日の掟を破らなければ、
    ユダヤの宗教指導者たちの心をかき乱し、
    彼らの反感を買うこともなかったでしょう。
    それなのに、イエスさまは
    安息日に病人を癒やしました。
    そしてこの時、
    安息日についての論争の続きを
    自ら進んで再開しました。
    イエスさまは自ら進んで、
    人びとの当たり前をかき乱し、
    混乱をもたらしています。
    きっと、ユダヤの宗教指導者たちは、
    こんな混乱など望んでいません。
    自ら進んで、安息日の理解に挑戦を突きつけて、
    人びとの心や常識をかき乱すなど、
    彼らにとっては不愉快なことだったと思います。

    それなのに、福音書において、
    イエスさまが自ら進んで、
    人びとの心をかき乱し、
    常識や当たり前に
    疑問を突きつけているのは、
    一体なぜなのでしょうか。
    きっと、人びとが律法を守るその背後で、
    苦しんでいる人たちがいたからでしょう。
    安息日は、すべての人が
    社会的身分や立場や性別など関係なく、
    等しく、平等に、立ち止まり、
    神が造られた世界で命を与えられて生きることを
    喜び、お祝いする日です。
    けれども、そんな喜びの日の背後で、
    苦しんでいる人がいる。
    自分の命を喜べない人がいる。
    そんな現実に人びとが目を向けて、
    ユダヤの社会が彼らに
    手を差し伸べることができるようになることを願って、
    イエスさまは彼らの心をかき乱したのではないでしょうか。
    すべての人に平和が実現することは、
    当たり前や常識が揺るがされずに、
    保たれ続けることとは違います。
    当たり前や常識の背後で、
    それらに押しつぶされて
    苦しんでいる人たちがいます。
    当たり前や常識という価値観の下で、
    不利益を被っている人たちがいます。
    そんな人たちは、
    イエスさまの周りに、確かにいました。
    だから、イエスさまは彼らに手を差し伸べるために、
    常識や当たり前を揺るがし、
    人びとの心をかき乱そうとしたのではないでしょうか。
    キリストの平和がすべての人に届くことを願って、
    当たり前や常識の背後で苦しむ人たちのために、
    イエスさまはたくさんの人たちの心を
    かき乱す方なのです。

    さて、ということは、
    わたしたちが平和を求めるということは、
    単に、平穏な日常が続くことだけを
    意味しないことは明らかです。
    わたしにとっての常識は、
    誰かにとっての非常識です。
    わたしにとっての居心地の良さは、
    誰かにとっての居心地の悪さである
    そんな可能性を忘れてはいけません。
    その意味で、誰かのもとに平和が届くために、
    時には、わたしたちの常識や
    当たり前が揺るがされたり、
    わたしたちの心がかき乱される
    そんな必要があるということです。
    たしかに、戦争がなくなることは、
    わたしたちの大きな願いです。
    ですが、それでも、戦争がなくなりさえすれば、
    平和が訪れるというわけではありません。
    既に、日常の中で、常識や当たり前に押しつぶされ、
    居心地の悪さを感じ、権利を認められず、
    見えない場所で叫んでいる人がいるのならば、
    それは平和ではないのです。
    だから、平和の主であるイエスさまは、
    そのような人びとに平和をもたらすために、
    常識や当たり前を問い直し、揺るがし、
    わたしたちの心をかき乱そうとされるのです。

    わたしたちの信じる神は、
    わたしたちの歴史に働きかけ、
    時にはわたしたちの当たり前や常識を問い直し、
    わたしたちの心に揺さぶりをかける方です。
    いいえ、今も、神はわたしたちを揺さぶり、
    かき乱す神です。
    奴隷制度の廃止や女性たちの参政権の獲得、
    男女平等や性別による格差の解消、
    性的少数者の方たちの権利を獲得することを
    この社会が今、少しずつ目指していることを通して、
    神はわたしたちの常識や価値観を揺さぶり、
    わたしたちの心をかき乱してきました。
    その意味で、わたしたちが誰かとの出会いを通して、
    自分の持つ常識や価値観が揺さぶられるならば、
    わたしたちの心がかき乱されるならば、
    それは、わたしたちの社会や教会の中で、
    居場所がない人たちがいることの
    証しなのかもしれません。
    わたしたちは、すべての人のもとに
    キリストの平和が訪れることを願っています。
    だからこそ、神がわたしたちの常識を揺るがし、
    心をかき乱すならば、
    その物事を真摯に受け止めたいと思うのです。
    どうか、イエスさまが引き起こす、
    そのかき乱す物事にしっかりと目を向けて、
    聞こえてくる小さな声に
    耳を傾けることができますように。
    そして、わたしたちを結びつける神の愛と
    キリストにある赦し、
    そして聖霊による導きを信じながら、
    柔軟に変わることができる、しなやかさをもって、
    きょうも、そしてこれからも、
    わたしたちの教会の交わりが
    共に歩んで行くことができますように。

週報より

  • 2024.10.27 週報より抜粋・要約

  • ① 先週の日曜日は、礼拝後に小山祈りの家でピクニックを行いました。
    気持ちの良い天気の中で楽しい交わりのときを持つことができました。
    ご参加くださったみなさま、ありがとうございました。

    ② きょうは礼拝後に、月報『モレノ』の編集会をおこないます。
    モレノチームのみなさまはよろしくお願いいたします。
    月報への絵、原稿、写真などの寄稿はいつでも募集しています。
    寄稿をしていただける方は牧師までお知らせください。

    ③ 11月9日(土)から10日(日)にお泊り会を予定しています。
    キャンドルサービスで予定しているこどもたちの劇の準備のため、
    9日(土)の午後からお泊り会を開催する予定です。
    食事準備(夕飯と朝食)などをお手伝いいただける方は、
    基嗣牧師またはポール・レディングトンさんまでお知らせください。
    様子を見に来たり、差し入れをしていただくことも大歓迎です。

    ④ 来週は礼拝の中で、召天者記念式を行います。
    わたしたちよりも先に、わたしたちの故郷である天の御国へと帰った方々を
    思い起こし、記念する時を持ちます。お写真がある方はご用意をお願いします。

    ⑤ 来週は礼拝後、ティータイムのあとに月例教会役員会をおこないます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いいたします。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像